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ノーベル賞
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最近は複雑系の本を読む事から大分離れていたのだけれども、本屋で郡司ペギオ幸夫氏の『生命壱号—おそろしく単純な生命モデル』(青土社)を見つけて、思わず購入してしまった。大変、興味深く、またその高度な内容に感銘を受けたのだけれど、一番強く感じたのは「今の時代は哲学と自然科学の境界が曖昧になりつつある」と言う事だ。 研究の分野としては構成主義的生物学と言うことになるのだと思う。つまり、ある比較的単純な生命のモデルを作ってその振る舞いを観察しながら、現実の生命についての洞察を得ようとするもの。構成主義的生物学に関連すると思われる本はこれまでに金子邦彦『生命とは何か』(レポート①、レポート②、レポート③、レポート④、レポート⑤)や、池上高志『動きが生命をつくる』を読んだ。それぞれが共通する方法論を持ちながらも、その出発点や目標とするところが異なることから、その論理展開も異なっている。 金子氏は化学反
デイビィドソンは我々が物事を理解するに当たっては三つの知識が必要だと言う。すなわち自らの心についての知識、他人の心についての知識、客観世界についての知識、である。本書の『主観的、間主観的、客観的』という題名はそれぞれこの三つの知識に対応している。通常の理解では世界を観察する主体である自分と観察される対象である世界という二分法的な見方をするが、彼は三者関係が重要なのだと言う。それは何故か? そこには言語の問題がからんでくる。我々が思考する時に言語を用いる。しかし言語を正しく用いるためには他者との会話の中において正しい使用法と誤った使用法を学ぶしかない。このような意味で私的言語はありえないと主張したのはヴィトゲンシュタインである。つまりは言語を用いて思考するからには他者との関係がその前提となっていると言うのだ。 また客観性の基盤はコミュニケーションにある。科学において客観性、客観性と叫ぶけれど
以前からリスペクトしていた松岡正剛氏がなくなった。80歳であった。以前から肺がんで闘病していたことは知っていた。最近は近江ARS(Another Real Style)というプロジェクトに力をいれていて、多くの人々を巻き込みながら近江地方から日本の別様のあり方を模索する試みをされていた。つねに固定観念や既成概念に対して異議をとなえたり、より自由化・流動化をうながすような言論を展開されていて、そこから多くの勇気と刺激をうけた。感謝の気持ちとともにご冥福をいのりたい。 私は高校時代に「遊」という雑誌にであって以来、松岡正剛氏のファンである。もう何十年も前のこと。本屋でその雑誌を見たときには「何だこれ?」というクエスチョンマークが頭にたくさん浮かんだ。たしかその号は1003号で創刊第3号だったと思う。文系や理系のいろいろな論文、とんがったデザイン、松岡正剛氏の縦横無尽のぶっとんだ文章。何をテーマ
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