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●404 Blog Not Foundbloggerによる誤報はないのか ●あんなこと、こんなこと。どんなこと?常識を働かせれば-フランスの暴動 一段落した(のかな?)無断リンク禁止について、ほんの一握りのご意見しか読んでませんが、気になったことがあったので忘れずに書いておこうと思います。 私を含めて、無断リンク禁止と言っているサイトやblogをわざわざリンクする必要はないのでは?というスタンスがあります。心情的には誰でも人の嫌がることはできるだけしたくないでしょう。言われているように、中には誹謗・中傷のために無断リンク禁止をあえて破る方もいらっしゃるかもしれません。そういう動きは、無断リンク禁止という概念を葬り去ろうとすることの妨げになっているということも、たしかにあるかもしれません。でも今は、そうした目的の違う働きかけは脇に置きます。 何故リンクは自由でなくてはいけないのか、それ
いよいよ今週末で日記才人はその歴史を閉じます。私はそれほど古いユーザーではない、真ん中ぐらいでしょうか。日記才人の、ユーザー同士が適度な距離感を持って交流できる感じがすごく好きでした。 愛読させていただいている見たこと聞いたことさんが日記才人の前身である日記猿人に登録した日の日記をアップしていらっしゃいました。それを真似ようと登録した日の記録を探しましたが、残念ながら見当たりませんでした。2004年2月にサイトの5万ヒット直前を記念して書いた日記に才人について書いていたので掲載します。 Monday, 23 February, 2004 もうすぐ5万ヒット / 四年間のWeb日記反省文 サーバーダウンか組織的なボイコット運動でも勃発しない限り、一両日中には5万アクセスを記録できそうです。ひとえに皆様のご贔屓の賜物と感謝いたします。 途中素材サイトのトップページをこのindexにしていた
■NHK総合テレビ-プレミアム10 2月26日放送分『ご近所の底力 [子どもが外で遊ばない]』を視ました。 小学五年生の末っ子は吹奏楽部に所属しています。昨年は逃しましたが全国大会を目指すほどのレベルなので、最低でも週三日放課後は練習日、大会前一ヶ月は連日6時過ぎまで、土曜日曜も練習があります。その末っ子が昨年末頃、地域のスポーツ少年団でサッカーをやりたいと言い出しました。スポ少の練習日は土曜日の午前、任意で水曜日の夜7時からも練習できます。時間的に無理そうなのですが、吹奏楽部員の中には両立している子もいます。サッカーに限らず、剣道やバスケット、バレーボールなど。野球はいないようですが。 そこで、五年生の保護者の取りまとめ役の方に話を伺ってみると、どうもあまり歓迎しない口ぶりでした。現実に二足の草鞋を履いている子もいるのですが、ウチの子の場合すでに五年生で来年は最上級生になるので試合数も増
バレンタインデーの日に、クリスチャンの友人のお誘いで田中信生氏の講演を聞きました。田中信生氏は米沢教会の牧師でいらっしゃるけれど、講演内では信仰に関する話どころか関連することばそのものすらまったく出ないのにちょっと驚きました。講演中取り上げていらしたパレードの法則を適用すれば得るべきところが全体の2割見つかれば良しということで、その点でも充分満足できる内容でした。それにお話がとても面白くて、大笑いしました。 以下に講演中メモした内容を記述します。先に書いておきますが、くれぐれも講演のメモだけ読んでペィジを閉じてくださいませんように…。 演題は『自分のホッとする居場所』ということで、どのようなとき「ホッとする」を求めるかをテーマに【①動的なもの…ゴールに到達した時②静的なもの…現在のこの状況を充足させる→①のゴールを目指して頑張り続け疲れてしまった時】このふたつに分けてそれぞれについて話され
渋谷のバラバラ殺人事件についてテレビで、夫が証券会社に勤めるエリートサラリーマンで酷く忙しく二人は結婚当初から言い争いが絶えなかった、というのを聞きました。それがほんとうかどうかは本人に、できれば夫にも聞かなくちゃ死人に口なしで真相は藪の中ですが、そういう妻の寂しさというか放置され感というのは分からないでもありません。けれども(私は自分の人生しか体験できないので他人については自分と照らし合わせて想像するしかないのですが)、私は子どもが生まれる前の二年間より子どもが生まれてからの方が夫不在の時間を持て余していたような気がします。子どもがないうちは、朝夫を送り出してから夜夫が戻るまで仕事を持たない私にとっては自由時間で、好きな時間に家事をして上手く時間をやり繰りしたり適当にサボれば一日をかなり有効に過ごせました。夫がいないのはさほどに寂しくも辛くもありませんでした。 子どもが生まれてから感じた
憎しみの感情で断罪しないなどと書くと、偽善的である批判されたり、人は憎しみなどの感情によって心が動かされるという意見もあったりするわけです。何を言っているのかと思います。憎しみの感情を持たない人と言うのがこの世にいるのでしょうか。そういう人がいるとしたらぜひお目にかかりたいものです。そんな自明のことを今さら良いとか悪いとか論じても埒があきません。 重要なのはどうするのが全体の利益に適うかということです。憎しみの感情のままに行動して、得をするならそうすればいいでしょう。しかし、私は誰かが一人勝ちするのは気に入りません。誰かに一人勝ちさせるくらいなら、自分の多少の得を無視しても阻止します。憎しみの感情で以って行動されて、思いもよらぬことで憎しみを買い、命を奪われては堪りません。自分が憎しみの感情で以って行動して、その結果に誰かを不幸に落としいれ、憎しみを買うのも損なのです。 学校では道徳と言う
担任によって方針は違うと思いますが、小学校も高学年になるとその日の授業に必要な道具を忘れた者は、休み時間中に別のクラスの友だちに借りにいくなど、自分で解決するように指導されるようになります。 末っ子のクラスメイトのYくんは度々忘れ物をしても自分で誰かに借りに行かず、先生に告げるのだそうです。先生は、クラスメイトたちに「誰か貸してあげる人はいませんか」と尋ねます。先日は習字の時間に墨を忘れたYくんに誰も貸すという人が現れませんでした。末っ子が、授業が始まってからどさくさにまぎれて立ち上がり、Yくんの硯に自分の墨をチュッと差した、という話をYくんのお母さんから聞きました。(すみません、わが子自慢をしてしまいました。その部分は寛大にスルーしてください。) Yくんのお母さんに「Sちゃんにありがとうと言っておいてください。」と言われたのでその話を末っ子に持ち掛けました。末っ子は家であまりそういう話を
あまりまとまっていないのであえてカテゴリは『思ったこと(boyaki)』ということで。 いじめについて書かれたテキストをはてなSBSにてブックマークしました。当然Webにある全ての記事を網羅しているということではなく、たまたま読んだ記事で一部共感する内容が含まれるものに関してクリップ、どの記事に関しても全面的に同意ということではありません。また、クリップした記事内でリンクしている記事も一応目を通してはいますが、割愛しています。自記事はあえて無視しました。 ■はてなブックマーク - aozora21のブックマーク / いじめ これらの有用な記事を拝読したり、テレビの報道などを聞いてふと感じた違和感について書き記しておきます。 今朝のニュースによれば、ついにいじめによる自殺を予告する文書が文部科学大臣宛に送られたようです。是非、じゃなくて絶対に思いとどまりなさい、思いとどまるべきです。死んで欲
近頃「ブログは量(アクセス数)より質を大切に書いていこう」という論旨の記事を頻繁に見かけるようになりました。昨年ごろまでアルファブロガーと称される書き手のウェブログに人気が集中しいわば一人勝ち(一人じゃないですが)のような様相でしたが、すでに固定化した感もありそれ以後同じ規模の新しいウェブログはそれほど生まれてこないような気がしています。あくまで主観です。そうその「主観」、客観的な裏づけも無いのにこれを「全体の傾向である」とか、「新しいウェブログは生まれていない」としてしまえば、ソースや論拠を求められざるを得ないでしょう。 けれども、「新しいアルファブロガーは生まれてきていないと感じ」ている私にとっては、新しいアルファブロガーは生まれてきていないのです。それはただ単に、私の探究心や広くwebを見つめる視点が不足しているに過ぎません。しかし、その視点は誰のために何のために必要でしょうか。 例
■くりりんスーパーより くりりんスーパー -Sat 2006/10/28[妄想]金縛り 私も何度か金縛りにあった(なった、が正解かしら)ことがあります。 それが「金縛り」という名前だということはその時には知らなくて、テレビ番組でか読んだ本の中に書いてあったのかは忘れましたが(なぜならその後も何度か同じようなシーンに直面したのでどれが一番初めだったか分からなくなった)大人になってからそれが心霊現象ではない(ではないとその人は言っていた)と知りました。というか、心霊現象かどうかすら考えたこともなくて、「心霊現象としての金縛りという状態」を知るのとほぼ同時に「それは医学的に脳が目覚めて体が目覚めていない一瞬の間に起こる現象」だと知ったのでした。そこで「金縛り」と呼ばれている状態が自分が体験した幾つかの「寝ている時に体が動かない怖い現象」と同じだったので、金縛りという名前なんだなあと思いました。
■Yahoo!ブログ - 罵詈雑言の便所の落書き。 この方打たれ強い。直前の記事で…話は変るけど、イジメの話をすると 『イジメられる方にも原因がある。』 なんて事を言うと、『イジメる方が悪いに決まってるだろ!!』と血相変えて顔を真っ赤にしていわれますよね。 こういう人は面白いですよねえ~。 そりゃイジメる方が悪いに決まってますよ、あと周りにいてとめなかったバカもね。 でもさ、『原因』はイジメられる方にもありますよ。 その辺の事を理解できないと、ずーっとイジメられますよ。止まりませんよ。 コメント欄を読むと批難轟々、某所で炎上(?)の模様。 『いじめられる方に原因がある』は禁句、その上書き方が揶揄的で癇に障らないでもありません。しかしどうでしょう、このコメント欄の様相といったら、まるでいじめそのものです。この人たちはほんとうにいじめをなくしたいと思っているのでしょうか…。 その
■JIROの独断的日記 -2006年09月30日(土)「さくらちゃんを救う会」難病女児の募金に批判/臓器移植:みらいちゃん 来月中旬に渡米※加筆修正と記事移動のためリンク先アドレスが変更さました。筆者に代わりお詫び申し上げます。 難病の「拘束型心筋症」と診断された三鷹市の団体職員、上田昌広さん(53)の長女さくらちゃん(4)を救う会への一部の人の批判についてのご意見です。批判の根拠を一つ一つ丁寧に掘り下げて疑問を払拭させていらしゃるのと、心意気のようなものでしょうか、心を動かされとても共感しました。 私はさくらちゃんを救う会がネットの一部の人たちの間で批判に晒されているということを、産経新聞のWebサイトで読みました。(参考:難病女児の募金に批判 ネット掲示板) 不信を感じたのは、ネットの一部で問題視されているに過ぎないことを、どうして大新聞が取りざたするのかな?ということです。そりゃそう
■じぶん更新日記【思ったこと】 _60922(金)[心理]日本教育心理学会第48回総会(6)選択の自由の及ばない機会の格差? (23日以降は過去ログ倉庫に移行されると思いますので、2006年9月のインデックスの22日に飛んでください) 複数ブログを書き分けることについて興味深いお話でした。全文になりかねないのと、孫引きになりますので引用しませんので、以下の記事をお読みいただく前にぜひリンク先の記事をご一読くださいね。できれば前日のじぶん更新日記 9月21日 * 美しい朝焼け/日本教育心理学会第48回総会(5)自伝を作ることが礼賛されるからブログを書くのか? からお読みいただくと分かりやすいです。 私も複数の日記を書いていたり、素材サイトも運営している(ただいま更新停滞状態ですが)のもあって、とても興味深い内容でした。 私の場合、日常的な出来事を綴る日常日記と、日常から少しはなれて見たり聞い
ボランティアについて続きですが。 カテゴリを「思ったこと」にしたので言いきり型な書き方でなんだか偉そうで「そいじゃおまえはどうなんだ?」と問われたら「いやあぼちぼちですわ(*^^*;)>))」としか応えられないのですが、それを念頭に置いてご容赦いただいて。 ホームでの傾聴も付き添いも、ボランティアに頼らず福祉を充実させるのが先決かも?とも思います。テキストサイトやブログにて、ボランティアの存在が福祉の充実を阻害しているという意見を見かけたこともあります。ボランティアの内容に寄ってはそういう面もあるのかもしれません。正直社会の仕組みについてよく分からないことが多いので否定はできません。 けれどもこうも思うのです。お金で人を雇えば解決できることばかりでしょうか?と。 DEODEOという家電大型店のCM、これは地域限定なのでしょうか、所ジョージさんが歌う「シンパイの唄」というバージョンがあるの
ボランティアについて思ったことを少し。 先日友人が某情報番組にて、老人ホームを訪問して傾聴ボランティアをしている方を取材した特集を視た感想を話してくれました。私は視ていないので聞き取りですが、ボランティアの市民もホームのお年寄りと同年代に近い高齢者だったとのこと。ボランティアが自分とさほど年の違わないホームの利用者に向かって、いかにも子どもを相手にしているような話し方であったこと、自分が訪問して話に耳を傾けることをとても喜んでくれていると話す口ぶりや、リハビリを兼ねた軽作業(内容は聞かなかったが、ハンドタオルやエプロンなど洗濯物を畳むなどの作業をしていただくことがある)の出来栄えを褒めそやかす口ぶりに、上から見下ろすような目線を感じ気分が悪くなったそうです。それにも拘らず、番組の司会者や出演者みんなが手放しで賞賛しているのでますますキモチが悪かったそうです。 友人も私も同世代でそのボラン
■「断定調」考-日々是自己主張 文末の処理はほんとに悩むところなんですよねぇ…。自分のいくつかのエントリを読み返してみたのですが、ほとんど「と思います」「のように感じました」で締めくくられています。中には「私は猫のそんなところが好きなんだろうと思います」だなんて、自分の好き嫌いまで「思います」なんて書いちゃってる。「猫のそんなところが好きなのです」と書いてもいいんですけどね、実際そんなところが好きなのかどうか、はっきり分からないのです。 例えばウナギなら「ウナギは嫌いです」と言い切れるし「犬が好きです」とか、対象が明確なものなら断定できます。ただ、自分自身にしても他者にしても、気持ちみたいな目に見えないものは正直分からないので断定できないのです。 ああでも、今一度読み返してみると、不要なところまで「感じました」とか「ように思うのです」と結んでいるな。ちょっと改善してみようかしら。 私の心象
帰省した長男が持って帰った文庫。生まれた時からウチに猫が居るのに今はペット禁学生マンションなので飼えない状態です。猫が好きな人っていうのは、写真集や猫ブログの画像を見るのも好きらしい。 私も自宅に猫が居なかった二十歳の頃、成人のお祝いに猫の写真集を二冊買って貰いました。はらたいらの監修でした。でも、猫ブログは見ないですし、近頃は猫と遊ぶこともないです。自分の気が向いたときに猫の都合などお構いなくいじくりまわすので、すぐに逃げられてしまいます。 考えてみれば、猫が飼いたいなんて思ったことがない…。散歩の途中で捨てられているのをカラスに食べられるからと連れて帰ったり、近所の小学生たちが、子猫が逃げ出して車に轢かれたりしないように、大切に箱に押し込めて空き地の土管の中にしまっておいたのを気の毒に思って助け出したり、子どもが連れて帰ったので仕方がなくとか、あとは勝手に居ついたり押しかけてきたり、そ
ウチで飼っている猫は一度出産を体験してから避妊手術をしています。初めての出産、6匹の仔猫が生まれたちょうどその頃、知人が、同じ位(少し小さい)仔猫をお子さんが拾って帰ったけれど育てられないと困っていました。そこでウチの飼い猫が自分の子どもたちに乳を与えるためにはべらせているところに、そのヨソの仔猫を紛らせてみました。飼い猫は黙って(気づいてない?)乳を与えていました。ヨソの猫は少し小さいので吸い付きも悪く、乳首は六つしか開発されていなかったので実子たちが飲み終わったあとにやっとおこぼれにありつくという状態で、まだ飲み始めて間もないうちに親猫が歩き出すことがあって、やはり実子でないからだろうか?と思いましたが親猫は大きさも毛色も違うヨソの猫の毛づくろいまでしていました。 とすれば、猫の子育ては人間のそれとは少し動機が違うかもしれないなぁてことを思いました。出産も育児も本質的というより本能的、
懐かしいキーワードがたくさん、「ありがち」なことや、共感を呼び起こす考え方モノの見方でそのまんま書かれた物語だなあという印象。うまくまとめられないので箇条書き。 地方出身者の東京に対する憧れと、東京暮らしを実現してから表明する(感じたことからさらに考えた事)自身が身を置いている上で自嘲的に語られる都市生活者や東京。これは都会暮らしを実現していない人が語れば単なるヒガミに過ぎないし、東京生まれ東京育ちの人が語れば救いようのない真実になってしまう、地方出身者だからこそ語れるのだ。都会というもものこういう語り方は、大阪在住でも福岡在住でも田舎出身者なら共感できるのでは?こういう、当事者意識を無視した、あるいはそういう自分をも自嘲的に描き客観的視点を持っていることを強調することによって自らは度外視しつつ現象や実態を批判する手法は、私もよくやるけどありがちだと思う。例えば日本人批判とかでも。 ボクも
一頃は社会的弱者救済なんて書くと「弱者って誰?」と背中に冷ややかな視線を感じたりしたものでした。生活保護云々についても不正受給者に対する批判の方が勝ってしまって、ほんとうに必要な人は置き去りのように感じた。それだけ不景気で戦々恐々としていたのかもしれない。 NHKのテレビ番組でワーキングプアと呼ばれる人たちの現状が描き出されたらしいが視ていないのでよく分からない。ワーキングプアとは「働く貧困層」のことで、働いているのに生活保護世帯以下の生活水準しか確保できない層のことらしい。 数年前これから企業は能力主義に移行しますと聞いたとき、すんなり受け入れられているのがすごく不思議だった。能力主義になったら、能力のある人はいいけれどない人は困るんじゃないか?能力がある人はある人同士で競い合ってより高い成果をあげればいいけど、能力のない人も最低の生活は保障されなくちゃいやだよなあと思った。それに、単純
夏休みに実家に行く計画を練っています。夫が「どうやって(乗り物はなにを利用するかという事)行くの?」と尋ねるので「夜行で、」言うと「お盆だし、もうないだろう」と呟くので「逆方向(上京になる)なので大丈夫なのよ」と答えました。 夫は何かにつけてこういうネガティブなものの見方をするタイプで、例えば外食するとき、店に到着しないうちに「今日は混んでるだろ」。店の駐車場が半分ぐらい車で埋まっていると「満員だ」。 店が混んでいるかどうか行ってみなくちゃ分からないし、わざわざ出かける手間が惜しいなら問い合わせをするので、調べもしないうちに無駄なことを話してもしょうがないと思うのです。駐車場にたくさん車が止まっていたら、とにかく店の人に状況を聞いてみればいいことで、聞かないうちに先回りしてがっかりすることもないと私は思うわけです。 夫が言うには、ポジティブに考えていて、もし思い通りにならなかった場合、がっ
■普通日記: メタ疲れ。 いつも、事象に遭遇したとき、自分のメタ倉庫にまずは逃げる。 どの論理群に定着させるか。どの感情群に定着させるか。選ばないと。事象を。 じゃないと、忘れてしまうから。 編集しないと。物語にしないと。論理に還元しないと。 ということを無意識にやっていると、 蓄積するのが、 「メタ疲れ」。 「評論し疲れ」。 「編集し疲れ」。 「当事者であることから逃げ疲れ」。 メタ疲れというのは結構人からエネルギーを奪う。 私が常に低テンションなのはこのせいだといいたいくらいに。 今の若者もそうじゃないかなあと思ったりする。 将来をざっと想像してしまって。世の中を分かった気になってしまって。 面白くない、とメタ疲れ。 当事者にならないとエネルギーなど生まれてこないのだ、そもそもにして。 解釈する側より、解釈される側の方が楽しいに決まっている。 現実を追
昨夜「好きなものを好きと言えない不自由さを感じることがある」と書いたら「気にせずバンバン書いてください」とコメントをいただきました。 何を気にしているんだろう?と自問するまでもなく、自分に伝わってもいないツッコミが見えない壁なんですわ。このことは、好きなものだけじゃなく日記で事件や時事などのニュースを扱う時にも感じるためらいです。他の方はそういうことないのかな…。 テレビや新聞やネットで配信されている一時一次情報が私が普通に手に入れることのできるソースですが、世の中には裏もありその裏の裏もあったりして、ちょっと努力すれば裏まで辺りなら知ることができるのがネットの世界じゃないですか。一次情報にマトモに反応して、直後にそれを覆す情報を知ったり、ってよくあることで、別に誰に責められるわけじゃないですが、自分の一次情報への反応が凄く無駄に感じるのです。何も語らない方が気楽なんじゃないか? 自分がど
全く予備知識がなく『鏡の法則』を読み始めたのですが、コンサルタントが登場して「あなたは誰か責めている人がいます」と言い当てたところで読む気を失くし、いったいこれは何物?とブックマーカーの動向やら関連記事を探りました。 子どものいじめに悩んでいた主婦が心理学に詳しい経営コンサルタントと対話することによって、自分自身が抱えている問題に気づき解決に向かう。すると、すべてがうまく行き子どもも虐められなくなった、という実話だそうです。 母親自身の実の親との確執を解決したところで、無関係な第三者に虐められている子どもの問題が解決するはずがない…。それはあながちそうでもないかも?と思います。風が吹けば桶屋が儲かるじゃないですが、親の気持ちや生活態度が子どもに伝染するのはよくあることで、幼い子どもの人の好き嫌いなんてほとんど親の口真似なので要注意。口に出さなくても態度で感じ取ります。人を嫌うのを当たり前に
昨日午前中何気なく点いているテレビを視ていたらジャガー横田というプロレスラー(らしい)女性タレントが『波乱万丈』という番組でご自身の生い立ちについて再現フィルムを交えて語ってました。幼い頃に両親が別居し、その後実父は他界、母親は再婚して幸福な生活を送っていましたが、学校では虐められていたようです。私はこの番組を何度かこんな風にぼんやり視ることがあるのですが、この番組は子ども時代に虐められていた人を選んで出演させているのでしょうか…。そのくらい、かつて虐められていたと証言する人が多いです。 映画女優の柴崎コウですか、彼女も歌番組のトークで昔虐められていたと告白していました。私は芸能誌も読みませんし、トーク番組もほとんど視ないのですが、たまたま虐められ体験のある人の番組ばかり視ているのでしょうか? 酷いイジメにあって自殺にまで追い込まれたお子さんもいますし、イジメは許せない許してはならないと思
■NC-15 - 徳保氏に対するアンサー ロックな語録を集結。 まあ、秋田のあの事件については、俺が数を頼んで他人に圧力かけるのが大嫌いなんで、生理的に嫌悪感感じたわけですよ。 あとは、異様な同調圧力というか。 俺自身、自分はまともじゃねえと考えてるんで、自分の基準を他人に押し付ける気はまったくないわけで。 俺だってそんなに人格が高潔なわけじゃねえからイジメをやらねえとは言い切れないのだが、基本的に他人は他人、自分は自分と考えてる。だから自分が正しいと思ったらやるだけだし、そうでなかったらやらねえ。 俺も実際いじめの現場見てるけど、基本的に止めにはいりますよ。俺。力が足りなくても、少なくとも自分でいじめに加担しねえ。それぐらいの覚悟は持ってるわけで。 仕事ができなかったり遅かったりしたら俺が手取り足取り教えてやればいいだけのことであって。実際そうやってますし。でなきゃ人手が足りなくて困る
■Yahoo!ニュース - 共同通信 - 放火殺人で高1長男逮捕 「成績、父親に言われた」 かわいそうに。重い罪を背負い込んでしまって…。 こういう事件が起きると事件の重大さから特別な子どもの犯罪として捉えられがちだけど、はじめはそうじゃない。容疑者に関して、学校関係者や近隣の人や友人たちは口を揃えて「明るい子だった」とか「挨拶をきちんとする子だった」とか「仲のいい家族だった」と言います。たぶんウチの子が事件を起してもそう言われるでしょう。犯罪を起しそうな顔つきで暮らしている人の起す犯罪はニュースにもならないようなありふれた犯罪で、重大な事件はいつでもごく普通の人々によって起される…。例えば秋田の事件のしても、なんでもないどこにでもいるような人の過去のふるまいに付加的な証拠固めがなされて、みるみるうちに「罪を犯しそうな人」に作り上げられていく。この少年も、事件を起す直前まではたぶんどこにで
■弁償するとき目が光る : なぜ、人を殺してはいけないのか→いや、いけなくありません「いけない」というのはまやかしです ここのコメント欄。コメントを入れたけれど長くなったのでデリ、記事にしました。 「hot_soul(23mmさんのコメントとしていました。訂正してお詫びします。):つまり、「人を殺してもいい」と考えている人は、他者も「人を殺してもいい」と考えていることを許容すると言うことで、それは≒「私は殺されてもいい」という宣言になりえるわけですよね。」 ↑ fromdusktildawn:現実には、ほとんどの人にとって、自分が死ぬのと他人が死ぬのとは、全然別のことでしょう。 他人の命よりも自分の命の方が大切だと感じる気持ちがないのですか? 「こいつは殺した方がいい」と思うとき、同時に「自分も殺されてもいい」と感じている人なんて、そんないないですよ。 「こいつは殺した方がいい」と
■「日本代表」を応援する人に愛国心はないのか?-日々是自己主張より。 …多くの場合、日本人が日本代表を応援するのは、彼らが自分の生れた国の代表、「日本人」の代表であるから、ではないかと思うのですが、これは愛国心とは違うものなのでしょうか。 愛国心を否定するということは、自分が「国家」を愛しているという気持ちを否定することであると同時に、「国家」というものからそういう気持ちを強制されることの拒否ということだと思うのですが、そのように「国家」への帰属意識を持たされることを拒否しながら、他方で自らが「日本人」であるという認識を持ち、「国家」への帰属意識を持ちつづけるというのは、僕にはずいぶん奇妙なことのように思えます。 私はサッカーに全くといっていいほど関心がないので当然ワールドカップを視ていません。夫もサッカーに親しんでいないのと、放送時間が深夜であること、日本チームにあまり期待ができないな
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