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レイングッズ
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輪廻をモチーフとして人間の意志の問題を極限まで問いつめた文学作品としてよく知られるものに三島由紀夫の『豊穣の海』4部作がある。本多繁邦(だったかな?)という一人の人物を通じて4人の登場人物の輪廻を極めて精緻な筆致で描き扱ったこの作品は、自由意志はあくまで個人に属するものであるのだという近代的人間観の彼方にあり、その帰結として必然的に個人の生命の唯一性・絶対性に疑問符を投げかけている。即ち、個人の生命はその個人のものでありつつも、その因縁においては個人のレベルを遙かに超え、全ての生きとし生けるもの、森羅万象を貫いて存在する根本法則に連なるものであるのだ。この時、私は私でありつつもより始源的な生命としては宇宙そのものでもあり得るのである。このような梵我一如を前提としかつまた理想とする東洋的生命観は、リルケが「私自身の死」と言ったような、またハイデガーが『存在と時間』で示した近代的個人をベースと
経済の停滞と共に、前近代的な父権制度の復古を求める反動的な言説が巷間に溢れるようになって久しい。才能の枯渇した腐れ学者や痴呆化した漫画家などが著した書物は書店に行けばいつでも平積みコーナーに見いだすことができる。相田みつをのような俗情と結託することしか知らない、何の思弁的性格も有しない「癒し」のメッセージはこれでもこれでもかとメディアを飾る。そこに現れてくるのは、「家族の絆」こそ絶対であり、その有難味と意義を反芻してこそ社会的紐帯の秩序は保持されうるのだ、というどこかで聞いた「血と大地」のリフレインである。そこには秩序の回復が何より重大であり、他のことはどうでもいい、という袋小路に陥った現在の日本の経済状況の暗愚が反映されている。 だがもしも、「近代」が生み出した様々な装置・概念の中で最もおぞましいものを3つ示せ、と私が問われるならば、迷わず「国家」「民族」「家族」を挙げるだろう。『法哲学
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