サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
デスク環境を整える
www2u.biglobe.ne.jp/~BIJIN-8
私がこれまで読んできたミステリー小説のなかで、人間の構築する論理の限界を明確な形で指摘したのは、笠井潔の『バイバイ、エンジェル』であり、探偵である矢吹駆は論理の代わりに、フッサールの「本質直観」に基づく現象学的推理を展開していくのだが、そこには、ある事物に対して、ただひとつの意味だけを割り当ててしまうことに対するアンチテーゼがあった。本来であればさまざまな可能性と解釈の仕方があるにもかかわらず、たとえば「首無し死体」が即座に「被害者の隠蔽」というひとつの論理に固定されてしまうと、それ以外の可能性を自動的に排除してしまうことになってしまう。それは極端な例を挙げれば、「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざを、いっけん筋が通っているという理由だけで信じてしまうこととよく似ている。 私たちが生きるこの世界に、絶対の論理というものが、はたしてありえるのだろうか。1+1=2という計算は、しかしそのこ
条件1:60点以上の作品がない 条件2:60点以下の作品がない 条件3:一度でも80点以上の作品を書いている(赤丸は90点以上)
中島敦の『山月記』といえば、人間が虎に変化してしまうという一種のファンタジー的な作品として、たとえばカフカの『変身』などとともに記憶している方も多いのではないだろうか。今回紹介する本書『李陵・山月記』は、中島敦の代表作ともいえる『山月記』と『李陵』のほか、『名人伝』『弟子』の四作を収めた作品集であり、いずれも中国古典を題にとった作品ばかりであるが、これらの作品を読み終えてあらためて思うのは、いずれの作品においても何かを深く思索せずにはいられない登場人物たちの志向こそが、著者の作品の中核を成しているというひとつの事実である。 たとえば上述したように、『山月記』では李徴という才知あふれる男が一匹の人喰い虎に変身してしまい、たまたま勅命による使いの旅をしていた古き友人との出会いをきっかけに、その顛末を語るという話である。李徴は県の官吏としてその将来を約束されていたにもかかわらず、「詩家としての名
残念ながら、私はこれまで「小人プロレス」というものを生で観たことはない。また今後、その様子を録画でも何でもいい、この目で観ることは、おそらく難しいだろう、という思いも強い。だが、いわゆる小人症と呼ばれる人たちが、この世界にたしかに存在するという厳然たる事実を知ったのは、じつはそんなに最近のことではない。私がまだ小学生くらいの頃に、毎週欠かさず観ていたドリフターズの「8時だヨ! 全員集合」のなかで、彼らはたしかにその舞台を走りまわっていたのだ。 人によっては下品だとか、教育上よくないとか言う人もいるかもしれないが、私はドリフターズのコントがこの上なく好きだ。なぜなら、彼らの笑いはあくまで自分たち自身を笑い者にすることで巻き起こる笑いであるからだ。彼らの体を張ったパフォーマンス的コントは、笑いの対象を自分たちに向けており、それゆえに観る者を健全な笑いに誘う力に満ちていた。それは、今メディアで主
私たち人間を構成している細胞のひとつひとつに存在する遺伝子には、地球上に極めて原始的な生命が誕生してから、何億という年月を経て進化し、人間という種の形となるに到るまでの情報が、すべて保存されていると言われている。また、たった一個の受精卵から、新生児としてこの世に生を受けるまでの十ヶ月間に起こる変化は、それまで人類がたどってきた進化を繰り返しているのだ、とも。 私たちの体内に封印された、生命の進化の記録――人間の歴史は、その膨大な時間のなかのほんの刹那でしかないのだが、自分という個が、その膨大な時間の積み重ねによって築かれた先端に位置しているのだと考えたとき、私たちはあらためて、この慣れ親しんできた肉体の神秘、生命の神秘に畏敬の念を抱かずにはいられなくなる。 本書『おもいでエマノン』には、地球上に生命が発生してから現在までの記憶をすべて持っている女性が登場する。いつの時代においても常に「時代
「読んだ本は意地でも褒める」と誓った私ですが、読んでいてとくに燃えたり萌えたり驚いたり感銘を受けたりと、何か心揺さぶられるものがあった作品について、ごく個人的にチョイスしてみました。 物語系ベスト 感動系ベスト インパクト系ベスト 共感系ベスト <寸評> 陸地の大半が水没した未来の地球――人類は海上生活に適応するため遺伝子操作を受けた海上民と、わずかな陸地にしがみつく陸上民の二種類にわかれ、それぞれの文化と社会を形成していた。陸上民の青澄誠司は、日本の外交官として海上民のオサであるツキソメとの交渉に臨もうとしていたが……。 「魚舟」「獣舟」といったSF要素もさることながら、種族間の根深い対立や政府の思惑、さらに未曾有の災厄をまのあたりにして、なお理性と知恵によって苦難を乗り越えようとする登場人物たちの生き様は、まさに人としてあるべき姿を私たちに示してくれる。 <寸評> 世界的に有名な
1. 人間はたがいに狼だ。 2. 人間は人間を食いものにしながら生きている。 3. 人間はたがいにまるで狼のようである。 4. 人間は食うか食われるかの危険の中で生きている動物だ。 5. 人間はたがいにずるがしこく騙しあって油断も隙もない。 6. 人間は性質が自分勝手で狡猾で残酷で野蛮である。 7. 人間は自分の欲望のために巧妙かつ容赦なく他人を犠牲にする生き物だ。 8. 人間は自己の利益をあらゆるものに優先させ、他人の権利を侵害して、生存のためには手段を選ばないところの利己的存在である。 これは、私が大学時代に学んでいたアメリカ文学の某教授が作成した、表現の抽象レベルをあらわした表で、数字の5を基準として、大きくなれば概念的(抽象的)文章、小さくなれば具体的(感覚的)文章に近づいていく、というものである。8のレベルが論証文、1のレベルが隠喩文として、それぞれ対極に位置しているのだが、この
この世の中には、じつにさまざまな人たちがいる。同じ人間というカテゴリーのなかにくくられる存在でありながら、その外見はもちろんのこと、生まれた環境やそれまで歩んできた歴史を含めた個人の考え方にいたっては、それこそ人の数だけあると言っていいだろう。そして、人と人とがコミュニケーションすることは、そうした個人の持つ価値観が衝突することでもある。 私たちはときに、相手のことがまったく理解できない、と思うことがある。その大部分は、たんに自分が相手のことを理解しようとしていないだけであることが多いのだが、基本的に、人は自分のことしか理解できないものであることを、否定することはできない。下手をすれば、自分自身のことだってよくわからないのだ、ましてや他人のことなどわかるわけもない、と。 実際、私がぜんそく持ちの方の苦しみや、心臓の病に犯された方の不安、アレルギー体質の方の痛みが理解できるのか、と問われれば
1.固有名詞に縛られない小説 古川日出男氏の書く作品には、圧倒的に固有名詞というものが少ない。 これは、著者の4作目にあたる『アラビアの夜の種族』に出てくる固有名詞を収集し、用語事典としてまとめたときに気づいたことであるが、あれだけの壮大な物語であるにもかかわらず、私が考えていた以上に固有名詞が出てこない、という事実は、私をずいぶん困惑させたものだ。なぜなら、用語事典とは用語を現わす言葉によって成り立つものであり、その用語が集まらなければ、それはもはや用語事典とはなりえないからである。 言うまでもないことだが、小説というのは文字のみで世界を表現する形式のことだ。それゆえに、一度文字によって構築されてしまった物語は、けっしてその枠から逸脱することはない。だが、こと古川日出男という作家の作品については、文字で構築された物語でありながら文字による束縛を越えていくような、強烈な、あるいは原始的なイ
たとえば、自分がどこかのビルの屋上にいると仮定しよう。そして今、あなたの目の前には、人生に絶望して飛び降り自殺をはかろうとしている人がいるとする。さて、ここで問題。あなたはどうすべきだろうか? ひとりの人間として理想的な回答があるとすれば、「自殺を止めようとする」が正解だろう。生きてさえいればいつかきっと良いことがある、死んでしまったらそれこそすべてが終わりだ――ごくごく月並みな説得の言葉であるが、少なくとも誰もが納得する、まっとうな対応であることは間違いない。人の命は何にもまして大切なものである、というのが、私たちの生きる社会の通念である以上、私たちはまさに今自殺しようとしている人を前にして、それを放っておくことができない、というのが人道ということになる。 だが、実際の本音の部分としてはどうだろう。 生きてさえいればきっと良いことがある、という言葉に嘘はない。誰も将来のことなどわからない
読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。 (ショウペンハウエル「読書について」) 耳に痛い言葉である。というのは、およそ読書好きな人たち、本を愛し、本を読むことを趣味のひとつとしている人たちであれば、一度はその行為の無為さについて、思いをめぐらせずにはいられないからである。私も読書家のひとりとして、それなりの量の本を読みこなしてきた。だが、その中で真に私の心に残り、自分のそれからの人生に、生き方そのものに大きな影響を及ぼすことになった本が、いったいどれだけあっただろうか。 そう考えたとき、私は自分の後ろに累々と横たわっている本の残骸をまのあたりにすることになるだろう。そして思うのだ。私はいったい、これらの本から、どれほどのものを汲み取り、自分の血肉とすることができただろうか、と。 なぜ本を読むのか――人によって、本によって、そ
長らく休止状態が続いていた「八方美人な書評ページ」ですが、諸事情により閉鎖と相成りました。 ご愛顧いただき、誠にありがとうございました。 2020年1月13日 八方美人男 twitter@bijin_8
この世の出来事のすべてが、ある種の物語のように単純で明瞭であったなら、私たちも生きていくことにこれほど苦労しなくてもいいのかもしれない、とふと思うことがある。どんなに複雑な謎や事件もすべてが明らかになり、陰謀は阻止され、正直で誠実な人間は最後には救われ、嘘吐きで不実な人間は最後には罰される、きちんとした始まりと終わりの存在する世界――しかし、物事はけっして単純でも明瞭でもないし、多くの人間が善であると同時に悪であり、そして正しい答えなどどこにも存在しないし、始まりも終わりも明確ではない、それが、私たちの生きる現実の世界の姿だ。 たとえば、それまでとても仲睦まじく暮らしているように見えた一組の夫婦が突如離婚したとする。いったい何が原因でふたりは別れることになったのか、人々はいろいろと憶測をめぐらせ、なんらかの言葉で説明をつけようとするだろう。たとえ、それが週刊誌や新聞といったメディアからの借
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『www2u.biglobe.ne.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く