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災害への備え
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「LGBT理解増進法」が可決されたのをうけて、このところ右派論壇誌は「LGBT特需」に湧いている。セクシュアリティやジェンダーといった話題についてかねてから積極的に発言していた論者は右派論壇では限られているので、同じような名前を何度も目にする羽目になる。だから月刊誌『WiLL』(ワック)の2023年1号に小林ゆみ、saya、竹内久美子、橋本琴絵による座談会「LGBT狂想曲 常識を取り戻せ」が掲載された3か月後の4月号で小林ゆみと竹内久美子による対談「活動家の目的は家族破壊と国家分断」が掲載されていることに気づいたときにも、特になにも思わなかった。その内容をチェックするまでは……。 4月号の対談は1月号の座談の使い回しである。それも単に「同じ話題を繰り返した」という程度のものではなく、1月号の座談のうち saya と橋本琴絵の発言を竹内久美子による発言として編集し直したうえで、小林と竹内によ
-森万佑子『韓国併合―大韓帝国の成立から崩壊まで』、中公新書、2023年 著者の専門は朝鮮半島の地域研究。従来日本では歴史学や政治学の文脈でとりあげられることが多かった「日韓併合」を、特に高宗の視点を重視しながら「大韓帝国が成立して崩壊していく過程」として描く試み。近代の日朝関係を朝鮮・大韓帝国の視点を中心にして描いた一般向けの書籍がなかったわけではなく、例えば岩波新書ならば超景達『近代朝鮮と日本』などがあるが、「日韓併合」というテーマに特化したものではない。このテーマに関する文献を幅広く読んできたわけでもないので「管見の限り」にもほどがあるけれども、新鮮な読書体験であった。特に朝鮮・大韓帝国側の史料がもつ特徴についての指摘は勉強になった。 「日韓併合」について語る際に避けることができないのはその法的な評価である。「徴用工」問題ひとつをとってもその根っこはそこにあると言ってよい。本書では(
〈おことわり:本稿は2017年に金曜日より刊行された『検証 産経新聞報道』(『週刊金曜日』編)所収の拙稿「『産経新聞』の“戦歴” 「歴史戦」の過去・現在・未来」の元原稿の一部を加筆・修正したものです。〉 1. 「歴史戦」とはなにか? 2014年4月1日、新年度の始まりを期したかのように『産経新聞』は「歴史戦」と題するシリーズをスタートさせた。産経新聞社が刊行する月刊誌『正論』ではひと足早く2013年に、「歴史戦争」というキーワードを前面に出したキャンペーンが始まっていたが*、あきらかに第二次安倍政権の発足をうけて始まったこのキャンペーンに『産経』も一年遅れで加わったわけである。 * 月刊論壇誌における「歴史戦」キャンペーンについてはすでに別の著作で分析を試みたので、参照していただきたい。 能川元一+早川タダノリ『憎悪の広告—右派系オピニオン誌「愛国」『嫌中・嫌韓』の系譜』合同出版、2015
歴史学者D・リップシュタットとホロコースト否定論者D・アーヴィングの裁判を描いた映画『否定と肯定』において、リップシュタット側の代理人は「釣り銭を間違えるウェイター」の喩えでアーヴィングを断罪します(これは実際に法廷で行われた弁論に依拠したシーンです)。ウェイターが正直ならば客が得をするように間違えることも自分が得をするように間違えることもあるだろう。しかし常に自分が得をするように“間違えて”いるなら、それは意図的なゴマカシなのだ……というのが大意です。 同じことは日本の近現代史に関して「ただ事実を確認したいだけだ」とか「議論すら許されないなんておかしいじゃないか」などと言い出すひとについても指摘することができます。彼らの懐疑的な関心はあらゆる方向に向けられているでしょうか? 彼らは広島・長崎の原爆死没者名簿の“毎年増え続けている”記載人数に懐疑の目を向けるでしょうか? 彼らはシベリア抑留
デボラ・E・リップシュタット『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』、ハーパーBOOKS、2017年 1996年、アメリカの歴史学者デボラ・リップシュタットは彼女の著作 Denying the Holocaust: the growing assault on truth and memory (1993) のイギリス版を刊行した出版社ペンギン・ブックスとともに、イギリス人著述家D・アーヴィングから民事訴訟を起こされる。ホロコースト否定論を扱った同書(1995年に邦訳が『ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ〈上〉〈下〉』として恒友出版から刊行されている)のなかでアーヴィングを「否定論者」として扱ったことが名誉毀損にあたるという理由だ。 本書はこの訴訟の準備段階からアーヴィングの敗訴で決着するまでを、リップシュタットの視点から描いたもの。2005年に History o
この数日、ツイッターで相当の回数「拡散」されているブログ記事がある。「拡散希望です)大陸に出征した軍医さんへの命令書(未公開)2016.1.26」と題する約2年前のものだ。ケント・ギルバートや高須克弥のアカウントまで「拡散」に加わっている。 この「命令書」と「写真」の史料批判については専門家でもない私が口をだすことではないだろうが、歴史修正主義者の振る舞いという観点からみるといくつか興味深いところがある。 まず第一に、この記事に「南京大虐殺が存在しなかった写真つき証拠が発見される」というタイトルを付けて転載しているまとめサイトがいくつかあること。しかしこの写真、ブログ主は「南京の様子がアルバムに残っていました」としているけれども、誰が見ても南京とは似ても似つかぬ地方都市の風景である(注1)。「南京事件の証拠とされる写真が、南京で撮影されたものではなかった!」というのは南京否定論者が好んで主
著者の笠原十九司先生から頂戴した『日中戦争全史 上・下』(高文研)読了しました。 上巻のサブタイトルが「対華21カ条要求(1915年)から南京占領(1937年)まで」、下巻が「日中全面戦争からアジア太平洋戦争敗戦まで」となっていることからわかるように、日中戦争の「前史」の起点を対華21カ条要求においたうえで、45年8月までの日中戦争を描き出す試み。 著者が「はじめに」で「類書にない『日中戦争全史』であると自負」する背景には、「これまでの日本における日中戦争の歴史書では、アジア太平洋戦争開始以後の日中戦争の作戦展開がきちんと記述されていないことが多かった」(下巻229ページ)という事情がある。 手元にある一般読者向けの戦争史でこの点を確認しておこう。『日中十五年戦争史』(大杉一雄、中公新書、1996年)はそのタイトルに反して南京攻略戦〜早期和平路線の破綻、すなわち1938年前半までしか扱われ
『産経新聞』の「歴史戦」連載がはらむ問題点のうち、先日刊行された『検証 産経新聞報道』所収の拙稿でとりあげなかったものについて、ここで指摘しておきたいと思います。対象となるのは、ウェブ版「産経ニュース」では2014年5月25日に掲載された【歴史戦 第2部 慰安婦問題の原点(5)前半】「「日本だけが悪」 周到な演出…平成4年「アジア連帯会議」です。この記事に対して「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動」と「第12回アジア連帯会議実行委員会」が産経新聞社に抗議した件については、『検証 産経新聞報道』および「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動」のホームページをご参照下さい。 前記記事には、フリージャーナリスト舘雅子氏の話として、次のような記述があります。 この会議に参加した舘は会場で迷い、ドアの開いていたある小さな部屋に足を踏み入れてしまった。 そこでは、韓国の伝統衣装、チマ・チョゴリを着た4〜5人の
『週刊金曜日』2017年6月30日号の拙稿で触れることができなかった、『読売新聞』による『朝日』バッシング記事の問題点をここで明らかにしておきましょう。 とりあげるのは2014年8月30日朝刊(東京)の「[検証 朝日「慰安婦」報道](3)「軍関与」首相訪韓を意識(連載)」、および中公新書ラクレ版『徹底検証 朝日「慰安婦」報道」(読売新聞編集局)のうちこの記事をもとにした部分(58〜65ページ)です。 これらでやりだまにあげられているのは『朝日新聞』が1992年1月11日の朝刊一面トップで「慰安所 軍関与示す資料」などと報じた記事です。ご記憶のとおり、この記事については宮澤首相の訪韓を直後に控えた時期に掲載されたことが、『朝日』バッシャーたちに問題視されてきました。個人的には、新聞が“政権の打撃にならぬよう、掲載時期を配慮しよう”などと忖度することこそジャーナリズムの自壊を招くと思いますが、
『徹底検証 日本の右傾化』所収の拙稿「“歴史戦の決戦兵器”、「WGIP」論の現在」への補足、第2弾です。紙幅の都合で省略せざるを得なかった点について書いておきたいと思います。 前出拙稿では右派論壇の動向を紹介したわけですが、現実の政治にどこまで浸透しているのでしょうか? 一つの目安として国会議事録を検索してみました(期間は江藤の連載が始まった1982年から現在まで)。なお議事録の表記では「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム」となっておりますので、ご自身で検索される際にはご注意ください。 これまでのところ、国会で「WGIP」に言及したのは4人。日時と発言者は次の通りです。 ・2013年3月27日(衆院文部科学委員会)、田沼隆志(当時自民、のち落選) ・2014年2月26日(衆院予算委員会)、前田一男(自民) ・2014年3月13日(参院予算委公聴会)、浜田和幸(当時国民新党、のち
3月13日に筑摩選書として刊行された『徹底検証 日本の右傾化』(塚田穂高編著)に「“歴史戦の決戦兵器”、「WGIP」論の現在」(第14章)を寄稿いたしました。 「WGIP」とは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム War Guilt Information Program」の略です。GHQが占領期に行った検閲やプロパガンダに関する計画を指すこの語は、1980年代に評論家の江藤淳が『閉された言語空間』(文藝春秋、ベースとなったのは月刊誌『諸君!』での連載)で論壇に紹介したものです。WGIPは「東京裁判史観」を日本人に植えつけるための洗脳工作であり、その呪縛はいまだに続いている……といったたぐいの主張を「WGIP」論と拙稿では称しています。 「WGIP」論は歴史学の観点から見ても、また心理学や精神医学の知見に照らしても大きな問題点を抱えています。しかし右派論壇では2015年から「W
注文していた『通州事件―日中戦争泥沼化への道』(広中一成、星海社新書)が届いたのでさっそく読み始めた。この問題について、とりわけこのタイミングで、歴史学研究者による研究の成果が一般向けに明らかにされたことの意義は非常に大きい。しかしながら「またか……」と思わされる点があったので、とりいそぎ指摘しておきたい。 同書の帯には「不毛な感情論を排し、惨劇の全貌に迫る」という惹句が印刷されている。著者の広中氏自身も、通州事件をことさら取り上げようとする側と、ことさら取り上げることを批判する側の双方に言及したうえで、「この種の感情むき出しの『水掛け論』」とし(10頁)、「冷静で客観的な実証研究」が必要だ、としている(10-11頁)。私が問題にしたいのは、いわゆる歴史認識問題を評する際にしばしば用いられる、この冷静/感情的という二分法である。 まず第一に、「感情論」だという批判それ自体が「実証」的でない
2016年6月23日に岩波書店より、山口智美さん、テッサ・モーリス−スズキさん、小山エミさんとの共著『海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う――が刊行される予定です。一冊まるまる、右派による「歴史戦」の企てを批判的にとりあげた書籍はおそらくこれがはじめてであろうと思います。 私が担当した第1章は、月刊右派論壇誌がこの20年間でどのように「歴史戦(歴史戦争)」言説をつくりあげてきたかを概観する内容となっております。テーマとしては昨年早川タダノリさんと共に刊行した『憎悪の広告 右派系オピニオン誌「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』(合同出版)の第3、9、12章などと共通しており、実際に『憎悪の広告』執筆に用いた資料が今回も大いに役に立ちました。過去20年間の右派論壇誌の新聞広告を約140点収録した『憎悪の広告』は『海を渡る「慰安婦」問題』が描き出す右派の「歴史戦」についての具体的なイメージ
この記事が書かれた経緯については「kokubo 氏の“反論”について(1)」を参照されたい。ここでは朴裕河氏がFacebookのポストで引用した kokubo 氏の主張をとりあげる。kokubo 氏のポストを直接閲覧できないのは残念であるが、朴裕河氏が自身の責任において『帝国の慰安婦』批判への反論として紹介したものであるから、引用された限りの主張について検討することにする。なお、反論の対象となっているのは当ブログの記事「歴史修正主義は何によってそう認定されるか」である。 問題の記事で私が指摘したのは、「慰安婦問題を否定する人たちが、民間人が勝手に営業したと主張するのは、このような記憶が残っているからだろう」(『帝国の慰安婦』104ページ)と主張する際に、朴裕河氏が元日本軍兵の証言を恣意的につまみ食いしている、ということであった。ここでまず確認しておかねばならないのは、「民間人が勝手に営業し
去る4月22日、朴裕河氏はツイッター及びFacebookにおいて、kokubo 氏が私に対して行った”反論”(後にみるように反論の体をなしていないので引用符でくくってある)を紹介した。朴裕河氏からの直接の反論ではないが、彼女は kokubo 氏の書いたものについて「その通りだと思った」とのことである。 朴裕河氏が紹介した kokubo 氏の”反論”は3つある。2つは氏が自身のブログで公表したものであり、残る1つはFacebookのポスト(「友達」限定公開なのか、私は閲覧できない)を朴裕河氏が自身のポストで転載したものである。ここではまず、2つのブログ記事について見てみることにしよう。 ・「河を渡っている慰安婦の写真は「朝鮮人慰安婦」である〜能川元一氏に反論する」(2015年12月29日) ・「この能川元一氏の『帝国の慰安婦』批判は最初で最大の間違いである。〜能川元一氏に反論する」(2016
誤解されがちなのですが、歴史修正主義的な主張は「結論が通説と違うから」とか「日本軍を美化しているから」といった理由で「歴史修正主義的だ」と判断されるわけではありません。神ならぬ私たちは歴史記述それ自体だけをとりあげて「これは史実に合致している」とか「史実に反している」と判断することはできないからです。肝心なのはむしろある歴史記述(と主張されているもの)がどのような方法で導き出されているか、です。史料の取捨選択やその解釈、史料からの推論などがまったく妥当性を欠いている場合に「偽史」とか「歴史修正主義」という判断が下されるわけです。「おかしな結論」が出てくるのは「おかしな方法」が用いられているからなのです。一定の合理性を備えた方法によって導き出された歴史記述同士の対立は学術的な議論の対象になりますが、歴史修正主義は「疑似科学」の一種であって「歴史学の内部における、通説への挑戦」ではありません。
管見の限りでは『ハンギョレ新聞』の日本語版サイトでしか報じられていないようですが、去る3月28日に東京大学駒場キャンパスで「『慰安婦問題』にどう向き合うか 朴裕河氏の論著とその評価を素材に」と題する集会が行なわれ(参加は事前登録制)、私も一参加者として議論に立ち会ってきました。集会で行なわれた議論の詳細を公表すること(するかしないかの決定も含めて)は主催者に委ねることとし、ここでは『帝国の慰安婦』に批判的な立場で参加した私の思ったところを書いておくことにしたいと思います。 これまで『帝国の慰安婦』に関しては事実誤認、先行研究の誤解や無視、史料(資料)の不適切な扱いといった問題点が多数指摘されてきたわけですが、それらについて「いや、朴裕河氏の……という事実認識は正しい」「これこの通り、先行研究はきちんと踏まえられている」「その資料はきちんと文脈を踏まえて引用されている」というかたちでの具体的
南京大虐殺否定論と日本軍「慰安婦」問題否認論との間には共通点が多々ありますが、かなり重要だと思われる違いもあります。後者の場合、「まさに日本軍『慰安所』制度が性奴隷制であった」ことを示す文書を得意げに持ち出して旧日本軍を弁護しようとする現象が非常にポピュラーなのですが、前者についてそういうケースはあまり記憶にありません。日本軍「慰安婦」問題の場合、ある事実の存否をめぐる争い以上に存否については争いのない事実についての理解の違いが焦点となることが多いということです。 例えば否認派は「廃業を許可する規定があった」とか「外出を許可されたとこの文書に書いてある」などと主張します。廃業や外出に「許可」が必要であったという事実こそ、軍「慰安所」制度が性奴隷制とされる所以なのですが。その点を指摘されると「働かなければ食っていけないのは我々だって同じだ」とか「会社員だって勤務中に勝手に出かけることはできな
1. 『帝国の慰安婦』における「植民地/占領地」図式 日本軍「慰安婦」とされた女性たちの境遇が多様であったこと、その多様性をもたらす要因の一つが女性の国籍およびエスニィシティであったことは先行研究においても指摘されてきたことである。その限りでは、「植民地出身の慰安婦」と「占領地出身の慰安婦」の区別そのものは目新しいものではない。『帝国の慰安婦』の特徴は植民地/占領地という区別を強調することにより、占領地出身の「慰安婦」は「厳密な意味では『慰安婦』とは言えない」(45ページ)とまで主張するところにある。 では植民地出身の(というより朝鮮人の)「慰安婦」と占領地出身の「慰安婦」の違いとは何か? 『帝国の慰安婦』によれば、その違いは「そこで朝鮮人は『日本人』でもあった」(57ページ)こと、他民族の「慰安婦」とは異なり「〈故郷〉の役割」(45ページ)や「女房」(71ページ)としての役割、「精神的『
『帝国の慰安婦』は「いわゆる『慰安婦問題』の発生後の研究や発言が、『日本軍』をめぐる過去の解釈にとどまらず、発話者自身が拠って立つ現実政治の姿勢表明になった」とし、1973年に『〝声なき女〟八万人の告発−−従軍慰安婦』(双葉社)を刊行した千田夏光氏については「そのような時代的な拘束から自由だった」であろうとしている(いずれも26ページ)。73年に書かれた本が91年以降の「時代的な拘束」をまぬがれているのは当然であり、またそれゆえに一定の意義を持つであろうことは確かだろうが、逆に千田氏は千田氏で彼自身が属した時代に「拘束」されてもいたはずである。 例えば双葉社版97-98ページ、講談社文庫版122ページには元関東軍参謀原善四郎氏と千田氏との対話の形で次のようなやりとりが記されている。 (前略) 「すると、朝鮮人女性は兵隊の精神鎮痛剤もしくは安定剤だったのですね。日本人の女性を集めることは考え
以前に千田夏光氏の『従軍慰安婦』を読んだのはずいぶん前のことなので、今回読み直して色々と発見があったのだが、その一つに千田氏が「挺身隊という言葉のあること」を取材を通じて「初めて知りました」と述べていることがある(講談社文庫版、148ページ)。1924年生まれで敗戦時には成人しており、戦後は新聞記者として働き、写真集『日本の戦歴』の編集にも関わった千田氏が「挺身隊」という語の存在すら知らなかった、というのである。 しかし考えてみれば、戦時動員をどういう名目で、どういう法的根拠で行うかといったことは動員する側の関心事ではあっても、動員される側にしてみればそうとは限らない。むしろ「動員されること」それ自体がまずは重大なのであって、その名目やら法的根拠は二の次、三の次だというのが普通だろう。 右派は「挺身隊」と「慰安婦」の混同についてあれこれと邪推して見せるわけだが、動員された側に取材したジャー
秦郁彦氏が日本軍「慰安婦」の総数についての推定を下方修正し続けてきた歴史についてはすでに多くの方が指摘している。だが3月17日に日本外国特派員協会で行った会見で、秦氏は他にも過去の自分の著作を否定するかのような発言をしている。マグロウ・ヒル社の歴史教科書に、「慰安婦」が「天皇からの贈り物である」という記述があることについて、秦氏は「国家元首に対する、あまりにも非常識な表現だろうと思います」と述べた。だが1999年の著作『慰安婦と戦場の性』は『元下級兵士が体験見聞した従軍慰安婦』(曾根一夫、白石書店、1993年)を援用し、「慰安所」に行こうとする兵士たちに上官が「大元帥陛下におかせられましては、戦地に在る将兵をおいたわりくだされて、慰安するための女性をつかわしくだされ……」と訓示した例があることを紹介している(74ページ)。秦氏はこの事例について「隊長たちは、部下兵士たちに慰安所を使わせる名
『帝国の慰安婦』は41ページで森崎和江の『からゆきさん』(朝日新聞社、1976年)から次のような引用を行っている。傍点を下線に改めた。 女たちは野戦郵便局から日々ふるさとへ送金した。送られる金は、はじめのうちは一人一日百円以下は少なくて、四、五百円のものもいるというぐあいだったが、やがて国内の娼妓と同じ苦境におちいった。女たちの数がますますふえていったためである。これらの店にあがることもできない兵士や労働者たちを客とする私娼窟もふえた。(森崎、一五五頁) この引用の第一の問題点は、引用文中にある傍点(ここでは下線)が森崎の原文には存在しない、ということである。傍点が引用者によるものだという断り書きもない。『帝国の慰安婦』には千田夏光の著作からの引用に際しても無断で傍点を付した箇所が複数ある。いずれも、研究者にあるまじきルール違反である(注1)(注2)。 しかし問題点はそれだけではない。著者
現在日本軍「慰安婦」問題に関連して『朝日新聞』に対して起こされている集団訴訟のうち、もっとも多数の原告を集めているのが「朝日新聞を糾す国民会議」によるものである。私は3つの訴訟の訴状を読み比べたのだが、その内容、というよりその文体において「朝日新聞を糾す国民会議」のそれは突出して異様だ。 訴状の「加害行為」の項には次のような一節がある。 朝日新聞は、戦後、一貫して、社会主義幻想に取りつかれ、反日自虐のイデオロギーに骨絡みとなり、日本の新聞であるにもかかわらず、祖国を呪詛し、明治維新以来の日本近代史において、日本の独立と近代化のために涙ぐましい努力をしてきた先人を辱めることに躊躇することはない。旧軍の将兵を辱めるときは、ことさらそうである。実際のところ、明治の建軍以来、日本の軍隊は、国際法を遵守し、世界で最も軍律が厳しく道義が高かったにもかかわらずである。客観報道・事実の報道をするわけではな
『帝国の慰安婦』が「〈慰安婦=少女〉のイメージ」(64ページ)を批判するために援用している資料の一つが、有名な「日本人捕虜尋問報告 第49号」である(153ページにも資料名は記されていないが、おそらくはこの尋問報告が念頭におかれている記述がある)。もっとも、『帝国の慰安婦』巻末の参考文献には、この尋問報告も収録された『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』が挙げられているにもかかわらず、「平均年齢は二五歳」という一句が船橋洋一の『歴史和解の旅』(朝日選書)から孫引きされている。ここで朴裕河が尋問時の年齢と「慰安婦」にされた/なった時の年齢とを区別せずに論述していることについては、すでに yasugoro_2012 さんが指摘されている。しかしこれ以外にも、この資料の扱い方の問題点はいくつかある。 まず厳密に言えば尋問報告書には「平均年齢は二五歳」ではなく「平均的な朝鮮人慰安婦は二五歳くらい」
1991年の7月30日、すなわち植村隆氏による金学順さんに関する最初の記事が掲載されるわずか10日前ほどの『朝日新聞』(大阪本社)朝刊の「女たちの太平洋戦争」欄に、次のような投書が掲載されていた。投書の主の氏名は伏せるが当時74歳の在日コリアン男性である。 本欄によれば「大阪M遊郭から来た慰安婦もいたから、金に買われた女性も多い」とあったが、彼女らは軍人の慰安婦になるため身を売ったのではない。年配の方なら彼女たちの境遇は理解出来ると思う。ちなみに朝鮮人の娘たちは強制連行である。 どちらにしても、この女性たちは日本軍のなぶりものにされ、慰安婦という不浄なレッテルを張られたまま使い捨てにされ、その後の詳しい消息は今も不明のようである。かろうじて生き延びた女性が今は老女となり、日本国に何人かいると聞くが、この老女たちは過去の忌まわしい出来事を語ろうとはしない。 (中略) 時には日本人から「侵略も
『帝国の慰安婦』(朴裕河、朝日新聞出版、2014年)については「慰安婦」問題をめぐる報道を再検証する会のブログでも情報発信をしてゆく予定になっているが、こちらのブログではあくまで私個人の責任においていくつかコメントしていきたい。 まず最初にとりあげたいのは、『帝国の慰安婦』の24ページで言及されているある写真について、である。著者はその写真について、次のように言っている。 「占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性」。おそらくこの言葉が、あの十五年戦争における「朝鮮人慰安婦」を象徴的に語っていよう。なぜ朝鮮人慰安婦が、「日本髪」の「和服姿」で日本軍の「占領直後」の中国にいたのか。そしてなぜ「中国人から蔑みの目で見られてい」たのかも、そこから見えてくるはずだ。 これまでの慰安婦をめぐる研究や言及は、このことにほとんど注目してこなかった。し
『産経新聞』の連載「歴史戦」の第9部が2月15日の一面トップで始まったことで少し間が空いてしまいましたが、『週刊金曜日』の1026号(2月6日号)に掲載された拙稿への補足の続きです。今回は、植村隆氏へのバッシングのもう一つの焦点である、1991年12月25日付の記事について。こちらについても金学順さんが「キーセン学校」に通っていたことなどを書かなかったことが「捏造」だとされています。 こちらの記事が執筆された時点では金学順さんを支援していたのが太平洋戦争犠牲者遺族会ですから、その点だけをとれば植村氏と義母との関係を根拠とした「捏造」主張は成立する余地があります。その代わり、この時点では金学順さんに関する情報が一部の支援者だけが知りうるものではなく、訴状や記者会見での発言を通じてオープンになっているという事情があります。では、他紙は金学順さんについてどう報じていたのでしょうか? 写真はいずれ
それ自体としては大した話ではないのですが、現在進行形で歴史修正主義者が展開しているプロパガンダと関わることなので、一応コメントしておきます。今朝公開した「『見なかった』証言の詐術」という記事に対するはてなブックマークコメントについてです。 bahrelghazali そういえば、産経が「慰安婦を理由に、アメリカの日本人児童がいじめられている」という記事に対し、日本の左翼は「そんな話は知らない」という僅かな証言だけを根拠に、いじめは存在しないと断定したっけ。(http://b.hatena.ne.jp/entry/nogawam.blogspot.com/2015/02/blog-post_16.html) このコメントがはらむ誤りは2つあります。秦郁彦氏が言っているのは「見ていない」という証言をいくら集めても「確実な目撃者が二人現れたら」火事は起きたのだと判断して当然だ、ということです。し
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