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臨床ではなく、思想として 自分のラカン入門を例にして、どんな順番でラカン本を読んでいくのがいいのか考えてみた。もちろん臨床ではなく、思想としての入門。それから主要な理論についてはいくつか図解もするので、参考にしてもらえればと思う。 よく知られているように、ラカンには残念な偏見がつきまとっている。難解だと言われ続けた挙げ句に、「理解させるつもりがない」とか、構造主義やポストモダンと一緒に「もう終わってる」と言われ、そもそも精神分析自体が脳科学などの認知科学や神経生物学などに取って代わられた事実もあったりして、最終的には「ひねくれた」理論というレッテルを貼られているような状況である。 たしかにラカン自身わざと難解にしている節もあるし、そのせいで敷居も高い。またポストモダニストと共鳴している部分も往々にしてある。くわしいことは知らないが、理論としても、臨床としても、少し古くさいものなのだろう。し
architexture(現在サービス休止中)に寄稿させていただいた「経験主義のエクスペリエンスデザイン」のサブテキスト。もうすこしだけ「経験」について。 経験主義のエクスペリエンスデザイン architexture.jp アーキテクスチャ — 情報をデザインする可能性の探求 (公開終了しています) この数年間、わたしの精神はある種の「世界観」へと成長してきた。それが正しいか否かはともかく、わたし自身は今では物事を他のパターンでは考えられないところまで来ている。それゆえ、わたしはここでその思考のパターンを、短くまとめるという要請を守りつつ、できるだけ明快に記述し、公共の泡立つ論争のるつぼへと投げ入れてみたいと思う。 ウィリアム・ジェイムズ『純粋経験の哲学』-「純粋経験の世界」(P.47-48) 合理主義批判の対象 今回の記事では、合理主義批判の立場にあるエクスペリエンスデザインが、ビジネス
ストーリーにおける読み手/書き手の関係論から自己形成まで。その効用を唱えたブルーナー『ストーリーの心理学』の解題。 Peter Orlovsky ‘Allen Ginsberg, June 1956’, ©Allen Ginsberg Estate 以前から、「経験」の伝え方として、「ストーリー」に勝るものはないと確信していた。しかし残念ながら、それはなんとなく「心に響く」気がするという、直感以上のものではなかった。 キリスト教の教義が物語として書かれたことにより、世俗化を果たして覇権を握ったこと。愛のような個の世界に生まれる抽象概念が論理的に説明できないこと。こうした事実に理由を求められなくもないが、もうすこし構造分析的に理解したいと考えていた。 その後、いろんな文献を漁ってきた末に、やっと納得いく解答に出会うことができた。今回はその書籍、心理学者のジェローム・ブルーナーによる『ストーリ
前回から引き続き「メディアのアイデンティティ」を「関係」と「信念」から考える。または「観察者」の視点による「経験のデザイン」について。 Ittetsu Matsuoka ‘Untitled’, 2008 「関係」と「信念」の確認 前回は、まずメディアと人の集合体に「アイデンティティ」が備わっていることを確認した。その「メディアのアイデンティティ」は、われわれのエゴ・アイデンティティ(自己同一性)と同じように、当事者が思っている以上に把握しづらいものであった。それは提供者が利用者に伝える「メッセージ」も同様であった。 だからメディアの問題は、コミュニケーションの問題に行き着く。そこで伝えられる「メッセージ」は、その「内容」よりも、利用者と提供者の「関係」の方が先立つものであった。 「関係」は「信念」を目指し、「内容」は「真理」を目指す。そして、人は「真理」ではなく「信念」に突き動かされる。た
「経験のデザイン」について、最近考えていること。メディアを「アイデンティティ」としてとらえる試み。 Ittetsu Matsuoka ‘Untitled’, 2009 「経験のデザイン」における利用者の経験に限らず、動的な事象を静的なフレームで切り取って記述する方法は、複雑化を免れない。さらに深刻なのは、その方法が本来の意図から切断され、狭義を生んでしまうことだろう。 最近そうしたことを避けるために、提供者とそこで運営されるメディアを全部まとめて、その性質を「アイデンティティ」として認識するように心掛けている。 身体の拡張としてのメディア 例えば、「経験のデザイン」において利用者のペルソナが設定されるのは、属性やセグメントを確認するためではない。利用者の「アイデンティティ」に向き合って、最適なコミュニケーションを考えるためである。この方法は、チームの意識を合わせるといった目標がその先にある
IAダイアローグ「〈ことば〉と〈モード〉をめぐって」のテキスト素材を断片化して編纂した〈ことば〉たち。 はじめに この度「IAダイアローグ」と題して、IA Spectrumの浅野さんと対談をさせていただいた。まずは下のリンクから本編を読んでみていただきたい。 〈ことば〉と〈モード〉をめぐって IAダイアローグ presented by IA Spectrum(浅野紀予)x OVERKAST(大林寛) こちらのポストでは、「IAダイアローグ」のテキストを断片化し、「何が書かれているか」ではなく「どう書かれているか」に重点を置き、新しいテーマで章立てして、〈ことば〉を並びかえた。 これらの〈ことば〉たちが、読んだ人のための副読テキストやリンク集として、これから読む人のためのトレイラーとして、読む気にならない人のための要約として、検索エンジン経由で訪れる人と検索ロボットためのキーワードとして、ま
書籍『メディアは透明になるべきか』を参照しながら、ユーザーインターフェイスにおける透明性/反映性の質を考える。 Love Poems by Mel Nguyen, 2012 UI を巡る2つの宗派 『メディアは透明になるべきか』のおもしろさは、ユーザビリティの価値が全盛だった2003年に書かれているにも関わらず、思い切ったユーザビリティ至上主義批判が展開されているところである。 本書で言われているとおり、ユーザーインターフェイス(UI)の考え方には、構造主義者と表現主義者(本文中ではデザイナーとなっているがあえてこう呼びたい)の立場があり、現在に至るまで宗派の対立のような関係が続いている。 構造主義者は、デザインの無駄を禁欲的に排除する。だから形式と内容、文書構造と表示するコンテンツは分離されるべきであると考える。彼らにとってのUIは、「コンテンツをユーザーに流すためのパイプ」であり、その
まず前半は、「考古学」から「系譜学」へと、徐々に手法を変えていった。そしてちょうど真ん中あたりの1975年には、権力の解釈を、法などの「主権権力」から「規律権力」に求めるようになる。さらに1976年にその解釈は「生権力」という概念へと、急速に向かっていった。また同時期には、「性」の問題への探求も始まる。 この1975年と1976年の間、ミシェル・フーコーにいったい何が起きたのか? 1970年代のミシェル・フーコーを俯瞰する まずはフーコーのパートナーであったダニエル・ドフェールによる「年譜」[思考集成1 | フーコー・カイドブック] を下敷きに、1970年代におけるフーコーの変遷を年表でまとめてみた。フォーマットは画像とPDFとテキストを用意した。 年表の縦軸の時系列に沿って「問題系」のテーマを設定し、フーコーが寄せた関心の度合いを太さで表した。また配色はちくま学芸文庫『フーコー・コレクシ
World IA Day 2013 での考察。フィルターバブルから考える、IA(インフォメーション・アーキテクト)が引き受けるべきもの。 'Colosseo' by Cameron Moll, 2009 IA を再定義する意図 先月開催された World IA Day 2013 のテーマは、「情報アーキテクチャの価値体系を探求・拡大する」であった。これは「IA(インフォメーション・アーキテクト)という職業的アイデンティティを再定義する」と言い換えることができる。 IA とは、情報を整理し組織化する職種である。しかしその技能を通じて、情報の受信側にどのような価値を提供するかまでは、はっきりと定義されていない。だからその裁量は、一人ひとりの IA に委ねられていることになる。 実は IA の再定義というテーマは、こうした問題を認識してもらうために、すこし意図的に設定されたものであった。 このよ
UX デザインを贈与モデルによって捉えなおす。そのプロセスは「共感」から始まり、「共創」を通じて、「共存」を目指している。 贈与モデルへの回帰 2012年、デザインの方法論が乱立した印象があるが、おおよそのコンセンサスは「顧客開発によるサービス設計」の範疇に収まっていたように思う。 また個人的には、ユーザーとサービスやプロダクトの関係は動的なモデルであり、これらの「関係性」を捉えるには、生態学的な観点が不可欠であることを再認識させられた年であった。そしてこの「関係性」を明らかにするために、UX デザインではユーザーとの接点(タッチポイント)を洗い出す。つまり最後は「コミュニケーション」の問題に行き着くことになる。 かつて文化人類学者のレヴィ=ストロースは、「コミュニケーション」を「交換」と同義に捉えた。それは言葉や物、女性(婚姻)などの「交換」によって、社会的秩序が形成され、関係が維持され
エドワード・リードによるアンダーグラウンド心理学。UX デザインから生態心理学を経由して、さらにその源流まで遡っていく。 アンダーグラウンド心理学のはじまり アンダーグラウンド心理学という架空の学派の創始者は、チャールズ・ダーウィンの祖父にあたるエラズマス・ダーウィン(1731-1802)である。 彼が唱えた流体唯物論によると、動物や植物など、すべての生きた自然(有機体)は、「感じ(フィーリング)」と「感覚(センシビリティ)」を持っている。この「魂」のようなものの物質的基盤は、身体の隅々まで流れるエーテル体であり、これはすべての有機体が兼ね備えた特性である。つまり自然に遍在している。 このようにエラズマス・ダーウィンは、まるで「アフォーダンス」を知っているがごとく、環境を一元論として捉えていた。しかしリベラルなプロテスタントが強かった時代において、こうした発想は無神論であるとされ、受け入れ
ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』における「リゾーム」の構造を説明するとき、未だに浅田彰『構造と力』の図が引用される。 この図も決して悪い出来ではないが、さらに動的に、できればもっと立体的に視覚化できないものかと、常日頃から思っていたところ、Marc Ngui というイラストレーターの素晴らしいインフォグラフィックに遭遇した。 『千のプラトー』の緖言である「本書は、章ではなく、プラトー[高原]によって構成されている」に従うと、今回紹介するグラフィックは、この本の最初と2番目のプラトーの視覚化である。 まず最初の「序 リゾーム」は、『千のプラトー』全体の見取り図にあたる。つまりここのグラフィックは二重の見取り図になっている。そして、ツリーマップ状の「樹木」、もしくはルート/ディレクトリマップ状の「根」に対する、階層や中心を持たないダイアグラム状の「リゾーム」は、今ならハイパーリンク/ネットワ
UX デザインの概念図いろいろ。理解のためでも、正解/不正解を判断するためでもなく、自分に合った解釈を探すための見本市として。
渋谷のシェアライブラリー co-ba library に置いてある、OVERKAST 選書の第1弾。 初回は自己紹介も兼ねて、UX デザイン周辺の書籍を選びました。 本棚の場所は、co-ba library に入って右手前あたり、OVERKAST マークが目印です。棚には付箋メモも置いておきますので、本の感想や気付きなどあれば、書いて貼りつけておいてください。 さて、今回のテーマは「広義/狭義のUXデザイン」。「UX デザイン」という言葉の定義が気になりますが、それはまた別の機会に掘り下げるとして、今回は本の内容にそれを託します。 以下、選んだ本のレビューを簡単に書くので、参考にしてください。 ブレンダ・ローレル『人間のためのコンピューター – インターフェースの発想と展開』(1990) アラン・ケイ、ニコラス・ネグロポンテ、ドナルド・ノーマンらの、貴重なインタビューや文献を所収。 今から
UX デザインを定義することについて。「UX」の概念と、「デザイン」の転回における「アフォーダンス」を確認しながら、その問題を考える。 ユーザーエクスペリエンスの定義 道具箱の中に入っているいろいろな道具について考えよ。(……)これらのものの機能がさまざまであるように、語の機能もさまざまである。しかも、類似点があちこちにある。 もちろん、われわれを混乱させるものは、いろいろな語が話されたり、文書や印刷物の中で現われたりするとき、それらの現われた姿が同じであるように見える、ということである。なぜなら、それらの適用例が、われわれにとってそれほど明らかでないからである。 ウィトゲンシュタイン『ウイトゲンシュタイン全集8 – 哲学探究』[11] p.23 「UX デザイン」という言葉の定義には、多くのバリエーション(変種)がある。業務内容や方法論、成果物、既存概念の組み合わせなど、さまざまな人がさ
前回からの『モードの体系』解読の続き。さらにバルトの方法で不確かな「モード」を「読み」、その理論の可能性を探っていく。 無限界の「衣服」と言語学 バルトは、1957年に発表された「衣服の歴史と社会学」において、言語活動(ランガージュ)のラング/パロールと、「衣服」の服飾/服装の体系に、相似性を発見する。 ソシュールによれば、「ラング」は同じ言語社会における言語の総体であり、「パロール」は個人によって使われる言語のことである。また「ラング」は「パロール」の集積から成り立ち、「パロール」は「ラング」から汲み取られる。この関係は、コミュニケーション理論におけるコード/メッセージのような、構造/事象の弁証法であると言える。 これを「衣服」に適用すると、「服飾」は「ラング」のような恣意的な価値の体系で、「衣服」の〈在庫〉の総体になる。一方、「服装」は「パロール」のような能産的・経験的な表現で、個人的
得体の知れない事象「モード」 「モード」という言葉の悩ましい響きは何だろう。われわれはいつも社会状況の変化に急き立てられ、他者の欲望にそそのかされ、「モード」に翻弄される。 ロラン・バルトによると、「モード」とは「定期的に現れる新作の集団的模倣」であり、「健康であり、道徳であって、流行遅れとは病い、もしくは堕落」である。だから「モード」は権力となって、われわれの前に現れる。 敗北した去年のモードは、今年勝ち誇っているモードに対して、死者が生者にむかって言うあの冷ややかな言葉を残す。(……)「今日のお前は昨日の私。明日のお前は今日の私」。 ロラン・バルト『モード論集』-「シャネル vs クレージュ」p.49 ここでバルトが問題にしているのは、衣服に関する「モード」についてである。 かつて衣服は、社会的な差異(性別、年齢、婚姻関係、階級など)によってのみ決定された。だからその差異が硬直した時代
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の続編として予定される「欲望と快楽の倫理学」の序章、まずは「快楽」について。その講義メモ。 パーティーを楽しめないハイデガー 『暇と退屈の倫理学』には、3つの結論があった。 1つ目は、この本を通読すること。著者とプロセスの体験を共有することによって、すでに読者はこの倫理学の只中にいる。2つ目は、人間であることを楽しむこと。贅沢を取り戻すこと。これは消費を強いられるのではなく、浪費による満足を目指せということだった。3つ目は、動物になること。とりさらわれること。人間は自らの能力の高さによって自分の環世界で退屈してしまうが、動物は退屈しないという意味である。 「快楽」について考える場合、とりわけ2つ目の結論が重要になる。ではこの「人間であることを楽しむこと」の「楽しむ」という状態は、どのようにして可能だろうか。 『暇と退屈の倫理学』の本文には、ハイデガーの引用に基
技術論の言葉選びには、実に注意が払われている。そのため特異な術語がたびたび登場し、難解な印象を与えるが、一度概念をつかんで意味を辿れば、決して複雑なことを言っていないのがわかると思う。 参考のため、以下に主要な術語の対訳を並べておく。本文は基本的に平凡社『技術への問い』の翻訳を使用している。 Bestand: 用象 | 在庫、貯蔵品、調達物、役立つもの Entbergen: 開蔵 | 発掘、発露、露わな発き Gefahr: 危険 | 危機 Geschick: 命運 | 運命 Gestell: 集立 | 立て組み、微発性 Herausfordern: 挑発 | 請求、取り立て Her-vor-bringen: 〈こちらへと-前へと-もたらすこと〉| 持ち来たらすこと Verborgenheit: 伏蔵性(ふくぞうせい)| 隠蔽 Wahrheit: 真理、真性 | 真理 Wesen: 本質 |
モーダル/モードレスの定義 モーダル/モードレスとは、ソシオメディアの上野学さんによって「再提示」された、「UI デザインの世界における両極のコンセプト」である。まずは2009年から約1年の間に書かれた、大変示唆に富んだブログ Modeless and Modal において、最近では World IA Day 2012 Yokyo の講演において、言及があった。 とにかく「あっ」と分かってしまったことだから、どう説明のしようもないらしい。モーダル/モードレスとは、どんな世界にでもあるイデオロギーの対立、右翼/左翼のようなものである。だから本来的にどちらが正しいと言ったことは、問題にならないはずである。しかし UI デザインの領域においては、昔からモードレスを目指すべきとされている。 モーダル(modal) モードがある状態。つまり、システムが特定の機能の使用に制限された状態。ユーザーが自由
Samuel Finley Breese Morse 'Gallery of the Louvre', 1831-33 1ウィンドウでのドリルダウン ウィンドウ内に並べられたサムネイル画像。そのいずれかを選択すると、ディテールのページに遷移、もしくはオブジェクトのアクションを実行する。これは OS のウィンドウシステムから iPhone のアプリケーションリスト、Google 画像検索などの Web サービスにまで採用される標準的なUIの挙動である。以降、この UI を「画像インデックス」と呼び、話を進めていく。 単一ウィンドウ内でアプリケーションの各ページを表示する。ユーザがメニュー項目を選択してドリルダウンしていき、項目の詳細に入っていく場合には、ウィンドウ内のコンテンツ全体を入れ替えて新しいページを表示する。 Jeffifer Tidwell『デザイニング・インターフェース – パタ
図形楽譜(もしくは図形譜、Graphic Notation)とは、五線譜などの定形化された記譜法を使用せず、楽曲をコード化・視覚化したものである。 その起源は、楽譜を考案したすべての試みと捉えられるため、紀元前の石版に記された文字譜やタブラチュア(タブ譜)にまで遡る。西洋音楽の優勢以降では、20世紀初頭のイタリア未来派において、初めて定形の楽譜から意識的な逸脱があったと言われる。 即興演奏で利用される図形楽譜は、偶然と差異を生むアプリケーションとしての機能を果たす。また演奏されることを目的としない、楽曲のデータ構造を模したコンセプチュアルアートなども、この発展型として含まれる。図形楽譜において、その再現性の難しさは、創造性の豊かさに比例するのだ。 したがって、図形楽譜を愉しむとは、そのヴィジュアルによって自分の内部で鳴らされる音を愉しむことである。ここに選んだ図形楽譜のどれからも、好きな音
greenzのワークショップに参加し、『ソーシャルデザイン – 社会をつくるグッドアイデア集』を読んで、考えたこと。 「自分ごと」の2つの意味 まずは greenz のメソッドとも言える、7つのTIPSの紹介から。 1. 社会的課題を「自分ごと化」する 2. ホリスティックに状況を捉える 3. 「これからの◯◯」を想像する 4. 一石二鳥以上のグッドアイデアを考える 5. 思いつきをカタチにする 6. 雨ニモ負ケズ、プロトタイプを繰り返す 7. 座右の「問い」で自分を振り返る グリーンズ編『ソーシャルデザイン – 社会をつくるグッドアイデア集』 「社会的課題を『自分ごと化』する」の「自分ごと」とは、「他人事」の対立概念であるが、最初にこのフレーズを目にしたとき、「自分を含めた」という意味に捉えてしまった。しかしこの勘違いな解釈は、greenz の方法論を的確に表していると思う。 その方法論
今をときめくヒップホップチーム Odd Future こと Odd Future Wolf Gang Kill Them All(OFWGKTA)。彼らはその音楽性やリリックだけでなく、出現の仕方、オンラインメディアの使い方も興味深い。その名の通り、彼らを見てると、今まさに「奇妙な未来」(Odd Future)が目の前で起きているような気にさせられる。 Odd Future, Wolf Gang もしくは Golf Wang TYLER THE CREATOR- Summer Camp Mix 2011 by Soundblob.Radio この音源は Odd Future の創造主タイラーこと Tyler, The Creator が、この夏に配布したDJミックスである。MCで悪態はついているものの、この悪童のイメージから程遠いミックス(トラックリスト)から伺い知ることができるのは、彼が
「1975年と1976年の間、ミシェル・フーコーにいったい何が起きたのか?」 前回唐突に投げかけた問いの答えが、この記事のタイトルであることは明らかであろう。しかし結論を急ぐ前に、前回の年表を参照しながら、1970年代におけるフーコーの「権力」の系譜を追って、前後関係を明らかにしたい。 アッティカ・ブルースに耳を澄ませて 1971年のコレージュ・ド・フランス講義『知への意志(言説の秩序)』において、フーコーの権力分析の対象はまだ「主権権力」であった。しかしそれ以降、フーコーは「法」や「階級」など、これまで「権力」があると思われていた場所から、意図的に遠ざかっていく。ドゥルーズが『監獄の誕生』の書評で「マルクス以後はじめて新しい何かが出現したようだ」と評したように、これはフーコー自身がマルクスを乗り越える作業だったのかも知れない。 1970年代前半のフーコーは、自ら監獄情報グループ(GIP)
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