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大谷翔平
hyohakumin.hatenablog.com
無職であるということは、ただ単に今は仕事をしていない状況であるということに過ぎない。無職であるというだけで人格否定されたりするいわれはないはずである。 社会人とは仕事をしているしていないに関わらず社会の構成員としてそこにいるということだけで足りるものである。 初出 2018/8/30 僕が無職の時、肩身の狭い思いをしていた。 よくよく考えればおかしい話である。無職とは単に今現在仕事をしていないだけの状態である。 心身の不調で仕事ができないだけなのかもしれない。 勤めていた会社が倒産してしまい、転職先が見つからないだけのことなのかもしれない。 単に仕事をしていないということだけで、その人の人格云々を言挙げするのはやはりおかしいと思う。 ただ、無職であることで被るデメリットはやはり少なくない。 賃貸住宅を借りようとしても大抵は審査に落ちる。 クレジットカードを作れない(ほぼ確実に審査に落ちる)
ニートや引きこもりの人たちの存在が「問題化」してから久しい。 数年前から政府もその重い腰をあげて対策に取り組んでいる。ニートや引きこもりの人たちに対して自立を促す民間施設も数多く設立されている。 しかし、有効な改善策が打たれたかというと疑問が残る。 僕はニートや引きこもりの件に関して元々の前提が誤っているのではないかと思っている。 ニートになること、ひきこもることは「悪いこと」であってその存在自体が社会問題であるという前提そのものに違和感を覚えるのである。 ニートやひきこもっている人たちを労働市場に押し返し、「自立」することが素晴らしいという考え方にこそ無理があるのではないかと思っている。「真っ当に働いてこそ一人前」とか「働かざる者、食うべからず」といった労働至上主義イデオロギーに毒された価値観に依った「自立支援」を彼らに強いることが本当に正しいのか疑問を感じるのである。 ニートや引きこも
人は生活を成り立たせるためには何らかの形で働かなければならない、というのは自明のことである。 自分の(あるいは家族の)食い扶持の分だけ稼げばあとは何をやっても自由だというわけである。 ところがそんな「ゆるい」働き方や生き方が世間一般で認められているかというとそうではない。 仕事一筋人間とか仕事=人生みたいな働き方をしている人を賞賛する風潮が根強く残っている。人の価値を仕事ができるかどうかで評価し選別している。仕事に重きを置かない人たちをどこかで白眼視し異端者扱いしている。 時々、仕事以外のことに、例えば社会活動や地域活動や趣味等に没頭している人たちを「新しい生き方」的なものとしてメディアが取り上げることがある。それらはあくまでも例外的なものであるからスポットライトが当たるのであって、世の中の主流ではなく傍流であることに変わりはない。 今でも人生の大半を仕事に費やす、という生き方が多数派を形
僕は歳を取るにつれて人付き合いを煩わしく感じるようになってきた。 それでも別条なく生きている。 人付き合いに無駄な精力を注ぐことを止めた方が良いこともある。 初出 2015/9/24 多くの世の人々の悩みの種は人間関係である。 仕事を辞める理由の大半は人間関係の悩みであるし、離婚にしてみても要は人間関係の縺れである。 この厄介な人間関係を少しでも良好にするために僕たちは人付き合いを重視する。 僕はこのブログで何度も人はひとりでは生きていけないと言ってきた。人と人との関わりあいの中で信頼関係が育まれ、それをベースにしてどうにかこうにか人は生きていくことができるとも書いてきた。 当然に人付き合いは大切なものである、という結論に行き着くことになる。 自己啓発系の本やセミナーはいかに人間関係を潤滑にするか、人付き合いをそつなくこなしていくかを説いている。 ちょっと待てよ、と例によって天邪鬼の僕は言
名経営者と呼ばれる人たちの人生論・労働論は今も昔も花盛りである。 一代で会社を発展させた経営者の言葉には重みがあるのは確かである。 資本主義体制下において会社を大きくして莫大な利益を得るということは「正義」なのである。 ただし、経営者の説く労働観には注意を要する。 なぜならば、彼らの本性は経営側、つまり労働者を搾取する側の人間が有する価値観に基づくものであるからだ。 名経営者とされる人たちはおしなべて労働者の統制の仕方が巧みである。つまらない労働に意味を与え、モチベーションを高める術を心得ている。 経営に参画している錯覚を与え、労働者は一労働者ではない、会社経営の主役だとの幻想を与えている。 しかしながら、労働者に会社経営の権限など一切与えはしないし、非公式にせよ経営に口出しなどすれば「分を弁えぬ奴」として排除される。せいぜいが現場レベルでの業務改善を「自主的」にさせることで、経営に参加し
昨年の4月から生活困窮者自立支援法が施行され、生活に困った人たちを救済する道筋が一応はできている。 これまでは生活に困窮した人たちに対する支援・援助は事実上生活保護制度しかなく、当事者にとっては非常にハードルが高いものであった。生活保護制度は理念としては無差別平等を謳ってはいるが、実際は選別主義的なものであった。また、生活保護の受給はスティグマが刻印される負の側面があった。生活保護を受けるということは恥だという意識が強く残っている。 生活保護を受けることはれっきとした権利なのに、国の恩恵だという誤解が残ったままである。実施機関である福祉事務所の対応もパターナリズムに陥りがちであった。 困窮している人たちに対する自立支援、ワークフェア的施策そのものについては正しい方向だと僕は考えている。 生活保護制度の給付一辺倒な方法では自立を阻むおそれがある。働かなくても一定レベルの生活が保障されていれば
僕たちは仕事でミスをすると落ち込むし、自分に能力がないのではないかと自分自身を責めがちである。 人はある仕事に就いてしまうと(ある会社に属すると)、自分の働いている領域が自分の全世界であるように錯覚してしまう。その「世界」の中で自分の力が発揮できないと、自分の能力に自信が持てなくなり、自分は無能な人間だと思い込んでしまう。 会社の論理に埋没して視野狭窄に陥ってしまうのである。 当たり前の話だが、人はそれぞれ得意なこと不得意なことがある。得意なことが活かせる場では自分の力が発揮されやすいし、逆に不得意なことをすると結果は芳しくなくなる可能性が高い。 別に自分の能力が劣っているわけではないのである。 僕たちは仕事を選ぶ際に必ずしも自分に向いているかどうかで判断するわけではない。給料や勤務地、会社が有名かどうかなど職種のみで選ばない場合も多い。もっとざっくりと言うと、肉体労働に向いているのにホワ
よくよく考えてみると「サービス残業」という言葉は変な言葉だ。 こんな言葉がまかり通る日本の社会は異常といえる。あと「名ばかり管理職」も同様に。 本来、企業に勤めて給料を貰うという行為は、労働「契約」に基づくものに他ならない。サラリーマンは労働の対価としてあらかじめ決められた報酬を貰う。労働の対価とは各人の技能・時間を会社に提供することによって得られる報酬である。 日本の会社は、労働だけでなく、サラリーマンの全人格・全人生まで提供させて、会社に縛り付けようとしてきた。高度経済成長期ならば、この手法も一定の理解はできるかもしれない。会社に忠誠を尽くせば、見返りが期待できたから。 資本主義社会は契約に基づく社会である。契約を守れなければペナルティが課せられる。 しかし、労働契約については、前近代的な名残がまだ残っているように思われる。 かつて、労働契約には例えば「タコ部屋」「女郎部屋」などのよう
刑務所で服役している人たちはどういった人たちなのであろうか。強盗や殺人を犯した凶悪な人たちで、中には肌に彫り物をしていたり、指が何本が欠損していたり、とそんな想像をついついしてしまう。 刑務所に服役している人たちの多数は窃盗・万引き等の軽犯罪を犯した人たちである。再犯者も多いらしい。 僕たちは万引きや窃盗を繰り返す人を「手癖が悪い」人として本人の資質や性格に原因を帰せがちである。確かにそういった面も少しはあるかもしれない。他人の物を盗むことに快感を覚える人もいるかもしれない。 しかし、窃盗などの罪を犯した人の大多数はその動機・原因が貧困によるものなのである。言い換えれば、社会構造の歪みに原因があるのだ。 刑期を終えた人がまた犯罪を、多くは万引きや窃盗を犯すという事実がある。それらの人たちには社会に復帰しても居場所が無いことが多い。再就職は厳しく、住むところの確保さえままならない。生活保護を
福祉施設や介護施設は常に人員が不足している。ハローワークや求人サイトにおける求人の多くは介護福祉職員の募集で埋められている。離職者が多いので、常に求人を出している施設は多い。 なぜこれほどまでに福祉介護職が忌避されているのだろうか。 まず考えられるのは労働条件・待遇の悪さである。以前のエントリーでもふれたが、介護施設の収入の大半は介護保険の介護報酬によるものであり、上限が決められている。従って利益を出そうとすれば、人件費を削る方法しかない。そのしわ寄せは現場で働くケアワーカーに来る。労働に見合った賃金を得られないことになる。 介護現場の実態は、経済活動の足手まといとみなされる高齢者や障害者のケアを安上がりにしたい国の思惑で、ケアワーカーを低賃金で使い倒したいのだ。安上がりにするためには外国人労働者を利用しようとさえする。 これでは質の高いケアなど無理である。ノーマライゼーションなど実現でき
人は誰しも嫌なことをしなくても済めばそれに越したことはない。 嫌なことをやり続けると精神衛生上良くないし、そのことによって心身を壊してしまうこともある。 この国では古来から嫌なことをやり続けることが美徳であるという風潮がある。何事も我慢が肝要で、我慢を続けることによって人格が磨かれるなどという、僕からすれば妄言と思えるような言説がまかり通っている。 確かに人生の途上において嫌なことをしなければならないこともある。我慢を要する出来事にも出くわすこともある。 だが、嫌なことや我慢しなければならないことをすべて甘受する必要はない。 時には嫌なことから逃げても良いと思う。 我慢できないことには素直に我慢をしない選択をしてもよい。 過労死や過労自殺に至った人たちは我慢強い人が多かったのではないだろうか。この国では美徳とされる忍耐強さや我慢強さによって生命を絶たれることになってしまう。不条理である。
正社員が羨ましいと思う時がたまにある。 それは、健康保険料や厚生年金保険料、住民税が給料から天引きされるので、支払に悩まなくてよいということだ。 特に住民税と国民健康保険料の支払に悩んでいる人たちは沢山いると思う。 住民税は前年の収入を基に算定されるので、失業したり、自営業の売上げが落ちた場合等、前年より収入が下がったときには、途端に支払に困ることになる。 国民健康保険も自治体によって計算方法は異なるが、大抵住民税と連動していたり、前年の収入を算定基礎としたりしていて、こちらも当年の収入に関わらず保険料がかかってくる。しかも、かなり高い。 この両者には免除はなく、減免制度はあるが、かなり制度適用のハードルが高い場合が多い。 住民税や国保料を払えずに滞納したとき、どのように対応すればよいのか。 最悪なのは、そのまま放置してしまうことだ。 役所は個人の生活状況を把握していないので、払えなくて払
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