サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
filmmer.hatenablog.com
突然だけど、僕はスマートフォンとSNSの依存症だった。 夜中に起きたら無意識にスマートフォンを手に取ってしまうし、ほんの少しの信号待ちでもSNSやニュースを眺めてしまう。動画配信をだらだら見る癖がなかったのが不幸中の幸いだったが、それでも株価からニュースからSNSの言説までを四六時中小さなディスプレイを通して眺めていた結果自分の思考が想像以上に疲弊し、いつの間にかSNSの論調に飼い慣らされてしまっていた。 こんなことを書くとオカルト初段認定されてしまいそうだが、スマートフォンの画面から絶えず流れてくる言説に晒されていたら、次第に思考がネット言論のトレンドに多かれ少なかれ飲まれてしまうと思うし、思考が変わるということは、行動も変わるのだ。 2000年代初頭に旧共産圏国家で相次いで起きたカラー革命は、スマートフォンとSNSが政権転覆の原動力になったのと同様に、直近のコロナ禍やウクライナ戦争にお
毎日めちゃくちゃに暑い。 ここ数年「およげ!たいやきくん」のように昼間は太陽とオフィスビルとアスファルトの三方向から押し寄せる35℃オーバーの熱に挟まれ、夜になっても最低気温が27℃くらいまでしか下がらない。そんな理不尽な東京鍋の中の暮らしが毎年のことになっていて、いつの間にか「どうなってんだ日本…こんな国いやんなっちゃうよ」が口癖になっている。 先日プーケットから帰ってきた知り合いに「日本の夏の方が不快かもしれない」とまで言われ、そんなわけないだろと思いプーケットの気温を調べたら、最高気温が30℃そこそこで止まっているのでプーケットの方が確かに快適のように思える。この記事を書いている時点の週間気温を見た限りだけど、やっぱり東京の気温と湿度はおかしいんだと思う。 そんな猛暑がずっと続いているこの10年くらいの話題は節電とエアコンの設定温度が幅を効かせるようになってしまった。 エアコンの設定
Xをやめてから急に写真を撮る速度が落ちたようで、そういえば最近このblogにもフィルム写真の話題を書いていない。 写真に飽きたわけではなくペースが落ちただけなのだが、よくよく考えてみれば写真なんて分野はそうそう目新しいことが起きるわけでもなくイノベーションがある分野でもないのに、超高速なSNS社会における価値のない煽り合いに巻き込まれるように写真を撮っていた…のかもしれない。 本人にはその自覚がなかったのだけど、四六時中正しさの議論に明け暮れていたり危機を煽るような文章が山のように押し寄せるXの世界から一歩離れてみると、世界は終わりに向かってるわけでもないし自分の目と耳で感じ取れる半径数十メートルの世界は美しいのだ。 そんな最近の写真を少し。 写真はすべてLEICA M6とKodak VISION3 250D、EPSON GT-X 980/Silverfast9でスキャン 最近PENTAX
自分もいつかは中年になり人生に迷って苦しむのだろう。 それでも世の大人はあんな苦悶の表情で悲壮感を背負って歩かなくてもよいだろうに、ましてや電車に飛び込んだり首を吊る必要なんて絶対にない。そもそも人がそこまで追い詰められる社会や世の中の仕組みがおかしいのだ。 20代の頃は漠然とそう考えていて、なんなら今でも他人事のようにミドルエイジクライシスに思いを巡らせているのだけれど、ここ数年僕の意識を覆う理由なき焦燥感だとか社会への無力感や自分の無価値感はたぶん世間で言うミドルエイジクライシスで、 もしかしたら知らぬ間に僕もこの苦しみに片足を踏み入れているのかもしれない。 ちょうど「きょうのはてなブログ」でミドルクライシス関連の記事が2つも上がっていたので、これらの記事を読んで考えたことを書いてみようと思う。 僕は心理学の教育を受けた人間ではないから気の利いたことも書けないし聞き齧りの話を文字起こし
写真とSNSが一体になってしまったところから考え直していいかもしれないし、僕は写真とSNSを引き剥がす時期にきたんじゃないかと感じてる。 少なくとも写真に纏わりついてしまった「即時性」は引き剥がしていいと思う。 https://twitter.com/VP_Analogue/status/1770023306835669488 こんなことをXに呟いたら思いのほか多くの反応を頂くことになった。SNSに流れてくる写真に対して僕が感じている違和感と似た感情を実は多くの人が持っているのかもしれない。 深く考えずに感じたことを生焼けのままネットの海に放流したこの呟きの背景には、撮る目的とかパッションがSNSに占領されてしまった結果、世の中の写真と撮る人の価値観がおかしくなってしまったのではないか?という漠然とした思いがあった。 面白い写真を撮る人は変わらず一定数いるけれどSNSに流れてくる写真はあま
カラーネガフィルムとはなんとも不思議なメディアで、その季節の陽光だとか湿度が写真に乗ってくるような気がする。 冬の写真は暗くかさついているし春の写真は霞がかって見える。夏の写真は湿度100%に近い空間を貫いてくる強い太陽光がフィルムの乳剤面に記録されているように見えるのだ。 確たる証拠があるわけじゃない個人の感想に「証拠はあるのか!」と食ってかかられても困るので「気がする」って表現にしているけれど、僕個人はフィルム写真は季節の光のかたちだとか湿度を捉えていると確信している。多分このブログを読んでくれているフィルム勢の方もそう感じているに違いない。 フィルムで撮ると湿度たっぷりの東南アジアで撮った写真と乾燥した欧州の冬で撮った写真ではまったく雰囲気が違うし、メディアや大資本が礼賛するご都合主義の偽物の多様性ではない本当の意味の多様性がフィルム写真にはある。 せっかくなので今年の早春の写真をい
今年の行動指針は捨てると止める。 このブログでも紹介したジョナサン・マレシック著「なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか」の中で引用されている「雑用の渋滞」という概念をもう一度振り返ってみると、ここ数年の僕は子育てと仕事に忙殺されて明らかに雑用が大渋滞を起こしていたし、批評と論争ばかりのSNSを眺めていつの間にか感情の渋滞にも巻き込まれていた。 雑用が渋滞を起こすまで膨れ上がってしまったのは、テクノロジーの進歩の結果なのだ。 買い物もイベントの予約もネットでできるようになったし、昔よりも単位時間あたりに実行できるタスクが増えている。本来ならばそれは可処分時間になり人は雑用から解放されるはずだったのに、この世界は余暇の時間を楽しむことではなく生産性を上げることに向かってしまった。 20年前は3人でやっていた仕事はいつの間にか1人でする仕事になり、「セルフケア」や「自分の機嫌は自分で取る」なんて耳障
本の最後に添えられる「あとがき」が好きだ。 読了した満足感や高揚感、腑に落ちない問題提起で終わってしまったルポルタージュでも不協和音めいたエッセイでも最後に添えられるあとがきはデザートのようでもあり、読み手をそっと受け入れ本文が書かれた時代と今を繋げながら背表紙を閉じるセレモニーの主催者でもあり、読了後にゴールで初めて顔を合わせる伴走者のような存在でもある。 ブログってそもそもなんだっけ?という何百万回も繰り返された問に対するひとつの解は「日記」なんだと思う。 とはいえ僕を含め大多数の人はハリウッド映画のようにピンチと爆発とロマンスが120分に詰められた超高密度な生活なんてしていないのだから、安定して面白い日記を書き続けるのはちょっと難しい。 日記の代わりに「月報」なら書けると思うんだけど、月報というと仕事を思い出して嫌な気分がゲップと一緒に飛び出してしまいそうなので、これからは月末に「暮
仕事を片付けたふりをして電車の中で寝落ちしたのだと自分に嘯いて乗り過ごし、夕暮れの海を眺めてから帰る。 そういえば僕が小さい頃は軽トラックの助手席に乗せられて海によく連れて行かれた。配達帰りの昼下がりに畑道を抜けて、砂浜のちょっと手前で止めた軽トラックから降りて海をぶらぶらして帰る。ただそれだけの寄り道。 何かをした記憶はないけれど、光の色と潮騒はよく覚えている。 大人になると海のありがたさがちょっとだけ増す気がする。ウィークデイに負った心の傷の回復は歳を取ると段々遅くなるから、時々海の力を借りないといけない。 山派の人とか潮風が嫌いな人もいると思うので全ての人に当てはまることじゃないけれど、意味もなく夕方の海岸をぶらぶら寄り道するとすごく気持ちがいい。 暖かな秋の夕方の海辺は本を読む人やビール片手に夕焼けを眺めている人、写真を撮っている人、僕みたいに当てもなくぶらぶらする人がたくさんいる
なつやすみの思い出をHASSELBLAD 907Xで撮った記事の続き。 今年の夏休みは久しぶりにデジタルを持ち出してあちこちぶらぶらしていたけど、もちろんフィルムカメラも連れ出していた。ようやく現像が終わったのでカラーネガフィルムに記録された今年の夏休みをずらっと並べてみる。 このままだと近い将来本当になくなってしまうかもしれないカラーネガフィルムにはデジタルのような便利さはないけれど、デジタルが逆立ちしても真似できないような豊かな色を持っている。空の色や海の色、田んぼの緑、路地裏の淀みの色が溢れ出るように濃いのだ。画面全体に湿り気があって、そのシーンの香りや光の形まで閉じ込めているように思える。 フィルム写真やアナログ生活の豊かさとゆるさを残すことがこのブログを続けている理由なので、ぜひデジタル写真と比べながらPortra 400の豊かな色を感じていただきたいと思う。もし何かの間違いで「
フィルム代についてジョセフ・クーデルカは以下のように語っている。 If I couldn’t shoot lots of photos, I would not be the photographer that I am. Still, the cost of film has often been a problem. At times, to save money, I had to work with remainders of movie-film, and even to buy film that was stolen. たくさんの写真を撮れなかったら私は写真家になり得なかった。それでもフィルムのコストはしばしば問題でした。お金を節約するためにある時は私は映画フィルムの残りと仕事をしなければならず、またある時は盗品のフィルムさえ買わなければなりませんでした。 ここ数年ずっと続い
春はあけぼのカラーネガ。 出会いと別れの季節をきちんと写真に残してあげるためにポートラを買った。 あっという間に価格が高騰し5本で18,800円というとんでもない価格なのでもう日本で買うことはできないけど、海外から調達すれば10本で160ドルほどで調達できるのでまだどうにか継続できる。まだ、どうにか。 高い高い文句を言うけど、ここ一番って時はフィルムで撮りたい。 最新のデジタルカメラで撮ってフィルム風フィルタをかけてもすっ飛んだハイライトやシャドウは復元できないし、かといってHDRで撮ってフィルタをかけ始めるとCGのようなファンタジーになってしまう。等倍まで広げた時にディテールがきっちりしているのもちょっと、ね。 ディスプレイでしか見れない写真とかデータが破損したら永久に失われる写真もなんだか嫌だ。現物としてのネガやプリントが手元にあってほしいし、手に取れる形で長く残っていてほしい。 大切
みんながあまり気づいていない(と勝手に考えている)二日目の豚汁の旨さについて。 寒い夜に啜る出来立ての豚汁は勿論美味いのだが、翌日に温め直した豚汁も実に美味い。鍋の底に残る煮崩れた野菜と豚肉の残骸が醸し出す旨味のカオスが脳を駆け巡るのだ。 土曜日の朝はあまりにも寒かったので早朝から豚汁を作る。 冷え切ったキッチンでどうにか暖を取りたかったし、朝から豚汁を煮込めば部屋も暖かくなり夜には豚汁Day2が楽しめるだろうと思い冷蔵庫に寝ていた野菜を切る。料理写真のお供はRICOH GRIIIだ。 人参が大きく切られているのは僕の人参に対する恨みの表れだ。要するに人参がきらいなのだ。 冷たい水を鍋に張り、大根と人参を放り込む。 えぐみを取るために一煮立ちさせたら湯を捨て根菜を冷水に潜らせる。水道水の冷たさは過激だしまだ外は薄暗い。 豚肉は別に炒めてから煮込む派。 煮立った鍋に直接放り込むと灰汁取りが面
ラジオをメディアの座から追い出したテレビがネットに駆逐されかかっている21世紀においてまさかのラジオ専用機であるTivoli Audio PALを買った。 RadikoやSpotifyのストリーミング放送を受信するスマートスピーカーではない。アンテナをぐいっと伸ばしてFM/AM波を受信するアナログラジオ(と言う表現が正しいか解らないが)である。ついでにBluetooth経由で音楽の再生もできる。 一通り音を出してみて製品として素晴らしくよくできていると感じた。まずは思うことを書き起こしてみる。 買うかやめるか悩ましい製品 このラジオを初めて目にしたのは新宿のコンランショップだったと思う。 ぱっと見で可愛いなと思ったけどプラスチックの外装とサイズから「これって音質二の次のオシャレアイテムっぽいよなぁ」という感想だけを持ち帰った。 その後なぜか定期的にこの製品が気になり、思い出すとネットで情報
今年も残すところあとわずか。 一年を振り返りつつ買ってよかったと思うものを指折り数えていくと、「便利な何か」ではなく「使って心地よかったもの」だったことに気が付く。 10年くらい前はデジタル製品やガジェットめいたものを買っては屁理屈並べて喜んでいたけど、便利なものってどこまで行っても便利な道具でしかなくて、愛情持って使う何かにはなり得ないんだと思う。 Apple製品なんて最たるもので、よくでき過ぎていて血が通っていない製品になっちゃった。2023年になろうとする今、iPhone7を愛してやまない人ってほぼいないとと思う。昔のApple製品はどこか抜けてて愛嬌があったんだけど。 今年は買ってよかったものを5つ挙げた。 どれもが「これっきゃできねえ!」的な単機能だけど素晴らしいクオリティを持つものだ。これらは2032年になっても愛用していると思う。 Tivoli Audio PAL 土屋鞄製造
コレクターやマニアの世界を除けば、同じものを買う人なんて世の中にそうそういないと思う。 お金出して同じもの買う大人って馬鹿だなぁアホだなぁ消費の奴隷だなぁ資本主義の犬だなぁ…なんて思っていた僕もついに馬鹿な大人の仲間入りを果たした。同じレンズを買ってしまったのだ。ツァイスイエナ製のFlektogon 35mm F.24 MCが到着した。なんと今回は箱付きだ。 ひとつ言い訳させて貰うと、今回買ったレンズは既に所有しているレンズの後期型であるのでまったく同じものではない…というかFlektogon 35mm F2.8とF2.4 MCは別物だと感じたので雑感を残しておきたいと思う。 VEB Carl Zeiss JenaとFlektogon 35mmについて Flektogonは第二次世界大戦後に東西に分割されてしまったカール・ツァイスの東側である人民公社カール・ツァイス・イエナが設計製造した3
事の発端はApple Siliconが搭載されたM1 MacBook Proを買ったところだったとも言えるし、新しいMacBookが原因でなくとも遅かれ早かれ現像ソフト引越しの時期は来たのかもしれない。 Lightroom4.3はもうダメみたい やっぱサブスク制はだめだと思う 転出先の候補 Capture One を使ってみた感想 インターフェースは至ってシンプル 直感的にサクサク進む編集 キーワード設定と検索はちょっと弱いかも 修復は少し独特かもしれない フィルム粒子の機能は面白いと思った 透かしはエクスポートするときに設定する 想定外だったストレート現像のクオリティ DxO Photolab5を使ってみた感想 写真の検索機能も強力かつ簡単 新規ユーザーに優しいお節介 別売りのFilm Packの完成度が素晴らしい ユニークなプリセット Deep Primeという圧倒的なノイズ除去 ダメ
手は出すまいぞと決めていたM42マウントのレンズが我が家に到着した。 いつかは使ってみたかったCarl Zeiss Jena製Flektogon 35mm(ゼブラ前期型)である。 物心ついた時分、世の中にはバヨネット式のマウントしかなかったので、ねじ込むだけのスクリューマウントに対する印象があまり良くなかった。 精度大丈夫なのかとか、カチッとハマらないのって気持ち悪いよね・・・なんて思いがあってM42レンズを敬遠してきたのである。 が、うっかり買ってしまった。 この縞々かっこよくない? Jenaレンズとの馴れ初めは、Photo Yodobashiのマウントアダプターレンズ特集。 あの特徴的なシマシマ模様は知っていたものの、この記事の写真がとても良い色気とモダンさを持っていたのがいけなかった。 Photo Yodobashiの中の人は写真が上手すぎる。 家の近所をぶらぶらして試し撮り。 目に
今日が6月6日ってだけですけどね! 先日ハッセルブラッドのスクリーンをアキュートマットDに変更してからというもの、スクリーンを覗くのがとても楽しくなった。 あんまりにスクリーンの像が綺麗なもんだから、撮り終わったフィルムを抜いた後スクリーンを眺めるためだけに空シャッターを切りまくるくらい綺麗。 この感動を味わうためにも、ハッセルを探してる人はぜひダメスクリーンが入っている個体を一度買ってみてほしい。 その後アキュートマット入れると感動するから。 HASSELBLAD 500CM/Planar 80mm/ACROS II HASSELBLAD 500CM/Planar 80mm/ACROS II HASSELBLAD 500CM/Planar 80mm/ACROS II 2019年に発売されたACROS IIとSilversalt現像液の組み合わせはすこぶる良い。 使っているCFプラナー80
HASSELBLAD 500C/Mのスクリーンにまだ新品があったなんて! TLに流れてきたツイートを見て我が目を疑った。 ハッセルが500C/Mに付けられる新しいデジバックをリリースしたとはいえ、50年前以上前に設計された500C/Mボディのためにパーツを新しく作るとか、そんなまさか。 新品で買えるアキュートマットD https://t.co/RoEMphPw20 — あじ太 (@ag_plus7) 2021年5月24日 調べてみたところさすがに新しいデジバックのために作ったものではなく、元々2014年発売のデジバックであるCFV-50Cに付属していたスクリーンで、バラ売りもしていたもののようだ。 dc.watch.impress.co.jp 当時の状況を推察するに、元々503用に作ったアキュートマットDの余剰品を加工してフレームを追加したものだと思う。断言はできないけど。 というわけで、
先日某雑誌の取材を受ける機会があった。 残念ながらその雑誌は廃刊となってしまい、自分の喋ったことが世に出ることは無いのだけど、インタビュアーと話をしていたら「一体M型ライカの何がこんなに魅力的なのか?」と改めて考えるいいきっかけになったので、ここで簡単に自分の中のライカ感を思いつくまま挙げてみようと思う。 触ったら最後。魔性の質感。 手に取った時の丁度良いズッシリ感は、このシステムの堅牢さを予感させる。 ひんやりとした金属パーツと手触りの良い貼り革、適度に重く精度を感じるヘリコイド。 ファインダーを覗いてシャッターを切った時のカタン…という小気味の良い音と、かすかに指に残るシャッターの切れた感触。 X-pro1/XF35mm F1.4 ライカを使う人を100人集めたら、おそらく全員がライカの質感を魅力の一つに挙げるだろう。 世の中にはハッセルやニコン初め素晴らしいレンズやシステムは山ほどあ
【この記事は筆者の堪え性の無さにより内容を更新しております】 大型台風が続々やってきたり首里城が焼失してしまったり、とどめを刺すかのように降ってきたコロナウィルス騒ぎで社会がひっくり返ったりと、元号が令和に変わった2019年以降碌でもないことばかりが続いている。 社会全体がどうにもこうにもなムードである中、私の私生活(主に仕事)も妙な災厄にまみれており2020年のはじめの時点で「この調子でいくと9月頃には過労死するかもしれない」と本気で思っていた。 ありがたいことにまだ生きているけれども、7月末あたりは夜中に汗だくで起きたり脈が飛んだり呼吸がうまくできない等々のギリギリの線をヨタヨタ歩いていた。 冗談でもなんでもなく緊急連絡をしたためた紙を財布の中の一番目立つところ、保険証の後ろに入れていた。 Rolleicord IV/Xenar 75mm/Tmax100/Silversalt dev
仕事と私生活で5年以上酷使し続けてきたCote et Cielのリュックサックがヘタってきたので、思い切ってMilletのリュックサックを購入した。リュックサックを新調する時にいつもワクワクするのは、リュックサックという道具が旅の予兆をはらんでいるからだろう。 私が新しいリュックサックに求めたものは以下の9項目。そんな贅沢な要求でもないと思うんだけど書き出してみたら思いのほか多く、特に3と8と特に9を満たすものが中々無くて苦労した挙句MilletのKula 30に落ち着いたので簡単な感想を綴ってみる。 ちょっとやそっとでヘタらない程度に頑丈であること。 素材が安っぽくないこと。テカテカ素材とかありえない。 急なアジア旅に耐えられること。30L-45Lあれば大丈夫。 手荷物として機内に持ち込めること。 急な夕立があっても中身が守られること。 カメラが安全にしまえること。安心して持ち運べること
早いもので今年も残すところあと僅か。 フィルムが足りなくなると近所のお店で1本ずつ買っては装填する…といったサイクルでフィルム写真と向き合ってきたのだが、フィルムやら現像やらにかかる費用をざっくり集計してみたら、私のコスト感覚が随分とドンブリ勘定であることに気づいたのが2018年の暮れ。 このままじゃいかんと一念発起し2019年に使うフイルムをB&Hで大人買いし、1月からきちんと家計簿をつけてきた。2019年も終わりに差し掛かってきたので、そろそろフィルム家計簿を集計してみようと思う。 filmmer.hatenablog.com まずは結論から 今年使ったフィルムは65本。 例年通りカラーネガはほぼPortra400一択である一方モノクロは節操なく色々使っている。今年はACROSが終売するということもあって、一時期冷蔵庫の中はACROSが詰め込まれすぎており、気がつけばバターやら梅干しを
ストックしておいた最後のACROSを冷蔵庫の奥から取り出した。 真夏の太陽がぎらぎらと照りつける土曜日の朝、リビングのエアコンを夜通しかけっ放しにしていたにも関わらず部屋の気温は朝から高い。 冷蔵庫から取り出されたフィルムは、部屋の湿気を纏いうっすらと汗をかいているようにも感じられた。 この時勢、写真フィルムの運命なんてハナクソよりも軽いのかもしれない。名作モノクロフィルムと言われたACROSだって例外では無い。 物事の幕切れ、最期なんてあっけないものである。 これが最後のACROS。いままでありがとう。#fuji #acros pic.twitter.com/K2hAI731r7 — 𝙩𝙤𝙨𝙝𝙮𝙞𝙚.𝙠 (@toshyie) August 31, 2019 2週間近くかけて最後に残った2本のACROSを撮り終え、家に帰り昼間から酒を飲みつつ自家現像。 手元にあったSilv
改めてM型ライカの良さを知る。 旅カメラというジャンルがあるとすれば、ライカは正に旅カメラの王道じゃないだろうか。今回数週間の旅をM6と共にしてその良さを改めて実感した。 堅牢でありながら取り回しが軽快で、シャッター音もおとなしい。ポートレートだとかストリートを撮るのであればこれほど頼もしい機械はない。レンズも昨今の大口径レンズに比べて遥かに小さく描写も良好だし、人間の身体スケールにとても合っていると思う。 出てくる写真の質は各人のお好みの世界なので、ここではオカルトめいたごたくを並べるつもりはないが、この取り回しと描写は素晴らしいものがある。 サイズ感や重量感だけならば昨今のミラーレスとあまり変わらないが、情緒という評価軸を足してしまうと「ライカ」と「旅」は見事にしっくりとハマる。そんな気がする。 Xpro1/XF 35mm F1.4 ライカ以上のカメラは数多くあるけれど身体スケールにあ
忙しすぎてバグった頭はあまり改善してない。 思考力も判断力もどん底という日は順調に減ってきたけれど、相変わらず無限高速テトリス状態で仕事が降ってくる状態は続いていて、時折処理能力を超えた仕事とトラブルににっちもさっちも行かなくなる日が訪れる。そんな感じ。 気がつくとリズムのある音楽を聴かなくなり、最近は落語とホワイトノイズと波の音を愛聴している。末期かもしれない。iTunesでポチポチ音楽を探していたらホワイトノイズばかり集めたプレイリストがあったのには驚いた。 music.apple.com music.apple.com 欲しいものがあります ところで、ストレスが極限まで高まると人間は浪費に向かう…と思うんだけど、この理屈はあってるだろうか? Summaronがあるから35mmはもう要らねーやと思っていたのに、最近現行Summicronが光り輝いて見えたりBiogonが私を誘っているよ
初めて身銭を切って50mm単焦点レンズを使った日の事を覚えているだろうか。 私の場合はズームレンズがセットになったエントリー向けの一眼レフを買った数年後に、知り合いから投げ掛けられた「写真が上手くなるには単焦点が必要だよね」と云う言葉を素直に受け取って50mmのレンズを買いに走ったことが発端だった。 初めて買った交換レンズをマウントに取り付け、喜び勇んでいざファインダーを覗いた際に「うわ!狭いな!」と思い10歩近く後ろに下がったことを覚えている。あの頃は若かった。 90mm童貞を卒業した 先月のはじめに譲ってもらったElmarit 90mm F2.8で90mm童貞を卒業した。 気に入ったレンズを使い倒す性分であるため今まで50mmと35mmばかり使っていたけれど、実はずっと気になって仕方がなかった90mmという画角。実はTele Elmarit 90mmとElmarit 90mmの間で散々
いままでそんなに深く考えてこなかった構図や技法や被写体の話。 自分の写真をより魅力的な何かにしたいのであれば、やっぱり自身のことを良く知る必要があると感じたので、ちょっと怖いけれど自分の考えを文字に起こしてみようと思う。 photograpark.net 多くの方がblogやtwitterでこの話題に触れているので私もちょいと私見をまとめてみたい。 写真への向き合い方なんて普段あまり考える機会がなかったことなので、自分の頭を整理することはとても面白かった。なんせ今までろくすっぽ悩んだりせずに写真撮ってきたもんね。 もちろん私にも好きと嫌いはあって、嫌いな写真は数ある一方で「どんな写真が好きですか?」とか「どんな写真を撮っているんですか?」と問われるたびに説明に窮してきた。 いい機会だから、いま自分が考えていることと興味のある写真をまとめてみたい。 mypace.hatenablog.com
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『analogue life』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く