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Socius.jp ソキウス(野村一夫)★2022年1月17日 socius.jpのコアコンテンツをソキウス・シューレに移築しました。今後はソキウス・シューレをご覧下さい。 https://www.socius.schule 1995年に出した本。副題は「社会学的リテラシー構築のためのレッスン」と言います。今やっていることも対して変わりませんね。2002年のソキウスのコンテンツをそのまま復元します。1冊全部丸ごとを1ページに収めました。 Socius ソキウス 著作+制作 野村一夫 http://socius.jp ソシオリウム【社会学の学習展示室】 現在地 ソキウス(トップ)>ソシオリウム>『社会学の作法・初級編【改訂版】』 社会学の作法・初級編 引用文掲示 「いずれにせよ、『専門家の権力』や『専門的能力』の独占が社会学の領域以上に危険で、許しがたい領域は、おそらくない。いわんや社
21 暴力論/非暴力論 21-1 さまざまな暴力概念 暴力とはなにか 暴力の定義は一見自明である。暴力は「人や財産を傷つける行為」である。しかし、これだけでは、外科医が手術するのも暴力ということになってしまう。現に「脳死状態」における日本初の心臓移植手術が「脳死は死でないから、脳死状態のドナーから心臓を摘出する行為は殺人である」として告発されたことがかつてあった▼1。「湾岸戦争」のように公然と「正義」がまかりとおる戦争も多い。個人が勝手に他人を監禁し拘束するのは暴力だが、国家の官吏がそれを犯罪人に行使するのは暴力とはいわない。人を殺すのは暴力の極致だが、死刑囚を殺すのは法的には正当なこととされている。このように「人や財産を傷つける行為」が「暴力」であるかどうかは、ひとえに「他者の反応」つまり「反作用=リアクション」によるのである▼2。じっさい、〈反応する他者〉といってもいろいろである。だか
26 教育問題の構造 増補 大衆教育社会 本編の社会問題論では「教育問題の構造」も予定していたが、紙数調整の関係で断念した。しかし、教育問題は今や社会全体の重要問題になっており、ここでも社会学の有効性が試されている。この分野をあつかうのは教育社会学である。教育社会学は近年非常に活発に研究がなされている専門分野だ。 教育問題を考える上でまず必要なのは、全体構図を歴史的社会的に位置づけておくことだ。苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ――学歴主義と平等神話の戦後史』(中公新書一九九五年)は、教育の現時点の座標軸を理解するのによい本である。現代は「大衆教育社会」であるというのが本書の出発点。それは「教育の量的な拡大」と「メリトクラシー(業績主義)の大衆化」と「学歴エリートの支配」によって特徴づけられる社会である。このような大衆教育社会において人びとがもつ特有の視線の神話性について、実証データを駆使し
排除されていない者は包括されている。 (ゲオルク・ジンメル) 社会学名言集第二弾はゲオルク・ジンメルです。社会学を学び始めた方ならすぐに耳にする社会学の巨匠ですが、今回とりあげた「名言」は、社会学者の先生でもあまり知られていないと思います。これもオルテガと同様わざと定番をはずしたわけではないのですが、この夏、【SOCIUS】と並行して書いていた論文の中心命題ですので、その流れで紹介したいと思います。なにせわたしは流れに逆らわないところがありまして、ただし自分自身の流れにですが(^_^)。 このことばはジンメルの名著『社会学――社会化の諸形式についての研究』(1908年)の中の「秘密と秘密結社」の章にあります。この章は従来『秘密の社会学』として知られていましたが、その訳者である居安正先生があらたに『社会学』の全訳という覇業を果たされ、昨年、白水社から刊行されました。上下全2巻の大冊です。
19 自発的服従論 19−1 服従の可能性としての支配 権力論の課題 これから三回にわたって説明する権力論というテーマ群をつらぬく観点は「権力は身近な生活の場に宿っている」ということだ。わたしたちは、ふつう「権力」ということばで国家権力およびその周辺を思い浮かべる。強大で絶対的な国家権力、それが常識的な連想だろう。しかし、ここでもまた常識的思考には落とし穴がある。このあたりを浮き彫りにしていきたい。 まず、『資本論』の片隅におかれた注のなかでマルクスがつぶやくように書きつけた一節をみていただきたい。「およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。この人が王であるのは、ただ、他の人びとが彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、かれが王だから自分たちは臣下なのだとおもうのである▼1。」つまり、権力者は権力をもつから権力者なのではなく、人びとが自発的に服従す
15 現代家族論 15−1 家族機能の変容――伝統家族と現代家族 伝統家族の機能 家族は社会に対して、また個人に対して、さまざまな働きをしている。そうした働きのことを「機能」(function)という。「機能」は、意図してそういう働きをしていることでなく、結果的にそういう働きをしてしまっていることをさす。現代家族論にさいして、家族が結果的に果たしている機能にはどんなものがあるか、ということから始めよう▼1。 世界的視野からみると、家族には、大きくわけて五つの機能があるといわれてきた。 (1)性的機能――結婚という制度は、その範囲内において性を許容するとともに婚外の性を禁止する機能を果たす。これによって性的な秩序が維持されるとともに、子どもを産むことによって、社会の新しい成員を補充する。 (2)社会化機能――家族は子どもを育てて、社会に適応できる人間に教育する機能をもつ。子どもは家族のなかで
紹介と書評 中河伸俊『社会問題の社会学――構築主義アプローチの新展開』 初出 『大原社会問題研究所雑誌』第497号(2000年4月)90-95ページ。 社会問題の理論へ 本書は、社会構築主義的社会問題論の第一人者である中河伸俊氏によって1990年代後半に公表された研究を集大成したものである。書き下ろしを含む最新の社会問題論である。一見コンパクトな本に見えるけれども、内容はかなり厚く、濃い。構成は、理論的議論が事例研究をサンドイッチする形になっており、個別事例の分析に焦点があるというより、むしろ事例研究によって理論を検証しようとする指向性が強い。その意味で、有害図書問題などの詳細な具体的分析が多くを占めるにもかかわらず、基本的に理論色の強い研究書である。 じつは私が本書に惹かれるのも、ひとえにこの理論指向にある。というのも、最近にわかに「社会問題」にかかわる仕事がふえ、具体的問題について判断
1994年刊行(文化書房博文社)の社会学概論です。社会学の求心力とは何か、社会学を学ぶ意味は何かについて考えます。全文を掲載。[1993年−1994年執筆] これはもともと前著『社会学感覚』で「知識論」として構想していたものですが、『社会学感覚』が大部になったため企画からはずし、のちに、新しいスタイルの社会学概論をめざして単独の本として書き下ろしたものです。 当時のわたしの持論は、社会学概論は社会学の求心力を提示すべきであるというものでした。しかし、ここのところ日本の社会学はそれに失敗しているのではないかという思いがありました。社会学の遠心力ばかり説明していて、結局「なぜそれが社会学でなければならないのか」が読者や受講者に伝わってこないんです。ひょっとして社会学者自身がそれを見失っているのではないかとさえ感じていたのです。 『社会学感覚』という遠心力の効いた仕事をする中で、そのような
5 社会現象における共通形式を抽出する 5−1 類型化――日常的認識と科学的認識 日常生活における類型化 多様な現実のなかから一定の共通性をみつけて分類することは学問の常套手段である。社会についての科学も当然これを手段として使用するし、社会学も同様である。本章ではこの「類型化」(typification)について考えてみよう。 まず確認しておきたいのは、類型化という営みは、なにも科学的認識に特有のことがらではないということだ。それはまさに日常生活のなかでわたしたちが日々おこなっていることでもある。 わたしたちは日常世界を最初から〈類型化された世界〉として経験している。さまざまな対象がイヌとして・ネコとして・机として・コップとして・電話として経験される。ひとつひとつの個性的な対象――ウチのイヌととなりのイヌはまったく別の個性をもっているはずだ――を一定のことばで――つまり「イヌ」と――呼ぶこ
現在地 ソキウス(トップ)>ソシオリウム>社会学の作法・初級編【改訂版】 社会学の作法・初級編【改訂版】 二 読書の作法――何をどう読むか どう読むか 大学に入る直前のことだ。古本屋で買った『講座社会学』というシリーズを読み始めたことがあった。若気のいたりというやつで、全巻読破の野望を抱いていたのだが、何度同じ箇所を読んでも意味がわからず、たいへん苦労した思い出がある(結局、第二巻の途中で挫折)。今にして思えば、それはすこぶる無謀な行為だったのだが、その苦労は最近でもハバーマスやブルデューを読むときに精神修養として役立っているといえなくもない。しかし、大方の人はそれでいやになってしまうのではなかろうか。 最近でも課題図書として古典を読まされることが多い実情があるが、たいていのビギナーは奥深い迷路にはまったような気分になってしまう。たしかに古典はぜひ読まなければならないが、それはおそらく中級
現在地 ソキウス(トップ)>ソシオリウム>リフレクション リフレクション 第一章 反省的知識の系譜 三 リフレクションとは何か リフレクションとコミュニケーション まず第一に確認しておきたいことは、リフレクションは基本的にコミュニケーションの力であるということだ。このことについて最初に系統的説明を与えたのはアメリカの社会学者(哲学者でもあった)ミードである。▼24 ミードは、まずコミュニケーションを複数の個体の動作のやりとりと考える。個体Aの身ぶりに対して、個体Bが反応する。この反応がBの身ぶりとしてAの刺激となりAの反応を呼び起こす。これがコミュニケーションのもっとも原初的なユニットであり、このレベルでは「犬のけんか」も「恋人たちの会話」も同じである。これを「身ぶり会話」(conversation of gestures)という。しかし、後者――つまり人間のコミュニケーション――の場合
現在地 ソキウス(トップ)>ソキウス工房>メディア仕掛けの民間医療 メディア仕掛けの民間医療 1 メディア仕掛けの健康言説 初出 佐藤純一編『文化現象としての癒し――民間医療の現在』(メディカ出版、2000年12月)の第3章「メディア仕掛けの民間医療――プロポリス言説圏の知識社会学」。ここでは3分の2に短縮したリライト版(400字詰め原稿用紙換算75枚)を公開します。 現代日本の健康ブームは枯れるところを知らない。それはあきらかに健康情報ブームでもあって、専門家とメディアが媒介する言説宇宙の増殖過程あるいは再生産過程でもある。そしてまた健康ブームは民間医療ブームでもある。 というのは、民間医療が基本的に「正規医療」の残余概念であるかぎり、そこにはさまざまな医療類似行為が関与するはずで、それはたとえば伝統的民間療法、癒し、ヒーラー(癒しの技をもつ人)、ニセ医者、逸脱医療、呪術、俗信、詐欺師、
現在地 ソキウス(トップ)>ソシオリウム>社会学の作法・初級編【改訂版】 社会学の作法・初級編【改訂版】 社会学の作法・中級編のために(1999年改訂版を2000年5月4日改訂) 本書でふれなかった古典の読書・外書講読・卒業論文・大学院入試などは、いわば「社会学の作法・中級編」である。そのため本書ではあえてそれらに言及するのを避けている。 そもそもわたしが本書を企画した動機は、当時市販されているマニュアルが、学び始めたばかりの初級者にとって、いささか敷居が高いという現実にあった。大学での指導にしても、教員の要求する水準がプロ級に高いため学生がついていけず、結果的に虻蜂とらずに終わってきたところがあったと思う。たとえば「卒論となると、たんに文献を要約しただけではダメだ。批判的に読んで自分なりに考察しなければ論文とは言えない」と要求しても、それ以前に読書する習慣さえない学生には無理な注文であ
現在地 ソキウス(トップ)>ソキウス工房>書評『構築主義の社会学』 書評『構築主義の社会学』 紹介と書評 平英美・中河伸俊編『構築主義の社会学――論争と議論のエスノグラフィー』 初出 『大原社会問題研究所雑誌』第508号(2001年3月)67-71ページ 社会問題の基礎理論へ ある状態を問題だと指摘する社会問題研究は、日本の場合、観察可能な事実に即してではなく、ある種の素朴な正義感やイデオロギーに基盤をもつ狭小なパラダイムの中でなされてきたのではないか。社会科学とは言いながら、その認識が一定の感情構造と(結果的に)党派的な解釈共同体に適合的な枠組みに即応する形でのみ洗練化されてきたにすぎないのではないか。私はずっとこのような疑念を抱いてきた。ただ、それが「ある種の問題は指摘され大声で語られるのに、なぜこの種の問題は差別であるとさえ指摘されないのか」といった不満の水準にとどまっていたために
現在地 ソキウス(トップ)>ソシオリウム>社会学感覚 社会学感覚 2 日常生活の自明性を疑う 2−1 自明な世界としての日常生活 発想法としての社会学感覚 本章から第六章にかけて社会学のおもな発想法を紹介しよう。これらはじっさいの研究の現場では精密な概念定義と複雑な理論構成をともなって論じられるのがつねであるが、ここではそのような水準ではなく、まず第一に、一般の生活者――当然のことながら社会学者も特定の専門領域をはずれると同じく〈ただの生活者〉である――が社会のなかで経験するその地平でとらえなおし、その発想法のもつ意味を考えてみたい。またその一方で、社会学のさまざまな作品世界に接することによって、それらを通奏低音のように牽引する社会学感覚の一端にふれてみることも目的のひとつである。社会学の重要な見識や名言はなるべく本文を引用するようにしたからよく味わってもらいたい。以下の五章は社会学史では
法政大学大原社会問題研究所公式サイト「OISR.ORG」(http://oisr.org)内のコンテンツ。名誉研究員の二村一夫さんの労作。論文を直接リンクしている点が特徴です。他に「労働編」もあります。
22 ジェンダー論 増補 女と男について考え始める 当初の計画ではジェンダー論の章も予定していたのだが、たまたま執筆順序があとになったため紙数調整の犠牲になってしまった。しかし、ジェンダーは権力行使の日常的かつ最大規模の現場である。ジェンダーへの言及なき権力論は、それ自体、権力作用の罠に陥っているというべきだろう。 セックスが生物学的に定義された性であるの対して、ジェンダーは社会的に定義された性のこと。私たちは「女であること」あるいは「男であること」をとかく生物学的な性を基準に議論することが多いが、じつは議題になっているのは生物学的な性ではなくて社会的な性である。そこをきちんと立て分けないと混乱する。しかも、生物学的な性は、しばしば偏見的主張の絶対的正当性としてもちだされてしまうことが多くて、ろくなことがない。理性的な議論にはじゃまな道具立てなのである(それを社会学者は「イデオロギー装置」
20 スティグマ論 20−1 社会的弱者を苦しめる社会心理現象 役割としての社会的弱者 この章では、権力作用の問題を〈医療と福祉の対象となる人びと〉を中心に考えてみよう。 このような人びとは、どのような役割を担っている人びとだろうか。たとえば、それは子ども・高齢者・病者・障害者・低所得者・失業者・公害被害者といった役割である。これらの役割におかれている人びとは一般に「社会的弱者」とよばれている。能力中心主義の近代産業社会にあって、社会的弱者はなんらかの不利益をこうむることが多かった。そこで現代社会では、さまざまな福祉サービスを保障することによって、実質的な平等への努力がなされつつある。 とはいうものの、社会的弱者は一般に暴力や犯罪の対象にされやすいし▼1、こと企業社会においては、あいも変わらず成年男子の健常者中心の組織文化が支配している▼2。 それでも、弱者への暴力や犯罪・酷使といった逆行
現在地 ソキウス(トップ)>ソシオリウム>社会学感覚 社会学感覚 3 行為の意味を理解する 3−1 歴史的世界の形成者としての人間 行為の集積としての社会 わたしたちが好んで歴史小説を読み、大河ドラマを視聴するのは、〈人間が歴史をつくる〉ことのおもしろさにひかれてのことである。ただし、日本人好みのドラマの多くは、歴史的英雄たちのくりひろげる抽象化され虚構化されたドラマである。それにくらべると、現実の方が数段ドラマティックである。一九八九年からあいついで大きな潮流になった中国・東欧・ソ連の変革運動は、それぞれ独自の運命をたどりつつあるが、いずれにせよ〈人間が歴史をつくる〉という実感を、ながらくアパシー状態にある日本人にも味あわせてくれた。名もない民衆がみずからの生理に忠実に異議申し立ての運動をおこない、ときには大きな犠牲を払いつつ自分たちの社会を変えていく現実のドラマがここにある。わたしたち
現在地 ソキウス(トップ)>ソシオリウム>社会学感覚 社会学感覚 1 脱領域の知性としての社会学 1−1 社会学のマッピング 現代社会学の研究領域 社会学ということばは比較的なじみやすい。だれもが知っている「社会」と「学」を組み合わせただけのこのことば、一般の人は社会科の大学版のことだと思ってすませている。しかし、これは誤解である。社会学は小中高校の社会科とはまったく異なるものをさしていると考えた方がよい▼1。社会科から地理と歴史を除いた「公民」「現代社会」「政治経済」「倫理社会」などの課目とほぼ対応する科学は社会科学(social sciences)と呼ばれる。社会学は経済学・政治学・法律学などとともにその一翼を担っているにすぎない▼2。つまり、社会学と小中高校の社会科とは、ほんのかすかにつながっているだけで、ほとんど連続性はないということだ。似ているのは名前だけである。 さて、社会科学
紹介と書評 ロバート・N・プロクター著/宮崎尊訳『健康帝国ナチス』 初出 『大原社会問題研究所雑誌』第552号(2004年11月)73-74ページ。 ユビキタスな健康志向社会 たとえば「今の健康ブームは過熱しすぎだ」という議論がある。健康ブームといわれて久しいが、それに飽いたころに健康ブーム批判が出てくるのは自然の成り行きである。そして、それもまた小さなブームになると、批判の言説が陳腐化し、いつのまにか健康ブーム自体に取り込まれてしまう。一部の批判によって萎えるような現象でないということだろう。このさい「健康ブーム」というマスコミ用語を避けて「健康志向社会」あるいは「健康意識社会」と呼び変えて、長期的展望の下に議論したほうが適切ではないかと思う。一過性の現象ではないというだ。 それを前提にした上で、ある種の社会や人びとが健康志向を極度に高めるということがあるということを認識したい。そして
現在地 ソキウス(トップ)>ソシオリウム>社会学感覚 社会学感覚 17 宗教文化論 17−1 日本人の宗教意識 宗教への視点 かつてマスコミには「菊・鶴・桜」の三つがタブーとして存在していた。「菊」とは皇室、「鶴」とは宗教、「桜」とは防衛問題のことである。しかし、これらはおおむね過去の話になったかの感がある。ジャーナリズムの理念からいえば、まだまだ入り口にすぎないといえるかもしれないが、とりあえず入り口は開かれた▼1。とりわけ「第三次宗教ブーム」といわれて宗教がクローズアップされるようになり、宗教界のできごとも電波にのるようになってきたのは大きな変化だ。しかし、マスコミはあいかわらず宗教をあつかうのが苦手で、人事的に新宗教の信者を採用しない方針が長くつづいたためであろうか、そのため、宗教をあつかうとき、教祖や儀礼をセンセーショナルにとりあげる一方、宗教組織については政治的影響の方しかみない
現在地 ソキウス(トップ)>ソシオリウム>社会学の作法・初級編【改訂版】 社会学の作法・初級編【改訂版】 一〇 社会学的リテラシーの構築へ――知識社会学的に 社会に還流する知識 本書ではこれまで、社会学の「読み書き討論」について論じてきた。この章では、それらをひっくるめて、そうした社会学的実践の知識社会学的意義について考えてみたい。▼1 ▼1 知識社会学とは、知識を社会的存在として研究する分野である。この場合の「知識」には科学や思想だけでなく常識や偏見もふくまれる。もともとマルクス主義のイデオロギー批判の原理を拡張するところから始まった分野で、ある思想と社会集団や社会階層との関係をとりあつかう領域として発展したが、近年はそのすそ野を広げ、常識を中心とする知識全般がもつ社会秩序形成の役割といった基礎理論的な研究になっている。 社会学の学習には「読み書き討論」が欠かせない。しかし考えてみれば、
序論 一 消費のことば、権力のことば 充満することば 「ことば」が満ちあふれている。多数派の意見をますます多数派に増幅するテレビ、どの知識が検定済みかを告知し教育する学校教科書、広報担当者の演出通りにたれ流される官製情報、ほとんど毎日がお祭りのようなスポーツ紙、電車のなかの饒舌な中吊り広告、十年先ではなく半年先を将来予想するビジネス書の平積み、食べるより語られるグルメ、ニューモデルについての新着情報、凶悪犯人の経歴と「素顔」、それ自体が難易度を高める受験情報・就職情報・住宅情報……。 こうした「ことば」の洪水をわたしたちは、あるときは「メディア文化」として、あるときは「情報化」として、あるいは「消費されるべきサービス」として、さしたる疑念もなく、その恩恵を日々享受している。わたしたちにとって問題なのは、それが「役に立つ」か、あるいは、それで「楽しめる」かであり、多くの「ことば」はその要求
目次 初出 野村一夫「ダブル・スタンダードの理論のために」『法政大学教養部紀要』第98号社会科学編、1996年2月、(1)-(30)ページの全文。ただし、印刷のために圧縮したものを元に戻した解凍版(Expanded Edition)になっています。 [1]ダブル・スタンダードという問い [2]権力作用としてのダブル・スタンダード [3]知識過程としてのダブル・スタンダード [4]ディスコミュニケーションとしてのダブル・スタンダード [注] [1]ダブル・スタンダードという問い 「排除されていない者は包括されている」(ゲオルク・ジンメル)▼1 内集団の美徳と外集団の悪徳 ロバート・K・マートンは「予言の自己成就」という著名な論文の中で次のように述べている。「リンカーンが夜遅くまで働いたことは、彼が勤勉で、不屈の意志をもち、忍耐心に富み、一生懸命に自己の能力を発揮しようとした事実を証
現在地 ソキウス(トップ)>ソシオリウム>社会学名言集 社会学名言集 [1]オルテガについて 私は、私と私の環境である。 そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない。 (オルテガ・イ・ガセット) 社会学名言集の第1弾はオルテガです。いまどき、ちょっと意外でしょう? でも、べつにはずしてみせたわけではないんです。じつは『潮』9月号にオルテガについて書いたばかりなので、わたしの頭の中に残像が残っているだけなんです。 ちょうど、ちくま学芸文庫で『大衆の反逆』が再刊されたばかりだったので、その話があったとき、ふたつ返事で引き受けました。これは角川文庫に入っていたものですが、長らく品切れだったものです。一時、復刊本もありましたが、忘れ去られた古典になっていました。学生時代に読んではいたものの、じつはよくわからなかった本なので、これを機会に読み直しました。今度はよくわかりましたよ。永年の宿題
現在地 ソキウス(トップ)>ソシオリウム>社会学の作法・初級編【改訂版】 社会学の作法・初級編【改訂版】 社会学的リテラシー構築のためのレッスン 詳細目次 1995年初版刊行(文化書房博文社)1999年に改訂版刊行の社会学研究案内。社会学の学習方法を説明したもの。全文を掲載しています。[1994年執筆] この本は初版刊行以来、増刷を重ね、1999年に改訂版を出しました。もちろん現在も販売されています。じつは2002年春に改訂版第三刷3000部がでたばかりです。今となっては第三版を出したい気分ですが、そうそう過去の作品にばかり手をかけるわけにはいかないものです。時間差を考慮してお読みいただけると幸いです。 はじめに──流儀をこえて [1]引用文掲示・凡例[2]社会学教育の空白地帯[3]学問の作法[4]社会学的生活へのイニシャル・ステップ[5]流儀をこえて──社会学の立場 一 社会の研究と
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