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やる気の出し方
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インドに最初に誕生したイスラーム政権である 奴隷王朝 (1206-1290) に始まり、ハルジー朝(1290-1320)、トゥグルク朝(1320-1413)、サイイド朝 (1414-51)、ローディー朝 (1451-1526) と継起する王朝は いずれもデリーを首都とし、君主がスルタンを名乗ったので、これらを一括してデリー・スルタン朝と呼び、その 320年にわたって展開した 北インドのイスラーム美術を総称する。 西方からもたらされた美術・建築の技術と様式を摂取し インド化していった過程なので、その後の、インド・イスラームの爛熟期というべき ムガル朝の美術に比して、古拙な印象を免れない。出発点をなす メフローリ地区の クトゥブ・モスクは、取り壊したヒンドゥー寺院やジャイナ寺院の部材を用いて インドの伝統的な手法で建てたが、まだ真のアーチやドームの構法を知らずに 形のみを模倣した部分が多かった
ヨーロッパで形成された アーキテクチュアという抽象的概念と、それを体現する アーキテクトというプロフェッションは、明治以降、我が国にも移植されてきた。ところが日本には そうした伝統がなかったために、それらの概念は正しく理解されず、本来の理念とは異なった、あいまいな形に定着されてしまった。そのプロセスと現状を、主としてアーキテクトの訳語の変遷を通して検証し、その打開を提言する。 筆者は インドを旅することが多いのであるが、あるとき ホテルで新聞を読んでいたら、ARCHITECT と言う文字が目についた。だれか 建築家のことが扱われているのかと思ったら そうではなく、ドイツの大数学者、フェリックス・クラインについての記事であった。彼を「近代数学のアーキテクト」と称して 誉めたたえているのである。これを「近代数学の建築士」と訳すわけにはいかないだろう。それでは誉め言葉にならないからである。 ある
『 水源 』 アイン・ランド著 藤森かよこ訳 ( Ayn Rand: The Fountainhead, 1943 ) 2004年7月発行、ビジネス社、A5判、1,040ページ、5,250円 映画 『摩天楼』の原作小説の日本語訳がこの夏に出版された、と言えば、年配の建築関係者なら誰もが エッと驚くことだろう。映画とは題名が異なる上に、訳書ではそのことが強調されていないし、そのような宣伝もなされなかったから、建築雑誌でも全く紹介されなかったので、この本のことは、建築界には ほとんど全く知られていないからである(出版社の 販売戦略のミスだと言えよう)。 多くの人は あの映画に原作小説があったということさえ知らないかもしれないが、私以上の年配の建築家なら、一度はあの映画を見たことがあり、強く記憶に残っているはずである(日本での公開は 1951年)。 あの映画を見たことが 建築家を志すきっかけにな
キリスト教は 中東のシリア・パレスチナで誕生し、急速に周囲に広まっていったが、当時 ヨーロッパから中東地域を支配していたローマ帝国からは 激しく弾圧された。 庶民のあいだに定着していったキリスト教を ローマ帝国が公認するのは 313年のミラノ勅令によってであり、それを国教にするのは テオドシウス帝の 350年のことである。 しかし、それより半世紀も早く、301年に世界で最初にキリスト教を国教にしたのは 中東の北部にあるアルメニア王国であった。 アルメニア教会を確立したのは (アルメニアの)聖グレゴリウスであったから、アルメニア正教は 東方キリスト教の中の グレゴリウス派とも呼ばれる。 伝説が伝えるところでは、カッパドキアで修行したあと アルメニアに戻って布教していたグレゴリウスは、トリダテス 3世王によって ホール・ヴィラプの地下牢に幽閉されてしまった。 その頃 ローマ帝国の皇帝が フリ
1965 東京芸術大学 入学(美術学部・建築科 ) 1968 「富士高原に建つ別荘」設計競技入選 1969 東京芸術大学 卒業(昭和 44年 ) 1971 山下和正 建築研究所に勤務(~1976) 『 フロムファースト・ビル 』(1976年度 日本建築学会賞 受賞) 等の設計・監理を担当 1976 最初のインド建築研究・撮影旅行( 3ヵ月間 ) 以後、世界各地の建築文化を訪ねて 46回、延べにして 1500日以上を旅する 1980 神谷武夫 設計事務所 設立(一級建築士事務所 ) 1983 神奈川建築コンクール 最優秀賞 受賞(『 横浜の町家 』) 1987 訳書 『イスラムの 建築文化 』を出版(原書房 ) SD レビュー入選(『 クロイスター』) 1989 訳書 『 楽園のデザイン ― イスラムの庭園文化 』 を出版(鹿島出版会 ) 1990 GID コンペ入賞(『
アフリカ大陸は、建築文化的には 北部の地中海に面した「アラブ・アフリカ」と、サハラ砂漠以南の「サブサハラ・アフリカ(ブラック・アフリカ)」とに二分される。アラブ・アフリカは 東から順に エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコの 5カ国で、マグリブ地方ともいわれる。7世紀以後 中東のアラブ・イスラーム文化が流入し、アラブ人が移住して ベルベル人などと混血し、アラビア語を主言語とするようになった。 古代エジプト文明を別にすれば、ウマイヤ朝の石造建築と アッバース朝のレンガ造建築に始まる 正統的なイスラーム建築を発展させてきた地域である。質量ともに 西アジアのイスラーム建築に比べて遜色はなく、特にカイロは イスラーム文化のひとつの中心であり続けてきた。 これに対して サブサハラ・アフリカ(ブラック・アフリカ)は 黒人の国々であり、20世紀の後半に ヨーロッパの植民地から独立しながら
● 2006年に執筆し、2007年の1月に出るはずだった『イスラーム建築 その魅力と特質』は、彰国社を始め どこの出版社も 足並み揃えて出版拒否をして この世から抹殺しようとし、「幻の書」となってしまったので、たった1部だけ残ったゲラ刷りをスキャンして、その本来の全容を「古書の愉しみ」のページで 公開しました。 詳しくは、ここをクリック して ご覧ください。 ( 2014 /02/ 01 ) ● 2014年の8月に そのゲラ刷りを 両面コピー印刷して 布製本し、 私家版『イスラーム建築』を 100部 つくりました。 保存用として6冊だけ残した 94冊を、御希望の方に 実費 (1万円) で お頒けしました。 詳しくは、ここをクリック して ご覧ください。 ( 2019 /05/ 01 )
先頃私は2冊の本を翻訳、上梓した。1冊はアンリ・スチールランの『イスラムの建築文化』(原書房)であり、もう1冊はジョン・ブルックスの『楽園のデザイン、イスラムの庭園文化』(鹿島出版会)であるが、それらの本の内容が本論のテーマではない。ここで話題にするのは、これらの翻訳体験を通して感じた、「建築」をめぐる言葉の訳し方の問題、ひいては「文化の翻訳」ということの困難さについてである。 別の言い方をすると、私が翻訳した『イスラムの建築文化』の原題は " Architecture de l' Islam " であるから、その訳は「イスラムの建築」、あるいは もっと簡単に「イスラム建築」とすれば良さそうに見えるのに、あえて『イスラムの建築文化』としたことの理由である。 さて外国語の書物を翻訳するには、さまざまの辞典のお世話になる。まず第一に必要なのは、当然ながら外国語の辞典である。『イスラムの建築文化
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