サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
アメリカ大統領選
efu1977.exblog.jp
J様こんにちは、3年ほど前に在特会のカウンターデモ等に参加させていただきましたFと申します。本日の「OsakaAgainstRacism仲良くしようぜパレ...J 様 こんにちは、3年ほど前に在特会のカウンターデモ等に参加させていただきましたFと申します。 本日の「Osaka Against Racism 仲良くしようぜパレード」の成功を祈りつつ、以前にいただいた賛同書の中の一部の表現と今回のメールの「(伏)」の文章でJさんと私との認識に違いがあると感じましたので、メールをさせていただくことにしました。この間、このMLにおいてパレードに関する情報はJさんからのメールしか流れていないと思いますので、パレードに関心を持たれていない方や、ツイッターなどを使用されていない方が誤解をされないよう、二点だけお話させていただければと思います。 もちろん私は、Jさん始め、このパレードを実現させるため
オモニハッキョに来て、今まで勘違いしていたと思ったことは、特別永住者のオモニよりも、一般永住者のオモニが圧倒的に多かったことです。わたしがハッキョに関わっ...オモニハッキョに来て、今まで勘違いしていたと思ったことは、特別永住者のオモニよりも、一般永住者のオモニが圧倒的に多かったことです。わたしがハッキョに関わった時代のせいかも知れませんし、在日について無知なわたしが在日一世はみんな特別永住者であると疑いもなく思い込んでいたことが原因なのですが、オモニハッキョに来てオモニたちから学んだことの一つが、同じ在日朝鮮人でありながら、特別永住者と一般永住者が差別されているという事実でした。わたし自身が特別永住者という「特権」に批判意識を全く抱いていなかったことを恥ずかしく思いました。 Kオモニも一般永住者でいらっしゃいます。50年代後半に日本に密航で来られ、トーロクが無く潜みながら日本で生活をさ
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)わが家に「韓流ブーム」がきて、6年以上経とうとしています。 最初に、わが家に韓流ブームを巻き起こしたのは私なのですが、「韓流」なるものの面白さを私に教えてくださったのは、I美オモニでした。 7年ほど前の、あるハッキョの授業でのことでした。その頃の私は、まだ担当のクラスを持っておらず、その日のオモニやスタッフの出席状況に合わせて、「あ組」でお勉強をされているオモニたちと、ほぼ日替わりのような感じでマン・ツー・マンの授業をしていました。 ある日、I美オモニと一緒にお勉強をさせていただくことになった私は、三階の教室の一番奥の机に座って、授業が始まる前から、もう一生懸命ノートに何か書かれているI美オモニのそばに行き、I美オモニに「今日は、私が担当させていただきますので、よろしくおねがいします」とご挨拶
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)本年も時々よろしくお願いいたします。 今年はまだハルモニの喪中中なので、お年賀いただいたみなさま、お年賀のお返事できませんが、このブログにてお詫びさせていただきます。 ブログをほったらかして、どこで遊んでいたのかと思われるかも知れませんが、七月くらいから無印のイスラエル出店を中止させるための工作活動を、毎日えんえんとネチネチやっていました。 12月1日に無印がイスラエル出店中止を発表したことを受け、ようやくえんえんネチネチ工作活動を終えることができました。今年も、対イスラエルBDSをどこかでやってると思います。 詳しくは、パレスチナの平和を考える会のサイトやパレスチナ情報センターさんのサイトをご覧ください。 ところで、先日、新しく梅田にできたデッカいジュンク堂に行ったら、偶然「在日コリアン
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)最近、「署名」をする機会が多くなりました。 もちろん、「署名」といっても、単に自分の名前を書く行為のことを指すのではなく、街頭や集会の場などで個人や団体が行なっている社会問題等の「署名運動」の趣旨に「私も賛同します」ということを示すために、署名用紙などに自分の名前を書く「署名」のことを言っています。 署名をする機会が増えたのは、単純に、わたし自身が最近そういった運動や活動の場に参加をすることが多くなったことと、恐らくは、去年の政権交代を受け、旧来の政策の変更を求めたり、新政権に対して新たな政策を要請する日本の市民運動が活発になり、街頭や集会での署名運動も増えたからなのではないかと思います。また、パレスチナや朝鮮学校の高校無償化排除の問題など、署名運動を通じて、そのような社会問題の存在を知るという
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)NO MORE TODAY! NO MORE TODAY! NO MORE TODAY! THANK YOU! はい、去年も同じことをブログでやったのですけどね、今年も同じことをやってるというのは、負けてる証拠ですね。 生まれてこなければ良かった人間(?)の誕生日を、その死後も残し、祝うという、気持ちワルすぎて、ちょっとほんまにカンベンしてほしいと、普通の人間感覚ならそう思うと思うのですけど、この気持ちワルさを気持ちワルいと思わないのが普通の臣民感覚なのでしょうか。「コイツ」が生まれたせいで、どれだけの人間が悲惨な目にあい、侮辱され、尊厳を奪われ、殺され、亡くなられていったのでしょうか。「コイツ」のせいで、今もどれだけの不正義が横行し、不合理、不条理な事がまかり通っているの
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)今朝、会社の最寄り駅を降りて、会社までの通勤路をボーっと歩いていた時のことです。 突然、前の方から「U氏!」とわたし私の本名の下の名前を呼ぶ声が聞こえました。驚いて顔を上げると、にこやかな笑顔で私に手をふっているSちゃんの姿がありました。 Sちゃんは、私が水曜日に通っているチャンゴ教室で出会ったお友だちで、おととしの春から去年の四月まで一年間、毎週火曜日に同じクラスでチャンゴを習っていたのですが、去年の四月からわたしが水曜日のクラスに移ったため、この一年間は別々のクラスに分かれて練習をしていました。でも、Sちゃんはわたしの勤めている会社のすぐ近くに住んでいて、チャンゴで出会って以降、時々お互いの通勤時に道でバッタリ会うことがしばしばありました。ただ、わたしは基本的に道を歩いている時はいつも足下を
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)直前になってしまいましたが、12月28日の行動です。 広い呼びかけと、ご参加をお願いいたします。 *―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―* ■ガザ虐殺を繰返させないための12・28大阪米領事館申入れ行動 *―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―* 1400人以上の犠牲者を出したガザ大虐殺から1年が過ぎようとしてい ます。しかし、未だにイスラエルは戦争犯罪者の処罰を行わず、ガザ 封鎖の継続によって人々の生活を破壊し続けています。 こうした状況にも関わらず、オバマ政権は従来の親イスラエル政策を 改めることができずにいます。ガザ虐殺を繰返させないためには、ま ず、アメリカによる強力なイスラエル支援を止める必要があります。 私達は、オバマ政権に対し、イスラエルに対
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)わたしは、Oオモニに「イオ」が総聯系の雑誌です、ということをお伝えすることができませんでした。 先月末、「イオ」の編集長さんがオモニハッキョに来てくださり、Oオモニへの取材を終えられた後、わたしに「Oオモニは、お子さんたちを韓国系の民族学校に通わせられたそうですが、『イオ』の取材を受けても大丈夫だったでしょうか?」と、少し心配そうにおっしゃられました。その時、わたしはOオモニに「イオ」のことをちゃんと話していなかったことを不安に思いながらも、Oオモニはこれまでも色んなところで取材を受けたり、お話をされたり、また歌を歌いに行ったり、踊りを踊られたりしているので、多分大丈夫だと思います、と答えたのですが、内心本当に大丈夫だったのかどうか自信がありませんでした。 先週の木曜日のハッキョの後で、わたしは
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)来年の干支は「トラ」ですね。 うちの家族は、結構「トラ」が多いです。まず、わたしのハルモニが「トラ」年生まれで、来年84歳になられます。そして、わたしの母親も「トラ」生まれで、来年60歳の還暦を迎えます。また、現在進行形でモサモサ中のわたしの弟も「トラ」生まれで、「トラ」というよりは「イエティー」みたいな感じなのですけど、一応「トラ」で来年24歳になります。弟に関していうと、12年前はまだ12歳やったんですよね。その頃は、まだめっちゃ爽やかな野球少年やったのに、どこでどう間違って12年後の現在、なぜか悪態をつく時だけ関東弁になるギター系引きこもりのモサモサ君になってしまったのでしょう。 おとといも、チャンゴの練習を終えて家に帰ると、弟が母親に「なあ、チョコが食いてえから、チョコ買って来てえや」と
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)10月の半ばくらいに、2年間ずっと一緒に舞踊の練習をしていたYちゃんが、急に会社の移動の辞令が出て、遠くに行ってしまうことになりました。 Yちゃんは、わたしよりも7、8歳年下の若い同胞で、わたしよりも二年ほど後から同じ舞踊の時間に習いに来られたのですが、持ち前の運動神経の良さと物覚えの早さで、習い初めて一年もしないうちに、わたしよりも踊りを覚えるのも早く、またとても上手にきれいに踊れるようになりました。Yちゃんよりも二年も先輩なのに、年々踊りを覚えることも遅くなり、また一向に踊りが上達する素振りの無いわたしは、そんなYちゃんをとても頼もしく、うらやましく思いながら、練習の前や、練習の後で、わたしが中々覚えられない踊りの振り付けを教えてもらったり、発表会の前には民団の隅っこを借りて、発表会でうまく踊
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)ようやく引っ越しがひと段落ついたと思ったら、今度は来年の春の兄の結婚式の準備で、わが家は少しバタバタし始めました。 少し前から、こちら側の親族がどれだけ来てくれるのか、招待状を出さなければならないから、出席する親戚の住所のデータを送ってほしいなど、東京の兄と母の間で色々やりとりが続いています。結婚式は東京で挙げるので、交通費がかかることから、こちら側の親族もそれほど出席してくれるわけではないようです。特に、父方の親戚の方は、わたしたちの祖父母は共に高齢かつご病気中のため、東京まで連れていくことはできず、また、セッタボジ、コモニンは亡くなられ、チャグナボジも今は遠くに住んでいらっしゃるので、父方の親戚は誰一人として出席できないことになりました。幸い、母方の親戚、特に母の兄弟姉妹であるオバやオジたちが
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)少し前に、わたしがオモニたちの前でチェジュマルを話してみたところ、オモニたちがビックリされながらも、大笑いをしてくださったということを書きました。 どのオモニにとっても、オモニたちが幼かった頃に話されていた、そして今も、オモニたちだけで話をされ、お話が盛り上がってくると、自然とオモニたちの口から出てくるチェジュマル。オモニたちが、唯一、話したいと思うことを自由に話すことができ、まちがっているかどうか、不安に思うことなく話す使うことができる言葉、それが、オモニたちのチェジュマルなのだろうと思います。もちろん、オモニたちの言葉は「朝鮮語」でありながら「チェジュマル」のため、もう、オモニたちのコヒャンの人々にも通じない言葉であったりもします。オモニが済州島で暮らすお孫さんに電話をかけられ、オモニたちがチ
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)昨日、仕事を終えてオモニハッキョに行くと、ハッキョのポストに「月刊イオ」が届いていました。 「月刊イオ」は、以前にブログで紹介させていただいたブログであります「日刊イオ」の本体というか、主に「在日」同胞のことをテーマにしている月刊誌です。今年の夏くらいから、わたしが「日刊イオ」のブログにストーカー的にブクマ(コメントのようなものです)をしていたところ、「日刊イオ」の編集部の方に見つかり、逆に「イオ」の編集部の方にわたしのブログを発見されてしまったことから、そこはかとない交流が始まりました。そして、嬉しいことに、オモニハッキョのオモニやスタッフの為に、毎月「月刊イオ」を送ってくださることになったのです。 「月刊イオ」は本当に素晴らしい雑誌で、昨日いただいた最新号を合わせると、わたしは「月刊イオ」を
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)先週の火曜日の夜ことです。 舞踊の練習が終わり、家に帰ってビールを飲もうと冷蔵庫を開けたところ、なんと、冷蔵庫の中に、わたしの家にあるべきはずのない、あの恐るべき真っ赤な色をした、あの、あの、あの、 ハブ・ア・ブレイク! ハブ・ア・キット・カット! が入っているではありませんか~!! 冷蔵庫の中のおぞましい真っ赤な色をしたキット・カットを目にしたわたしは、恐ろしさのあまり、ビールを取り出すことも忘れ、反射的に冷蔵庫のドアをバタンと閉め、わたしの家の冷蔵庫の中にキット・カットがあることを、他の誰にも見られていないか、辺りをそーっと確認してしまいました。一体なぜ、わたしの家の冷蔵庫の中に、あのイスラエル支援企業の中でも、黒に近い、いえ、ほぼ真っ黒であると断定してもいいネスレのキット・カットが入っ
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)月曜日、いつものように授業が始まるまでの間、2階の教室でオモニたちとお話をしていた時のことです。 オモニたちが楽しそうにお話されているのと聞きながら、わたしは小さなメモ用紙に、伝言メモのようなものを書いていました。顔を机の方に向けてメモを書きながらも、わたしはオモニたちのお話に時々相づちを打ったり、くすくすと笑ったりしていました。そんな風に、しばらくの間、わたしがオモニたちのお話を受けて言葉を継ぐことをせずに、ただオモニたちのお話を聞くだけにしていると、そんなわたしの姿が面白くなかったのか、オモニたちはお話しするのをやめて、「せんせい、それ、なに書いてますのん?」と、わたしの書いているメモをのぞき込んで来られました。わたしは、自分の書いたメモを見せながら「ああ、これは、ちょっと人に伝えないといけな
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)先週、引っ越しの手続きをするために、区役所へ行きました。 引っ越ししたと言っても、通勤の最寄り駅も変わらず、どちらかと言えば、前の家よりも駅までの距離もほんの数分近くなったくらい、日常生活における環境的な変化はほとんどありません。ただ、前に住んでいた所と「区」が変わってしまったため、移転届けと外登証の切り替えに、区役所に行かなければならないようでした。と言っても、わたしはそういう行政的なことに全く無知な上に無頓着で、母親から会社の社会保険の切り替えと、外登証に記載されている住所の変更手続きを、すぐにやりなさい!と急かされて、面倒くさいなあ、と思いながら、しぶしぶ手続きをしに行ったのでした。 区役所に行く日の朝、生まれて初めて住む場所が変わることになった私と同じく、34年前に父と結婚をして以来、住
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)土曜日、「外国人排斥を許さない10.10関西緊急行動」の集会とデモに参加をしてきました。 いつもなら、その日のことを、わりと細かく描写をするのですが、書いているとアイツらのことを思い出して気持ちが悪くなってきたので、詳しく書くことをやめることにしました。 簡単に説明をすると、当日12時に日本橋近くの愛染公園で集会があり、各団体や個人のアピールをした後、難波へ向かってデモ行進を行いました。デモの後で、一時休憩をして、難波駅の周囲でビラ撒きの情宣活動を行いながら、「在特会」の狂信者行列がこちら側に近づいてくるのを待ち、ヤツラとすれ違う所で、全員で大声でシュプレヒコールを上げました。何十本もの大小の日の丸をぶら下げ、奇声を発しながら御堂筋を集団で近づいてくるヤツラの様子は、あまりにもグロテスクで、わた
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)わたしは、クジ運というものが、あんまりありません。 まったくない、ということもないのですが、ほとんどない、といっていいくらい、クジ運がないと思います。これまでの人生を振り返ってみると、クジ運だけでなく、そもそも、運そのものがない、と言ってもいいのかも知れないのですが、運も実力のうち、なんていう言葉もあるくらいですので、運がないということは、実力がないということなのかも知れません。本当に、情けないかぎりでございます。 というのは、おとといまでのわたしの姿でありまして、生まれて32年と2ヶ月目にして、ようやくわたしにも、運がめぐってきたようです。 なんと、わたしは「日刊イオ」さんが募集していた「強盛大国」Tシャツプレゼントに応募したところ、見事にTシャツが当たってしまったのです! 「日刊イオ」さ
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)みなさんは、囲碁できますか?わたしね、こう見えて囲碁、めっちゃ できないんですよ。 わたし、囲碁できそうに見えるでしょ?この優柔不断で、いつまでたっても白黒はっきりせんやっちゃなーみたいな性格に、囲碁的素質がありそうに思えるでしょ。でも、全然できないんです。囲碁だけではなくて、将棋とかオセロとか、そういう頭を使う知的なゲームがまったくできないんです。やったことはないのですが、多分、チェスもできないと思います。わたしの頭って、物事を大局的に見たり考えたりすることができない造りになっているようで、目先のことしか見えないていないので、将棋やオセロをやっても、いつも一瞬で負けてしまいます。 小さい頃は、兄とよく将棋をしました。もちろん、兄の方が圧倒的に強くて、わたしはいつも負けてばかりなので、兄と将棋
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)レバノンの難民キャンプで暮らしている里子ちゃんから、お手紙が届きました。 里子ちゃんからのお手紙は、これで2通目です。最初にいただいたのは、5月の少し前、母の日の「マザーズ カード」でした。自分の母親にも、マザーズカードなんて送ったことも無いというのに、生まれて初めて「Thank you、Mother」なんてメッセージの書かれた、かわいいクマちゃんのカードをもらってしまったわたしは、とてもテレてしまって、小さなカードを握りしめたまま、妙にそわそわしてしまいました。そして、わたしも里子ちゃんにお手紙と、ちょうど5月で6歳になる彼女に、お誕生日プレゼントを送ってあげなければと思い、メッセージカードとプレゼントを探しに行ったのでした。 「パレスチナの子供の里親運動」さんからいただいた、里子ちゃん、あ、
いくのオモニハッキョのスタッフのブログです。(写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)月曜日、いつものように授業が始まる前に「い組」さんのオモニたちと、お話をしていた時のことです。 とても物静かで優しいK(順)オモニが、オモニが見られたというあるテレビ番組のことを話してくださいました。それは、日本で育ったフィリピンの男の子のお話で、何かの事情でその男の子は、家族と一緒にフィリピンに帰らなければならなくなったそうなのですが、フィリピンに戻っても、言葉が分からないので、学校でからかわれたり、本当は三年生なのに、一年生のクラスに編入しなければならなかったりと、その男の子が故郷に帰っても、とてもツライ思いをしていることを、K(順)オモニは、とても悲しそうなお顔で話してくださいました。番組の中で、その男の子は、日本にいる時に履いていた靴を、フィリピンに戻っても大事にしまっていたそうです。その
いくのオモニハッキョのスタッフのブログ。くわしくは、http://d.hatena.ne.jp/F1977/about (写真は、ハッキョの窓からのぞむ、生野の夕暮れ)きのう、3階の教室の教室の準備を終えて、2階に下りていった時のことです。 ちょうど2階の踊り場に下りたところで、階段の下の方から、「アイゴ、しんど、よっこいしょ、しんど」という、オモニの声が聞こえてきました。わたしは、まだ七時前のこんな早い時間に「アイゴ」「よっこいしょ」とため息をつかれながら、ハッキョに来られるのは、Oオモニしかいらっしゃらないなあ、と思いながら、階段の下をのぞき込んでみると、やっぱりそうでした。手すりにつかまりながら、一段一段ゆっくりと階段を上っていらっしゃる小さなOオモニのお姿があったのでした。わたしは、突然、声をかけてビックリさせてはいけないなと思い、Oオモニが、1階と2階の踊り場に無事に上られるの
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『パラム、ドル、ヨジャ~済州島におおいものみっつ~』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く