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体力トレーニング
yoshidatoru.hatenablog.com
コロナ禍とともに、「ソーシャル・ディスタンス」という言葉が日常生活にすっかり定着するようになった。「社会的距離」とも訳されるが、なぜ感染を防ぐための物理的距離が「社会的」と呼ばれるのか、長年不思議に思ってきた。リモート・ワークにせよ、時差通勤にせよ、人々との距離を保つ行動は、むしろ社会が社会であるために条件である集団的な経験を奪い取ってしまうのではないか、と。 その疑問は、シカゴ大学院生の論文を最近読んで氷解した。リリー・シェリルス「社会的距離の社会史」によると、この言葉はナポレオン時代のフランスで、皇帝の寵愛を失ったことを嘆く側近が最初に使ったことに起源を持つという。それが、現代的な意味で使われるようになったのは世界で数千万人の死者を出した1918年のスペイン風邪流行の時のことであり、2004年にSARSが流行った際に米CDCが報告書で使用したことで定着したという。 (原文はこちら) c
多くの先進国で、いわゆるポピュリズム政治が常態となりつつある。国よって差はあるが、右派ポピュリスト政党が新たに獲得している主な支持者は労働者層である。「ラストベルト」という言葉に象徴されたように、1970年代以降の製造業の衰退は、左派の金城湯池だった旧鉄鋼・炭鉱地域が、米トランプ支持へと流れる原因を作った。フランスの国民戦線(現在は国民連合へと改称)、スウェーデンの民主党、オーストリアの自由党など、西欧極右の最大の支持者階層は、労働者層だ。イギリスの労働党、ドイツの社民党からの労働者層の離反とポピュリスト政党への支持増も綺麗に相関している。 ドイツの思想家ベンヤミンは「ファシズム台頭の裏には必ず革命の失敗がある」と言ったが、つまりポピュリズム政治の成功は社民の凋落と表裏一体の関係にあるのだ。労働者層が左派政党に投票する割合を示す「アルフォード指数」は、1960年代以降、西欧では一貫して下落
「民主主義ってなんだ?」と問われれば、それはひとつの「フィクション(=擬制)」としかいいようがありません。「フィクション」といって難しければ、「~べきであることが想定されている」ということです。 どういうことか、日本国憲法の前文を通じて確認してみましょう。 「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」 ここでいわれているのは、国の政治は、国民の権威に基づいた権力を代表者たちが用いて、その結果として生まれる福利は国民が享受すべきである、という循環です。 これは、国民(=主権者)は自らの権利を代表者(政治家)に一時的に預け、自分たちの代わりに働いてもらうというのが民主主義、もっと正確にいえば、「代議制民主主義」や「代表制民主主義」と呼ばれる政治の基本形態でもあります。 ここでは、共同体(=国
去る統一地方選挙では、選挙の結果云々よりも、その前から無投票選挙の多さが注目されていた。千葉県や埼玉県などの首都圏でも無投票選があったから、地方に限った話ではない。道府県議選では選挙区の33.4%、総定数の21.9%が無投票で選出され、これは記録の残る1951年以来の高水準という。 地方自治体が果たすべき役割と期待がこれまでになく増す中、その民主主義が空洞化しているというのは、笑うに笑えない状況である。もっとも、人口流出といった構造的な流れや、議員のリクルートメントやインセンティブをどう育むかなどの制度的問題、各党の選挙戦略などが複雑に絡み、簡単な解決策は見出せそうもない。 ただ、旧来の代議制民主主義が空洞化しつつあるのは、どこの先進諸国でも一緒だ。そこで、ヨーロッパの運動家や政治学者らが注目しているのが、「くじ引き民主主義」だ。 なぜ「くじ引き」なのか。古代ギリシャや古代ローマ、あるいは
時事通信が発行する電子媒体E-Worldに「宗教への深い理解が唯一の道─宗教原理主義はなぜはびこっているのか?」と題した論考を寄せました(会員制 時事通信社 Janet提供。そのうち朝日新聞のWEB新書内でも単独購入できるそうですhttp://astand.asahi.com/webshinsho/)。 もちろん、パリやデンマークでのテロ、あるいはイスラム国についての議論を念頭に置いた議論です。 論考で紹介しているのは2000年代後半くらいから、アメリカ、ヨーロッパの社会学者、哲学者を中心とした「ポスト世俗化」の議論です。中でも、ハーバーマスがラッツィンガー教皇庁教理省長官(後のベネディクト16世)との対話でこの言葉と概念を使ったことで、有名になりました。 ポスト世俗化時代の哲学と宗教 作者: ユルゲンハーバーマス,ヨーゼフラッツィンガー,フロリアンシュラー,J¨urgen Haberma
4月11日の朝日新聞(朝刊)で掲載された「右傾化」についてのインタビューに刺激されたわけではありませんが、「右傾化」を論じる場合は、国を問わず、中々に難しいものがあるようです。 (ちなみにさやわかさんの議論のするどさに驚嘆しました) 私のフィールドのフランスの事例でいうと、極右・国民戦線の台頭などもあり、やはり2000年代に入ってから「右傾化(droitisation)」の議論がされてきました。確かに社会が「ぎすぎす」してきて、治安や安全保障についての争点が訴求力を持ってきたという意味で日本と似ているのですが、他方ではかなり綿密な意識調査をしてみると、異文化や他者への寛容度はむしろ高まっているというようなデータもあり(こうしたデータは上のインタビューでも指摘されています)、中々まとまったことは言えないというのが相場になっています。アメリカでも、マイノリティに対する寛容度が高まる一方、政治的
論じ尽くされた感はありますが、先の産経新聞での曽野綾子氏のコラム「『適度な距離』保ち受け入れ」での南アフリカのアパルトヘイトに賛意を示すような言説はもちろん容認されるようなものではないでしょうし、それ以上に南アで融和に努めてきた関係者の努力を全く認めないような物言いは到底支持できるものでもありません。 http:// http://www.huffingtonpost.jp/2015/02/10/sankei_n_6657606.html 批判が巻き起こってからの曽野氏へのインタビューと同氏の反論 ただ、一方で氏が問題提起したことが何だったのか、ということをきちんと受け止めた上で批判するような言説も求められていると思います。氏の言説をDisるだけでは、相手と変わる所がありません。 どういうことか。 とりわけ問題だとされた箇所は以下の文章でした。 「南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、
「シノドス」で、政治哲学者のマイケル・ウォルツァーが自身が編集に携わっている米Dissent誌(オンライン版)に寄せた「イスラム主義と左派(Isalamism and the Left)」を訳出しました(高波千代子さんと共訳)。 イスラム主義と左派――シャルリ・エブド襲撃事件に記して / マイケル・ウォルツァー / 政治哲学 (翻訳 / 高波千代子、吉田徹) | SYNODOS -シノドス- 訳者はイスラムの専門家でもなければ、ウォルツァーの哲学に必ずしも通じているわけではありませんが、シャルリ・エブド襲撃事件、イスラム国人質事件、その他一連のイスラム過激派によるテロ、さらに日本でのモスク損壊事件や第三書館のシャルリ・エブド翻訳をめぐる意見や論争などをみていると、改めて信仰や宗教過激派、テロに対してどのように対峙し、これを捉えるのかが大事なのかを痛感するようになりました。 この論考でウォル
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