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大谷翔平
hj3s-kzu.hatenablog.com
ゴダール『さらば、愛の言葉よ』(2014)レジュメ(ラジオ関西「シネマキネマ」2015/3/11放送分) (以下に掲載するのは、ラジオ関西「シネマキネマ」で『さらば、愛の言葉よ』について語るために書かれたレジュメである。実際の放送では「『さらば』において具体的に犬はどのように描かれているか?」以降の部分が使われたが、せっかくなのでここに全文公開する。なお〔 〕内の言葉は実際のトークの際に付け加えたものである) ○「自然のなかに裸はない、動物はゆえに、裸であるがゆえに裸ではない」 作中で語られるこの言葉はジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある(L’animal que donc je suis(*「追う/である」がかけられている))』(1997/2004)からの引用をパラフレーズしたものである(邦訳20頁)。 この書物は冒頭で、バスルームで全裸になったデリダが飼っていた子猫の
今年もよろしくお願いします。 それでは早速2014年のベストテンを。新作、旧作ともにスクリーンで見たものに限定。 まずは新作映画ベスト。先達に敬意を表し、生年順。 『家族の灯り』(マノエル・ド・オリヴェイラ) 『ジャージー・ボーイズ』(クリント・イーストウッド) 『さらば、愛の言葉よ』(ジャン=リュック・ゴダール) 『大学―At Berkeley』(フレデリック・ワイズマン) 『神様はつらい〔神々のたそがれ〕』(アレクセイ・ゲルマン) 『シーズ・ファニー・ザット・ウェイ〔マイ・ファニー・レディ〕』(ピーター・ボグダノヴィッチ) 『6才のボクが、大人になるまで。』(リチャード・リンクレイター) 『自由が丘で』(ホン・サンス) 『ゴーン・ガール』(デヴィッド・フィンチャー) 『グランド・ブダペスト・ホテル』(ウェス・アンダーソン) ついでにベスト短編。 『ある朝の思い出』(ホセ・ルイス・ゲリン
オーディトリウム渋谷がとうとう閉館した。私個人は熱心な観客ではなかったので、見たいものがかかればごくたまに行く程度で、仕事上の関わりとしては大津幸四郎氏の特集上映とケンシロウこと木村卓司氏の作品上映の際にトークをしたくらいか(ただし後者は監督本人に個人的に頼まれたのでノーギャラ)。歳とともに渋谷から足が遠のき(これは自転車を乗るようになったことも大きい。私の住んでいる板橋からだと帰りに目白の坂を登るのがかなりキツいのだ)、この劇場はおろかヴェーラにもユーロにも今ではほとんど行かなくなってしまった。また私のようなビンボー人にとっては会員割引制度がなかったのもなかなか足が向かなかった理由の一つだった(最後の方でようやく導入されたけど)。とはいえここ数年における現代日本のインディペンデント映画の隆盛を陰で支えてきたのはやはりこの劇場だったと思う(特に首都圏において)。この事実を後世の映画史家は決
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 それでは早速2013年のベストテンを。新作、旧作ともにスクリーンで見たものに限定。 まずは新作映画ベスト。先達に敬意を表し、生年順。 『パッション』(ブライアン・デ・パルマ) 『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』(ジム・ジャームッシュ) 『グランド・マスター』(ウォン・カーウァイ) 『3人のアンヌ』(ホン・サンス) 『ホーリー・モーターズ』(レオス・カラックス) 『ジャンゴ 繋がれざる者』(クエンティン・タランティーノ) 『共喰い』(青山真治) 『ウルヴァリン: SAMURAI』(ジェームズ・マンゴールド) 『ムーンライズ・キングダム』(ウェス・アンダーソン) 『熱波』(ミゲル・ゴメス) 次に旧作映画ベスト。製作年度順。 『毒流』(ロイス・ウェバー、1916) 『二人のブルディ』(レフ・クレショフ、1929) 『不思議なヴ
担当講師まで巻き込んでヒートアップした「サイコ2割問題」ですが、ひょっとしてアメリカでも似たような状況なのでは、と思い、私の畏友で現在ユタ州立大で映画を教えているK女史(元シカゴ大)にメールしてみたところ、こちらの予想を超えたものすごい回答が返ってきたのだった。あんまり面白いので、要約してみます。Kさんサンクス。 まずアメリカでは『サイコ』はポップカルチャーの一部なので、さすがに名前だけは知られているが、実際見たことのある人は2割を切る(!)と思われる。つまりアメリカでは「見たことあるか」というよりは「きいたことあるか」っていうレベル。アメリカの大学では生徒が映画について何か知ってることを期待してはならない(たとえNYCの映画学科*1であろうと)。しかも授業で教えてなくて、教科書にも載ってないことをテストとかの形で尋ねたら、次から授業をボイコットされても不思議ではない(!)。なぜならアメリ
a)『囚人を見ているのかと思った』(ハルーン・ファロッキ) b)『遠くの戦争』(ハルーン・ファロッキ) これらについては、来週のファロッキ特集の時に一緒に書くつもり。会場で偶然、来週の特集でトークショーをなさる赤坂大輔氏と渋谷哲也氏のお二方に会ったのでお茶をする。なおハルーン・ファロッキについて日本語で読める資料としては「現代思想 2003年6月臨時増刊号 総特集 ハリウッド映画」所収のファロッキ自身による「管理する視線」というテクストと訳者による解題があるので参照のこと。 イメージフォーラム・フェスティバル2004 http://www.imageforum.co.jp/festival/index.html New Century, New Cinema vol.2@アテネ・フランセ文化センター http://www.athenee.net/culturalcenter/schedul
「テルポ」の藤原さんに誘われてポケットフィルムフェスティバルに行く。今年は規模が縮小されてしまったらしく、日本勢の新作はなく、去年の再上映とのこと。といっても寝坊してしまったので、シンポ第一部からの参加。日本勢のプログラムを見た藤原さんによれば中原昌也さんの『適当な映画』だけ「映画」していたとのこと。見たかった、残念。で、シンポ第一部が終わり、休憩時間にロビーに置かれていたモニターに何気なく目を遣ると、先ほど藤原さんが語ってくれた中原さんの短編のまさにファーストショットが映っているではないの!ひとり興奮し、モニターの前に立って、まるまる全部見てしまった。あんなにモニターを集中して見つめる人間もそういなかったので、周りの人たちには怪訝な目で見られたかも。 で、この映画の素晴らしさを語るつもりで全ショット記憶したのだが、もしやと思って公式サイトをチェックしてみたら、何とネットで全編見られるのだ
〔蓮實重彦氏の「ジョン・フォード論」でも引用されていた、ストローブ=ユイレがジョン・フォードについて語った「カイエ・デュ・シネマ」誌の別冊「ジョン・フォード」(1990)のインタビューの全訳を以下に掲載します。インタビュアーはシャルル・テッソン。(訳:葛生賢)〕 ―私は『歴史の授業』の上映後の討論を覚えています。そこではあの作品とホークスの『三つ数えろ』とが対比されていました。つまり、絡まった糸をほどき、人々に会い、彼らに質問する調査員の人物像です。つまるところ、あなた方の映画においては、フォードよりもホークスの方がより明白ではっきりしているということです。そうではありませんか。 ジャン=マリー・ストローブ(JMS) 『歴史の授業』は反ホークス的な映画です。上がったり下がったりするクレーンの運動は分断されていて、ホークスとは何の関係もありません。もし私たちがホークス的な映画を作ったとしたら
本日のお題は「日本の幽霊—魑魅魍魎から遠く離れて—」。つまり前回(id:hj3s-kzu:20070331)の続きである。まず蓮實重彦氏による序言を以下に引用する。 Jホラーと呼ばれる一連の作品—その一部は、監督自身によってハリウッドでのリメイクが行われている—はいかなる点で新しいのか、あるいは新しくないのか。一部に、CGによる魑魅魍魎の跋扈する作品がないでもないが、優れた作品の多くは、存在の可視、不可視のはざまに漂う「気配」の表象をつきつめているという監督たちの姿勢において、「日本の幽霊」の伝統の流れ—溝口の『雨月物語』、あるいは一連の『四谷怪談』における「手」—の中に位置づけられる。「化猫」モノ、「狸御殿」モノなどの特質—いずれも人間がそれを演じている—を再見したうえで、最近のホラーの特質を、その伝統との関係において見きわめてみたい。 以下は私なりの要約である。 まず江戸川乱歩原作の『
本日のお題は「日本の幽霊―「見えるもの」と「見えないもの」―」。まず蓮實重彦氏による序言を以下に引用する。 存在―見えるもの―を被写体として、それを二次元空間に、動きとともに再現する技術として人類の資産となった映画は、その誕生いらい、非在―見えないもの、ありえないもの―をどう表象するかにも憑かれていたといってよい。無声映画時代から、さまざまなトリック撮影(フィルムの逆回転、etc.)が、想像、幻想、変容などを描くにふさわしい技法として、たんなる現実の再現とは異なる映画の魔術的な機能を繊細化してきたのである。だが、幽霊(や怪物)は、その魔術的な機能の変遷としてのみ考察さるべき主題ではない。1980年以降、CGをはじめとするテクノロジーの進歩は、見えるものと見えないものの表象をめぐって、映画に本質的な変化をもたらしたのか、もたらさなかったのか。『キャット・ピープル』の二つのヴァージョンを例とし
本日のお題は「映画において、男女はいかにして横たわるか―「やくざ映画」から「にっかつロマンポルノ」へ―」。まず蓮實重彦氏による前書きを以下に引用する。 制度的な意味で、また造形的にいっても、映画における男女は、同時に横たわることを執拗に避けてきた。その制約がいかにして緩んできたかを、「やくざ映画」(そこでは、横たわることは死を意味する)から「にっかつロマンポルノ」(そこで、衣服を脱ぎ捨てた男女が横たわることだけが求められていたかは、大いに疑わしい)への流れの中で探ってみたい。その前提として、グリフィス以来、横たわる女(あるいは男)にキャメラがどのようなアングルにおさまっていたかをまずたしかめておく。またわが国の映画史でいうなら、「やくざ映画」も「にっかつロマンポルノ」も、撮影所システムの崩壊時にあらわれたことは特筆すべきである。とりわけ、日活の破産につづく「にっかつロマンポルノ」の「成功」
a)『宇宙戦争』(スティーヴン・スピルバーグ)★★★ b)『負ケラレマセン勝ツマデハ』(豊田四郎)★★★ a)『未知との遭遇』の導入部が空に向けられたフランソワ・トリュフォーの仰角ぎみの視線で締めくくられていたのとは、正反対に『宇宙戦争』においては、ファーストショットの(そしてラストショットに反復される)ウィルスのCG(そしてそのショットはこの作品を縁取るようにモーガン・フリーマンのナレーションが被さる)を別とすれば、地表へと向けられた「何者か」の垂直的な真俯瞰の視線の視線で始まる。続くシーンで港湾労働者たるトム・クルーズは「何者か」の身振りに感染したかのように、視線を下に向けながら、クレーンを操作し、船の積み荷を上げ下ろししている。こうして『宇宙戦争』は、『未知との遭遇』がまさに「見上げる」映画であったのと同じように、「見下ろす」映画であることを強く見るものに印象づける。いわば『宇宙戦争
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 早速2023年のベストテンを。今回もあえて時流に逆らい、全て映画館で見たものに限定で。 その前に特別賞を。 オタール・イオセリアーニの全作品。 理由はここに記すまでもないだろう。 まずは新作映画ベスト。先達に敬意を表し、生年順。なおベスト候補が20本近くもあったので、今回は特例として、映画祭でしか上映されていないものは除外した。 「遺灰は語る」(パオロ・タヴィアーニ) 「フェイブルマンズ」(スティーブン・スピルバーグ) 「枯れ葉」(アキ・カウリスマキ) 「小説家の映画」(ホン・サンス) 「ザ・キラー」(デビッド・フィンチャー) 「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」(ジェームズ・マンゴールド) 「ショーイング・アップ」(ケリー・ライカート) 「アルマゲドン・タイム ある日々の肖像」(ジェームズ・グレイ) 「アステロイド・シティ
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