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体力トレーニング
bronson69.hatenablog.com
名付けというのは、簡単なようで難しく、難しいようで簡単である。なにしろどんな名前だって呼んでればそのうちしっくりきてしまう。慣れから逃れることは誰にもできない。高輪ゲートウェイ駅にもそのうち違和感を覚えなくなる。そんなお手軽なものであるのに、名前は実態に影響を及ぼす。スピリチュアルに言えば言霊、マーケティングで言えばキャッチコピー。高輪ゲートウェイ駅は高輪のゲートウェイだとみんなが思うだろう。たぶん高輪ゲートウェイ駅もそう思っている。白金高輪のほうがよほど高輪なのだとしても、そういう認識からは誰も逃れられない。 子どもの名前どうしようか、という話は、ほぼ毎日していた。こういう名前にはしたくないよねえ、こんな名前はやだねえ、そういう話ばかりが盛りあがって、肝心のつけたい名前はいっこうに思い浮かばなかった。 姓名判断は早々に無視することに決めた。一度だけ、自分の名前で試したことがあるのだけれど
空気階段おめでとう。最高の大会だった。今年は「変なやつにツッコむのではなく、受容する」ことで笑いを作るネタが多く、そうじゃないネタは「古い」とジャッジされるような雰囲気があった。ポリコレとか放送コードとかもうそういうことでもなく、単純に世の中がそういう雰囲気になってるってことなんだろう。 そんな中でも空気階段の世界観は一歩先を行ってた。男性ブランコや蛙亭やザ・マミィのネタはまさに「異質を受容する」ことが笑いになる構造なのだけど、空気階段は「異質を受容」なんてことをわざわざやったりはしない。空気階段の世界では、もはや「異質は普通」になっている。人間はみんないびつで、一見まともな人間にも異質な部分があり、一見ヤベえやつにもまともなところが当然にある。空気階段はそういう世界観でコントを作っている。この世界には、ドMな消防士もドMな警察官も普通にいて、プレイ中に火事があったら人命救助に命を張る。小
小沢健二。アルバム。 小沢健二については、信者と言ってもいいような大ファンを自認していることもあり、とても言いにくいのだけれど、今回のアルバム、この感じにはあまり乗れないな、というのが正直なところ。大好きなのは変わらないけれど、なんていうか今回は、俺にはちょっとキレイすぎる。まともすぎる。前向きすぎる。 いやそりゃさ、「今ここにあるこの暮らしこそが宇宙」だと思うよ、俺も。 なんて素敵なんだろうと、なんて奇跡なんだろうと思うよ、俺も。 論理的に考えれば、そうでしかあり得んよ。 そりゃそうだよ。 でもさあ、その「暮らし」って、どんな暮らしなんだろね? 「今ここにあるこの暮らしではすべてが起こる」 なんて言うけどさ、ここで言うその「暮らし」には、別にキレイでもステキでも前向きでもない、どってことない俺の「暮らし」は、含まれてるのかね? やらなきゃいけないとわかってることをダラダラと先延ばしにして
いちばん好きなTVショーが今年も終わった。 一言で、めっちゃ楽しかった。今年は審査がいまの5人に委ねられるようになってからベストの大会だったのではないだろうか。(審査員に期待するのをやめたとも言える、けど言わない) あまり長々と書く気分でもないのでサクッと書いてしまうけれど、僕は漫才とは演者の面白さを提示する芸能で、コントとは世界の面白さを掬いあげる芸能なのだと思っている。 「自分を演ずる」が漫才、「世界を描写する」がコント、と言い換えてもいい。 もちろんすべてがそうだと言い切るつもりはないし、そもそも全く的外れなことを言っているかもしれないけれど、僕はそんなふうに思っている。 漫才師には、自分の面白さに自信を持っている人が多いように見える。彼らの多くは平場に強い。自分のキャラを保ったまま、グイグイと前に出ることができる。対話の中で直接的に笑いをとることができる。 コント師は、面白がってい
9月の夏と秋の境目のころ、函館に行った。佐藤泰志の本と映画に影響されての旅だった。函館はよく晴れて、海風が強く吹いていた。空はどこまでも青く、海はさらに青かった。街には人影がなく、地震のせいで観光客が来ないのだ、とタクシーの運転手が教えてくれた。 函館は海と山に囲まれた街である。北に山、東西と南に海があり、南の海辺には砦のように函館山が構えている。海辺には堤防のようなものはなく、道と同じ高さで海が見える。高い建物も少ないので、市内のどこからでも函館山が見える。遮るもののない空はどこまでも広く、海とつながってひとつになるところまでを見通すことができる。建物はなぜだかやたらと四角く重厚で、どこか厳粛な雰囲気がある。街は狭く、少し移動すればすぐに海か山に行き当たる。どこまでも開けている開放感と、どこにも行けない閉塞感が同居している。だから、この街を歩いていると、諦めながら微笑みを浮かべるような、
まとまらないけど、徒然と。 初めて聴いたのは、「魔法的」ツアーの東京公演。まるでアッパーな賛美歌のような、祝祭的で神聖でどこまでも優しい歌に、棒立ちになってただただ涙していた。なんとか音源で聴きたい、と思っていたら、たったの一年三ヶ月で発売の運びとなり、しかもSEKAI NO OWARIとのコラボまで発表され、自分がどういう感情を抱いているのか自分でもよくわからなくなり、例えて言うなら味の素を知らないひとに味の素の味を説明しようとしているときのような気持ちでむむむとなっていたら、発売日前日の朝に音源が届けられた。 正直に言うと、最初は戸惑いがあった。無声音が強く感じられどこか寂寥感を覚える小沢健二の声と、のぺっとして甘いFukaseの声はあまり相性がよくないように感じられたし、セカオワっぽさの強いアレンジも、なんだかディズニー映画の主題歌のようでチャイルディッシュに聴こえた。ライブで感じた
引っ越したい。そう思って賃貸サイトを見ていたら、小田急線に条件の合う部屋を見つけた。小田急線。これまで関わりのなかった路線。思い入れも知識も全く無い路線。京急や田園都市線と同じくらい知らない路線。これも何かのご縁、以後お見知りおきを、ということで内見に行った。古いが部屋数の多い、駅チカの物件。行ってみたら相応に古く、図面のとおりに部屋があり、駅はマンションの目の前だった。可もなければ不可もなく、何よりトキメキのない部屋だった。トキメキのない新居なんて、ワインビネガーのないポークビンダルーのようなものだ。この時点でテンションはだいぶ下がっていたのだけれど、せっかくだから街を見てみることにした。東北沢。代々木上原と下北沢に挟まれた、各駅停車しか止まらない街。駅の周りをぐるりと歩き、メインストリートをふらふらと歩き、この街には何も無いということがわかった。ここには何も無い。駅の他には、ローソンと
今週の平日が終わった。相変わらず忙しい。ちょっとずつ忙しいのに慣れてきた。鈍感になってきた。細かいことを考えたり、風景を面白く感じたり、そういう場面が少なくなってきた。良く言えば仕事に集中できている、ということだし、悪く言えば人生の楽しみを失っている、ということになる。嫌すぎる。仕事に集中なんてしたくない。仕事のギアは常にローに入れときたい。生産性はできるだけ低くしたい。ひとに怒られないくらいの最低限の仕事だけをして、あとは調べものと見せかけてWikipediaで関東の私鉄の歴史を学んだり、Excelで資料を作成してると見せかけて超人強度100万パワーのウォーズマンが1200万パワーの光の矢になるために用いた計算式を関数で打ち込んだりして過ごしたい。いかにも会社ーッて感じのオフィスで机に座ってスーツ着て仕事をしてる自分がいる、そのことのおかしさに急に気づいてひとり肩を震わせて笑ったりしたい
恐ろしい朝だったので忘れないうちに記録。 悪夢を見た。はっきりとは覚えていないけれど、やたらと長い夢だった。長いだけあって単純な話ではなく、群像劇というか、いくつものエピソードに分割されており、登場人物も老若男女様々で、しかもそれらはシームレスかつ脈絡もなく連結されていて、登場する男性はすべて俺なのだった。現実の俺とは見た目も名前も境遇も何もかもが異なる別人なのだけれど、その夢の中では誰も彼もが俺なのだ。 エピソードは全て、男女の揉め事だった。男とは様々な俺で、女性はその俺と関係のある、しかし現実の俺には見ず知らずの、そういう誰かだった。すべてのエピソードにおいて、俺と女性の関係は終わりかけていた。どちらかが何かを言い出せば終わる空気の中で無言で過ごす話もあれば、泣きわめいて暴れる女性をなだめ続ける話もあった。女性が決定打を撃とうとしているのを察知して、それを言わせぬよう、ひたすら話を反ら
眠たい目をこすりながら書く日記。 書こうと思っていたことをずいぶん溜めこんでしまった。先週のことから。小沢健二の「流動体について」の発売日、仕事を終えて新宿のタワレコへ向かう。渋谷のHMVまで行こうかなとも考えたけれど、自分が一番通ったレコ屋はやはり新宿のタワレコなので、そうすることにした。到着したら、なんと休み。入ってるビルごと休み。Flagsよ、こんな大事な日に何やってんだ。しゃーない新宿にもHMVあったよな、タカシマヤだったかな…と調べるといまはルミネの中にあるのね。行ってみると、なんだこれ、狭い。ちょっと驚くほどに狭い。売場面積、ひとり暮らしにはゆとりのあるワンルームくらいか。CDが売れない時代なんだなあ。それでもお客さんはそこそこいて、レジに並ぶ半数は「流動体について」を買っている。なんだか嬉しい。買って帰宅して早速聴く、涙ぐむ、感情が膨れ上がって胸につかえる、どうしても感情を吐
「ラ・ラ・ランド」感想文。 土曜の夜。新宿TOHO。IMAX。 オープニング。LA名物、ハイウェイの大渋滞。イライラする人々。脳裏に「フォーリングダウン」が浮かび、ブチ切れたオッサンが銃を乱射したりはしまいかと心配になる。しかし実際にスクリーンで繰り広げられるのは、ロングショットで映し出される群衆たちのダ・ダ・ダンス。これでもう心臓をぎゅっとつかまれてしまう。 僕は昔からたくさんの人たちが楽しそうに踊っている映像に弱いのだ。恋するフォーチュンクッキーのPVで涙ぐんでしまうくらい。 ミア・ストーンとルームメイトたちの華やかなダンス。迸る色彩。天下無敵のガールズ・パワー。心臓を掴む手に力がこもる。僕は昔から女性たちが集まった時に醸し出される無敵感に弱いのだ。20年前からずっとゴーバンズの「無敵のビーナス」を愛聴しているくらい。 ラストシーン。あり得たかもしれない並行世界についての美しい夢想。し
三寒四温の意味を肌で知るような一週間。 今週は毎日泣いていた。別に頭がおかしくなっているわけではない。「流動体について」を毎日聴いているからだ。何度聴いても、そのたびに信じられないような気持ちになる。熱いものがこみ上げてくる。どうしてもこの感動を言葉にしておきたいので、書いてみることにする。少し長くなるけれど。 フリッパーズ・ギターは、「この世界にはたった一つだけ本当のことがある、それは『本当のことなんて何一つ無いんだ』ってことだよ」と笑いながら宣言するアンファンテリブルだった。彼らは本当のこと、わかり合うこと、絶対、永遠、真実、皆が信じていたそういう「大きな物語」全てを否定して、最高にカッコよく最高にパンクなやり方でポストモダンを体現してみせた。この世界には根拠なんてない、僕らの人生に意味なんてない。そう宣言して、砂漠のような廃墟の中で戯れ、戯れることで空虚さから逃げ続けた。 世界はこん
引き続き風邪をひいてる。声が出なくなって、熱が出て、「死ぬ…たぶんというか絶対死なないと思うけど、いまこの瞬間の素直な感想としては死ぬとしか言いようがない…」みたいな一日があって、そこからはなんとか脱した、みたいな今日がある。 いわゆる「ていねいな暮らし」みたいなものに憧れていた時期がある。流行りの服じゃなく10年保つ服を自分で繕いながら着て、旬の食材を出汁からきちんと料理して、裏山に花が咲いたら花瓶にいけて、みたいなやつ。いまは当時ほどの憧れはないけれど、でもやっぱり、ちょっと憧れる気持ちはある。いざやるかっていったら、やらないんだけどさ。 ここ数年思っているのは、「ていねいな暮らし」をやらなくても、「ていねいに暮らす」ことができてれば充分なんじゃないかな、ということ。ことさらにクウネルな生活を志す必要はないのではないか、それよりも、自分にとっての普通の生活、30数年生きてきて出来上がっ
「光の光の光の愛の光の」三浦直之作・演出。CBGKシブゲキ。楽日の昼公演。感想文。 愛について、愛の矛盾と愛の輝きについて。 僕はあなたのことを一生愛しているし、死が二人を分かつまで一緒にいるし、あなたを好きじゃなくなることなんてありえなくて、あなたと他の女の娘とはもうなんか決定的に違って、特別で、世界にたったひとりの大切なひとである。僕のあなたへの愛は絶対であり、けして揺らぐことはなく、永遠である。永遠はここにある。絶対はここにある。光り輝くものは、奇跡はここにある。僕はあなたを愛している。 けれど僕たちは知っている。愛は消える。あれほどに輝かしかったはずのあの愛が、いまはもう消えてしまっている。昔、あんなに愛していたあのひとのことを、いまはもうなんとも思っていない。いまの僕の愛はあのときの僕の愛とは別物である。永遠で絶対で奇跡で光り輝いていたあの愛は、どこかに消えてなくなってしまった。
僕が旅に出る理由はだいたい百個くらいあって、とはくるりの「ハイウェイ」の歌い出しの一節だけれど、連休最初の土曜日に僕らが旅に出た理由はたったひとつしかなかった。美味しい餃子が食べたかったのである。 話は二週間ほど遡る。きっかけは何だったか、それはもう忘れてしまったけれど、彼女とどちらからともなく餃子を食べたいねという話になり、手持ちの美味しい餃子屋の情報を出し合い、しかしいずれのお店も決め手に欠け、そんならもういっそ宇都宮に行こうよ、本場の餃子を食べ歩こうよ、でもけっこう予定つまってるから日帰りね!ということになったのだった。こういうのは思い立ったが吉日、でも我々は吉日にいきなり動けるほどの自由人でもないわけで、その吉日の餃子欲を保つため、餃子情報を調べ続け、でも決して餃子を食べてはならない、そんな感じで禁欲的な二週間を過ごした。 まあまあありがちなことだと思うのだけれど、出発の朝、我々は
ちょっとした切っ掛けがあって、昔の日記を読み返した。やたらとエモい文章を前に、恥ずかしいような、切ないような、懐かしいような、何とも言えない気持ちになった。 そこには嘘偽りないそのときの本当が書かれていた。あなたでなければいけない、別の誰かでは駄目なのだ、あなたがいない人生なんてただの地獄だ。その言葉はすべて本心で、本当で、思い込みでも誤解でも何でもないただの真実で、だから言葉がやたらと重たくて、あのときのことを思い出してしまって具合が悪くなりそうだった。 ただ、僕はもう、その言葉が真実であった世界に暮らしてはいない。あれほど大切だったあのひとのことを、いまの僕はなんとも思っていない。恨んでも憎んでもいないし、好きでも嫌いでもない。ただどこかで元気でいてくれればいいな、と思っている。それは僕の人生において少しでも関わりを持ったひとみんなに対して抱くような、人類愛的な優しさの発露に近くて、そ
基本的に家から出なかった土曜日、ほんとうはミランダ・ジュライの「あなたを選んでくれるもの」の感想を書こうと思っていたのだけれど、あまりにやられまくってしまったので、「トットてれび」の感想を書く。 NHK。全7回。一話45分。 毎回泣いた。声を上げて泣いた。しかも、なんで泣いてるのか、自分でもわからない場面でばかり泣いた。 極端な話、満島ひかり演ずるトットちゃんを見ているだけで泣けるのだ。ほんとうのことしかない、星の王子さまのような、天使のような存在。社会がなく、世界しかない、不器用で不自由で、でも調和のとれた満島ひかり。これは何なのだろう、俺はこれをどんな言葉で語ればいいのだろう、そんなことを思いながらみていたのだけれど、きょうやっと、自分なりの言葉が見つかった。 このドラマにおける満島ひかりの演技、表現、感じ。俺の言葉で言えば、「泣いたりわめいたりするほんの一歩だけ手前、感情がむき出しに
こないだ、恋愛トークイベント、というものに行ってきた。「草食系男子vs肉食系男子」っていうテーマの対談で、その感想を書こうかな、と思っていたのだけれど、あれこれ考えていたら感想というより「俺ならこうする」みたいな方に頭が行ったので、それを書いてみる。 まず、定義をする。構造と立場をはっきりさせる。 「肉食系男子」とは、「隙あらば女性とやりたいのでいろんな女性を積極的に口説く男性」のことである。 「草食系男子」とは、「自分からは女性を口説きにいかない男子」のことである。お気づきの通り、肉食系男子の定義には動機が含まれているのに対し、草食系男子の定義には動機が含まれていない。だから、動機を入れて細分化する。 草食系男子には種類がある。「ほんとうはいろんな女とやりたいけれど、否定されたくない・女性が怖い・方法がわからない等の理由で自分からは口説かない、でも向こうから来てくれる女性は拒まずみんなと
湯川玲子✕二村ヒトシ「日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない」を購入。数ページ読んでひとまず挫折。いまの自分のための本じゃなかった。10年、せめて5年前に読みたかった。 「セックスしたい」という気持ちがなくなって、どれくらいになるだろう。彼女がいたときも、触れあったりじゃれあったりするのは好きだったけど、セックスはあまり求めていなかった。甘えたり甘えられたり、求めていたのはそういう親愛の情の表現であって、性欲はお互いごくたまにしか湧かなかったんじゃないかな、たぶん。だからといって彼女以外の誰かに欲情したりとか、そんなこともなくて、本当に枯れていた。いつからそんなふうになったんだろう?若いころはそうじゃなかった。人並みに性欲はあったし、それなりにいろいろと試したりもした。ほんと、いつからなのかなあ、興味を持たなくなったのは。本当はやりたいと思ってるくせに、「どうせ俺なんてセックスにあり
Twitterでオススメされてた、矢野敏夫監督が撮った笠木忍のビデオを見て、うっかり若いころの恋愛を思い出してしまった。 他のひととこんな話をしたことがないのでもしかしたら自分だけなのかもしれないけれど、僕は過去に誰かを好きになってしまった瞬間のことを、全部、鮮明に覚えている。光の感じ、空気のにおい、女の子のしぐさ、表情、言葉。そういうもののひとつひとつを、ありありと覚えている。好きだと伝えたときのこととか、付き合うことになったときのこととか、別れの場面とか、そういうのはあんまり覚えていなかったりする。ただ、好きになった瞬間のことだけは、忘れようとしても忘れられない。どうしてなんだろう。自分のなかで、神話みたいになってるのかな。 昔のことを思い出したのは、僕が19歳のころに好きになったひとと笠木忍が少し似ていたからだ。もともと友達の友達で、何度か大人数で遊んで仲良くなって、それでうちの大学
安田理央「痴女の誕生」を読了。 語りたいことがたくさんあります、夜中なので手の動くまま勢いでバーッと書いてみます。 たぶん後で手直しする。 まず、この本、「AV近現代史」として一級品の資料になってます。 巻末の「アダルトメディア年表」だけでも買う価値がある。 俺は若いころあまりAVを見ておらず、各種の文献で断片的な情報ばかり得ていたので、まとまった情報を得られて大変ありがたかったです。 二村ヒトシ監督はそういう性癖だったのですね、宮台真司とまるっきり同じだなあ…などと楽しく勉強させていだきました。 情報量だけで値段分の価値はあります。 ただ、物足りないところもあって。 「アダルトメディア全般に渡って言及」と後書きに書いてあるのですが、基本となる視点はあくまで「AV業界の内側から見た風景」なんですよ。 はっきり言うと、「オタクカルチャー」の目線が弱い。弱すぎる。 例えば。 第四章「痴女は女が
渋谷アップリンク。 週の頭に行けるかどうかもわからないままチケット抑えて、何日か気合で仕事して、なんとか金曜に間に合わせた。 ※以下、ネタバレ注意です 描かれるのは、対象的な2つの青春。 AVクイーン(言い方が古いな)上原亜依と、上原亜依に中出ししたくてたまらない一般男性、ケイくん。 上原亜依の引退作を撮るにあたって、ケイくんには「100キロ走って会いに行く」ことが要求される。 達成できれば憧れの亜依ちゃんに中出し、失敗したら何もなし。 中出しのためにケイくんはひたすら走る。 一方、引退を控えた亜依ちゃんも、色々と高ぶる思いがあるようで… みたいなお話。 ケイくんと平野監督のコンビが素晴らしい。 素晴らしく何も考えてない。 普通さあ、100キロ走ってたらさあ、内省的になるじゃん。 (俺はなぜ走ってるんだろう、これはいったい何なんだろう)みたいなこと考えるじゃん。 ケイくん、そういうの一切な
わたしは取り憑かれているのです。何に?仕事。甘いもの。青空。アルコール。それから、Twitter。書きまくってるわけじゃないんです。書いたことは数えるほどしかない。ただ、それを見るのが止められない。 誰しも、好きな雑誌の1つや2つ、ありますよね。今はなくても、17歳のころ、あるいは20歳のころにはあったでしょう。毎月、発売日を楽しみにして、次号の予告を何度も読み返すような雑誌です。引っ越しをするたび、荷造りのたびに友達や恋人に「もう捨てなよ」と言われるけれど捨てられなかった雑誌。ときめかないモノは捨ててしまおう!という教えにしたがって断捨離したけど捨てられなかった雑誌。だって何よりときめくんだもん。そんな雑誌なんてなかったよ、という人は、おめでとう、貴方はきっと幸せだったんですね。その幸せに免じて、恐れ入りますがわからなくても勘弁してもらえるとうれしいです。 わたしが言いたいのは、とにかく
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