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都知事選
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ある世代の人々には周知のことであろうが、小林秀雄はその随筆、「無常といふ事」 を、『一言芳談抄』の中のある一節の引用から始める。それをまず、 小林の引いている 通りに引用し、紹介しておこう。それはこうである(1): 或云(あるひといはく)、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま 女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、 つゞみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。 其心を人にしひ問はれて云(いはく)、生死(しやうじ)無常の有様を 思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世(ごせ)をたすけ給へと 申すなり。云々 小林は、あるとき比叡にあそび、 山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりうろついていた。 そのとき、突然この文章が心に浮かび、その文の節々がくっきりと心に滲(し) みわたったのだ、という。このと
この歌はとても偉大な歌ではないだろうか? あるいは少なくとも人と人との関係の極限を、ひとつの極限的なところを歌っている歌なのではないだろうか? わたしにはどうしてもそう思えるのである。 それはどういうことなのか? あわてずに考えてみよう。 歌は、よく似ていながら微妙に異なったフレーズを二度繰返す前奏の後にはじまる。それはこう歌い出される。「もしも君に巡り逢えたら/二度と君の手を離さない」と。いきなりだが、この決意は、人として、とても偉大なことではないだろうか? この言い回しには、しかしとても微妙なテクニックが含まれている。というのも、普通であれば「もしも君に巡り逢えたら」とは、まだ出逢っていない者の懐く期待であろう。しかしこの歌においては、二人はすでに出逢っているのである。そして、私は、すでに一度は君の手を離してしまっているのである。でも、もし今度出逢えたら、もう決して手を離さない、と、そ
For Karlheinz Stockhausen I declare that we continue to play Intuitive Music to show the GREATEST DELIGHT that Stockhausen and his Köln Group have shown in "Kurzwellen", is to be reached again and will be repeated forever by human beings. 13 December 2007 Kyoto, Japan Masatsune NAKAJI (Intuitive Music Ensemble, Kyoto Japan) あつい日、道で 鶴見俊輔 あかんぼうに出会うとき、 頭のうしろに 光の輪が見える 乳母車の中で 動けないまま 世界に対している 世界にうみだされたこ
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