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衆院選
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私は今、泣きたいほどに本を売りたい。 「本屋さんを始めたんですか?」 いえ、違います。私は1冊の本を書いて、それが発売されたところだ。『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか? 国会議員に聞いてみた。』という名前の本。 「な~んだ、ただ宣伝したいだけ。本を売って、儲けたいんですね」 そう言われたらその通りですと俯くのみだが、いや、それだけでもないから、事はやっかいだ。 もっと正確に気持ちを表すのなら、ただひたすらに、私の本を読んでもらいたい! 一人でも多くの人に! というもの。 「それと、本を売りたいということは何が違うのか?」 同じようでいて、違うような‥‥‥。 それは、地団駄踏んで、涙を流し、「どうにかして、本を広めたい」と苦しくつぶやく気持ち。一転、空に向かって両手を広げ、「本を読んでーーーっ!」と大声で叫びたい感情。 どうやったら本を広められるだろうか? 一日中考えに考えつづ
早稲田大学を卒業後、テレビ朝日に入社し、約30年に渡ってテレビ番組の制作に携わってきた鎮目博道さん。45歳の時にはサイバーエージェントと組んだインターネットテレビ局「AbemaTV」の立ち上げにも関わりました。しかし2019年、50歳を機にテレビ局を退社し、フリーライターに転身しました。 ライターとしての経験は皆無。妻と大学生の息子がいるのに、年収が激減するのは確実でした。なぜ鎮目さんは、給料も知名度も高い、人がうらやむ日本有数のマスコミ企業を辞め、よりにもよって“不安定”と“貧乏”のイメージが強いフリーライターという道を選んだのでしょうか。その真意に迫りました。 【インタビュー後編】50歳でテレビ局を辞めた「フリーライター」どうやって稼いでいるか? 30年の時を経て、本当にやりたいことを ──テレ朝ってなかなか入れない超人気企業で、給料もめちゃくちゃ高いし、福利厚生も充実してるじゃないで
50歳になった瞬間、テレビ朝日を辞めてフリーライターになった鎮目博道さん。フリーになった後、どのような仕事で生計を立てているのでしょうか。仕事の内容や仕事にかける思いなどを聞きました。 【インタビュー前編】年収1500万円以上の「テレビ局プロデューサー」が50歳でフリーライターに転身した理由 メインはテレビ関連の記事 ──2019年7月に50歳でテレビ朝日を退職した後は、どんな仕事をしているのですか? 「シーズメディア」という屋号でフリーランスとして活動を始めました。仕事としては、ずっとやりたかった「ライターの仕事」、それから「テレビマンとしての仕事」と「企業系の仕事」の大きく3本の柱があります。 ──まず、ライターの仕事について教えてください。どんな媒体にどんな記事を書いているんですか? 現在は「東洋経済オンライン」と「夕刊フジ」で連載をもっていて、不定期で「プレジデントオンライン」「週
社会と距離を置き、少しだけ働いて、なるべく出費を抑える生活を楽しむーー。ライターの大原扁理(おおはら・へんり)さんは、そんなミニマムなライフスタイルを「隠居」と呼び、10年近く実践してきました。 週に2日だけ働き、年収90万円で生きる。そんな隠居生活を6年間、東京で送ったのち、台湾に移住。今度は1カ月働いたら2カ月休むというスタイルの「年収60万円」生活に切り替え、3年半が過ぎました。 そんな日々をまとめた本が『いま、台湾で隠居してます』(K&Bパブリッシャーズ)として、12月に出版されました。現在は「コロナ禍」で一時帰国している大原さんに話を聞きました。 いずれ台湾での隠居生活を再開させたいという大原さん。台湾の人たちには、外国人や性的少数者、障害者といったマイノリティ(少数派)を「いつかは自分も当事者」と受け入れる寛容さがあると見ています。 「台湾には人間関係のグラデーションがあった」
つい先日のこと。用事があって新宿のとあるショッピング・ビルを歩いていたら、椅子に腰かけた人が身体を折り曲げ、どうやら寝ているのが見えた。少し近づくと、その人はジャンパーに木綿のパンツ、スニーカーを履いている。キャップを被り、リュックを抱えていたが、そのどれもが汚れていた。 ああ、たぶん、そうだ。この人は路上に暮らす人だ。夜、休むことができず、ショッピング・ビルの目立たないところで昼間そっと寝ているのだと理解した。 こんなとき、どうしたらいいのか? コロッケパンとお茶を買って、差し出した 私は以前、「夜回り」に参加したことがある。 ※東京の夜の街を歩きながらパンを配る…ホームレス支援の「夜回り」を体験してみた 東京の夜の街を歩きながら、路上に暮らす人に声を掛け、美味しいパンと「路上脱出・生活SOSガイド」という冊子を渡す。 そのときは何もできなかったけれど、あれから少しずつ学んできた。路上に
『完全自殺マニュアル』や『0円で生きる』の著者として知られるライターの鶴見済(つるみ・わたる)さんは近年、生きづらさを感じる人たちのための集会「不適応者の居場所」を都内で定期的に開催しています。また、2012年からは不要になった物を無料で放出する「0円ショップ」を仲間たちと運営してきました。 1993年出版の『完全自殺マニュアル』(太田出版)で自殺の方法を紹介し、日常と向き合う「心構え」を持とうと提唱した鶴見さん。以後も『脱資本主義宣言』『0円で生きる』(ともに新潮社)など、社会からはみ出そうになっている人たちに、手を差し伸べようと執筆を続けてきました。 そんな鶴見さんは、今を生きる人たちがどのような「生きづらさ」を抱えているとみているのでしょうか。またその背景に、どのような問題があると考えているのでしょうか。話を聞きました。 「降りた」あと何もなくて孤立してしまう ーー鶴見さんは、今の人
小さな箱にかわいいデザイン、300個以上あつめた「広告マッチ」の世界(マッチを集める 1) 私は、マッチを集めている。正確に言えば、コレクションしているのはマッチそのものではなく、容れ物である「マッチ箱」だ。 マッチ箱は、小さい面の中にデザインの工夫があって、かわいい。それが魅力の一つだ。集め始めたのは、高校生の頃からなので、もう25年くらい集めていることになる。今、持っている個数は、自分でもよくわからない。 300個まで数えていたが、それ以上は数えていない。逆に言えば、300個以上のマッチが我が家にあるということだ。 こんなマッチを集めています 冒頭の写真は、特に気に入ったマッチを入れている箱である。野球で言うと一軍だ(何かと戦うわけではないが)。 そんなエース級の選手の中から、一部をご紹介しよう。 こちらは、東京・六本木のインド料理店「MOTI」のマッチ(左上)と、東京・新宿のロシア料
これから編み物の話をするけれど、語っているのは「編み物」についてではない。 「差別」とか「偏見」につながる私の頭の中の話である。 あなたの頭の中の話でもある。 編み物で「ある実験」をしてみた 私は編み物の仕事をしている。 「編み物」とは、あなたのおばあちゃんやお母さんが編んでいたかもしれない、 マフラーとかセーターを編む、あの編み物である。 ワークショップやイベントで編み物の楽しさを伝えたり、関連企業へアドバイスしたりなど、「編み物」にまつわる様々な局面での仕事を、私はしているのだ。 以前の話になるが、「男性の私が街に出て一人で編み物をしていたら周りはどんな反応をするだろうか」と思って、ホテルのロビーやカフェ、公園などで実験をしたことがある。 編み物はなかなか良い「ひとり時間」の過ごし方としておすすめであるが、家から飛び出して外で編んでみたらどうなるのだろう、と思ったのだ。 感覚的にはここ
東京大学の駒場キャンパス(東京都目黒区)にあった「駒場寮」。2001年に取り壊されたその寮を撮った写真集の再制作にあたって、当時写真を撮らせてくれた元寮生たちに話を聞いている。 ※写真集制作の経緯については、第1回の記事をご覧いただきたい。 今回は卒業後に毎日新聞の記者になった酒造唯(しゅぞう・ゆい)さんを訪ね、インタビューした。 今回は、「駒場寮での生活は、現在の仕事にかなり影響を及ぼしている」という酒造さんの近況を、酒造さんがかつて暮らした部屋の写真を交えながら紹介したい。 いまは科学記者「お上の言うことに唯々諾々と従えなかった」 ――いまはどんな仕事をしているんですか。 酒造:毎日新聞社で科学記者をしてます(2019年7月時点)。原発の取材が長いですね。大学での専攻とは直接は関係ないんですが、新聞社に入って2つめの任地が、中国電力の島根原発がある島根県だったんです。原発があれば地域が
東京大学の主に1、2年生が通う駒場キャンパス(東京都目黒区)。そこにかつて、駒場寮という学生寮が存在した。1935年(昭和10年)の竣工で、設計は東大の象徴として有名な安田講堂と同じ内田祥三。建築から約60年後、廃寮・取り壊しをめぐり、大学側と寮生が激しく争う事態となったが、2001年8月22日、裁判所の強制執行によりその歴史に幕を閉じた。 私は東大卒ではなく、武蔵野美術大学の出身である。当時、ひょんなきっかけから、大学の卒業制作として、東大駒場寮の「写真&インタビュー集」を作成することになった。そのことが未だに残る呪いの元になるとは、思いもしなかった。 駒場寮の「写真集」を封印する 駒場寮が廃寮となった翌年の1月、私は東大駒場寮の写真と寮生のインタビューをまとめた手製写真集を完成させ、卒業制作展で写真や動画とともに展示した。 そのあと、1000枚以上の写真とネガ、動画が私の元に残ったが、
大阪在住のモデル、遠山涼音(とおやま・すずね)さん、29歳。十代の頃はグラビアアイドルでした。彼女はいま、ひとりの人形作家として注目されています。 石粉粘土でできたヒトガタたち。彼女がつくる人形は、見る人の心の状態によって、表情を変えます。冷たく無機質に感じる人もいるでしょう。戦慄の光景を目撃してショックで言葉を奪われた顔つきに見える人もいるのでは。反対に、温かみをおぼえる人もいるかもしれません。 「よく『この人形のテーマは?』と訊かれます。けれども、テーマを言葉で説明できたならば、私は人形をつくらなかったでしょう。これまでずっと、自分の気持ちを言葉で説明できない生き方をしてきたから……」 遠山さんは現在、精神科医から「統合失調症」と診断されています。そして、さまざまなサポートを受けながら、症状の緩和へ向けて努力しています。 彼女はこれまで自傷の誘惑と闘い、摂食障害に苦しんできました。幻聴
「ソロ死」の恐怖を感じた瞬間 「顔を洗っただけなのに・・・」 「泡モコモコ洗顔」をしていたら、突然悲劇が・・・・ ある程度年齢を重ねて「ひとり暮らし」をしている人ならば、誰しも一度は頭によぎる「孤独死」。わたしも、インフルエンザで40度の高熱が出た夜や、胃腸炎で数日飲まず食わずでのたうちまわったときなど、衰弱のあまり「このままひとりで死ぬかも」と思ったことがあります。 フリーランスライターで「自宅=事務所」のわたしは、毎日どこかに出勤しているわけではないので、病に倒れても「無断欠勤」を不審に思う人がいません。連絡がとれなくても「忙しいのだろう」と思われてしまうため、万が一ひっそりと死んでしまっても、数日いや数週間は、発見されない可能性が大いにあります。 「孤独死」への恐怖は薄かった しかし、わたしはあまり孤独死自体を特別なものとして感じていませんでした。 「死ぬときに誰かに見とられなくても
「炎上弁護士」の異名を持つ唐澤貴洋さん(41)。ネットで誹謗中傷を受けていた依頼人のために掲示板の書き込みの削除請求をしたことがきっかけで、激しい誹謗中傷にさらされる身となりました。それだけでなく、個人情報の流出や殺害予告、なりすましによる爆破予告といった攻撃を受け、命の危険まで感じるようになります。 そんな唐澤さんは、ネット炎上を引き起こしている加害者は「孤独な人」だと指摘します。一方で「孤独と向き合うことは重要で、子どもにコミュニケーションの危険性を教えるべき」とも語ります。いったい、どういうことなのでしょうか。じっくり話を聞きました。 「友達ゼロ人」だった孤独な青春時代 ――唐澤さんは私立の中高一貫校に進んだものの、「このままでいいのか?」と疑問を感じて、高校1年の秋に学校を中退したということですが、高校を辞めると友人が誰もいなくなったそうですね。 唐澤:友達ゼロ人です。そうなると、
1時間2000円の「レンタル彼氏」と1万円の「レンタル彼氏」を呼んで、比較してみました みなさま、はじめまして。作家の内藤みかと申します。 私はひとり身です。16年前に離婚して以来、恋人と呼べる存在がいないまま、ひとりで生きてきてしまいました。 正確に言えば、シングルマザーで、子どもが2人いるので、完全にひとりというわけではないのですが。もうずっとひとり寝の日々が続いているので、気分はおひとりさまです。 そんなひとり寝のベテランの私が経験したひとり遊びを、今回から紹介していこうと思います。 しょっぱなは、なんと、「レンタル彼氏」のお話です。 時給の異なる「レンタル彼氏」を比べてみると・・・ あまりにも長い間、ひとり身が続くと、男の人とどう過ごしたらいいのかわからなくなってしまいそうなので、私は自分にあるノルマを課しています。それは、月に1度は男の人とお茶する、ということ。そんなノルマでもな
生き方上手な人に比べて「自分は圧倒的に劣っている」。お笑いコンビ・オードリーの若林正恭さんは、自ら執筆した著書のなかでそう述べています。もともと人見知りだという若林さんは社会生活にうまくなじめず、「他の人と自分が何か違うような気がする」という疑問を抱き続けてきたといいます。 しかし、2018年9月に40歳をなる若林さんは、そんな自分を受け入れられるようになってきたのだとか。現在の心境をまとめた単行本『ナナメの夕暮れ』(文藝春秋刊・8月30日発売)を出版する若林さんに、話を聞くことができました。若林さんはエッセーに綴った2015年からの3年間を「青年とおっさんの狭間」だったと記しています。 ーー単行本に収録されたエッセーを書いたこの3年間は、若林さんにとってどんな時間でしたか? 若林:非常に中途半端な時期でしたね。MC(司会)をやり始めたのが2015年なんですけど、進行していても、ゲストの視
「ニートでも幸せに生きることはできる」。お金がなくても無理なく、楽しく暮らすための生き方と考え方をつづった『ニートの歩き方』(技術評論社)。2012年に発売され、いまなお多くの人に読まれている本です。著者の生き方に共感した読者からは、「ホッとした」「安心した」などの感想が寄せられ、ニートのバイブルになっています。 この本を書いたのは、ブロガーのpha(ファ)さん(39)。西の名門・京都大学を卒業後、大阪で大学職員になりますが、3年で退職。その後10年以上、定職には就かず、シェアハウスの運営や書籍の執筆などをして暮らしてきました。そんなphaさんの生き方に共感する人が多いのはなぜなのか。その実像に迫ります。 自由気ままに暮らすことの魅力 phaさんの朝は早いです。毎日7時に起きて朝ご飯を食べます。しかし、9時ごろに二度寝して、また昼ごろに起きるという生活を続けています。 「いまは特にやりたい
DANROは「ひとりを楽しむ」をコンセプトにしたウェブマガジンです。 2018年5月、朝日新聞社の社内プロジェクトとして創刊しました。ひとりで暮らしている人やひとりの時間が多い人、ひとりを楽しみたい人に向けて、個性的なオーサーたちのコラムやインタビュー記事、ひとりのときにオススメの飲食店や娯楽を紹介してきました。 「ひとり」のポジティブな面に目を向けたい 「ひとりを楽しむ」をコンセプトにしたのは、単身生活者が年々増え、ひとりで暮らしたり、ひとりで働いたりすることが珍しくなくなっているにもかかわらず、「ひとりでいること」「ひとりで行動すること」に対してどこかネガティブなイメージがつきまとっていたからです。 しかし、ひとりで自分自身と向き合って時間を過ごすからこそ得られる貴重な体験や発見があるはず。人生を豊かにする「ひとりのポジティブな側面」にもっと目を向けてほしい。 そんな思いで、DANRO
「客引きは100%ぼったくりです」。そんな物々しい看板が立つ東京・新宿の歌舞伎町。ここで開催されているクラブイベント「Soi48」。DJブースに“彼ら”が立つと、フロアの空気が変わります。やがてスピーカーから、どこの国のものともわからない不思議な音楽が大音量で流れてきました。 実は日本の民謡なのですが、注意深く聞かないとそれが日本語であることすらわかりません。“彼ら”の名は「俚謡山脈(りようさんみゃく)」。民謡でフロアを湧かす「民謡DJ」のユニットです。 「俚謡山脈」は民謡を専門とするDJとして、おそらく日本で唯一の存在です。彼らの民謡に対する思い入れは深く、背景や歴史を探るうちに「ジジィババァの声は最高だな!」という境地に達したのだとか。そんな「俚謡山脈」の佐藤雄彦さん(42)と斉藤匠さん(38)に、なぜいま民謡なのか、どうして民謡をクラブでかけようと思ったのか、聞いてみました。 建築関
DANROは「ひとりを楽しむ」をコンセプトにしたウェブメディアです。
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