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大谷翔平
callmesnake1997.hatenablog.com
今年は小津やラングやアルドリッチやベルトルッチといった旧作ばかり見ていて、ますますもって新作チェックを怠り浮世の流れがつかめなくなってしまいましたが、数少ない新作鑑賞の中で印象に残ったものを挙げてみます。おそらく映画のデジタル化の恩恵によってもたらされたよりパーソナルな映画 — それがささやかな個人映画であれ、ハリウッドの大作であれ — どれも個人が世界と対峙する世界観をもった魅力的な映画達を選んでみました。 【番外編】サッカーワールドカップのVAR(Video Assistant Referee) いきなり番外編でしかも映画の話ですらもありませんが…。今年見た映像の中で一番印象に残った映像はサッカーワールドカップで審判がイヤホンからの指示で何度も試合を中断してヴィデオを確認し、ジャッジが覆えってしまう事が何度もあったというVARの光景です。今までの審判による曖昧で人間的な判断が如何にいい
映画監督に著作権は無くともその刻印は存在します。フリッツ・ラングにおける鏡はこれ見よがしに演出されるのではなく、さもそこに在る事が当然のような正確さで実務的に対象を反射しています。それはアクション、サスペンス、ロマンスといったジャンルを問わず、ヒッグス場のような目に見えぬ相互作用の場を刻印して一瞬の質量を与えているように見えますが、果たしてそれが意味するものは何か。そこには何かオカルトのように恐ろしい何かが潜んでいるのかもしれませんし、映画製作上の止むに止まれぬ事情によるものなのかも知れません。 ラングにおける鏡の扱い関してはもちろん多面的なラングの一面をかいま見る一つの側面でしかありませんが、非常に重要な一面でもありますので今回はこの一点に絞って記します。映画を映画たらしめる個人の嗜好と倫理がどのような形を伴って画面に刻印されているのか。鏡の影の秘密、あるいはその鏡に映る犯人は誰なのか?
この映画が紛れもなく映画史に残る傑作であることに異論は無いのですが、とにかく映画とは無縁な地点から人を雄弁にしてしまうような物議を醸す引き出しが多く、かつ映画自体としてもバージョン違いが多く複数の解釈が可能であるというのが『地獄の黙示録』のやっかいなところです。 整理してみますと以下のバージョンがあることになります(画角違いやワークプリントや映画祭用のバージョン違いは除きます)。 ①1979年70ミリバージョン(爆破無し・エンドクレジット無し) ②1979年35ミリバージョン(爆破有り・エンドクレジット有り) ③2001年特別完全版(爆破無し・エンドクレジット無し) ④2001年劇場公開版 デジタル・リマスター(爆破無し・エンドクレジット無し(*1)) ⑤2019年ファイルカット(※New!この文章書いた後に増えた) 僕が最初に見たのは劇場ではなく確かテレビの水曜ロードショーで見た②のバー
よく”伝説の傑作!”とか”××年に1本の傑作!”とか映画の宣伝に使われる惹句は話半分であまり信用できないものが多いのですが、これはまさに掛け値なしに”25年に1本の伝説の傑作”といえるのが『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件(1991年)』という作品です。 「悪魔に委ねよ」という大和屋竺さんの不吉な予言から早25年、権利上の問題でリバイバルもDVD化もされず伝説の傑作と言わてスクリーンから遠ざけられていた本作ですがマーティン・スコセッシのフィルム・ファウンデーションの尽力もあり、ようやく陽の目を見て本日公開されました。 才能ある映画作家はそのキャリアの中で一生に一度才能を全身全霊傾けた大作を撮ることがあります。フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』、マイケル・チミノの『天国の門』、ベルナルド・ベルトルッチの『ラストエンペラー』、黒澤明の『七人の侍』、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の
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