サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
画力アップ
ikusa-zukan.com
「一言坂の戦い」は、「西上作戦」で三河国へ攻め込んだ武田信玄と、それを迎え撃つ徳川家康の間で起こった戦。 家康の予期しないタイミングで開戦したため、家康は撤退を即決。 本多忠勝の奮戦で撤退に成功するも、信玄に二俣城を取られる結果となりました。 一言坂の戦いまで 西上作戦 武田信玄は「駿河侵攻」で同盟相手の今川家を裏切ったことにより、最終的に北条家と徳川家の2家を敵に回します。 ikusa-zukan.com その後、当主の北条氏康が病死すると武田家と北条家は再び同盟を締結(甲相同盟)。 武田信玄 背後からの危険が無くなったことだし、徳川家を攻めるか 徳川家の討伐を始めることになりました。 重要拠点、二俣城の危機 この「西上作戦」と呼ばれる作戦を始動させた信玄は、総勢30000の軍を 山県昌景隊…三河国へ侵攻 秋山虎繁隊…山県隊と共に三河国へ侵攻(その後美濃で上村合戦を起こす) 武田信玄本隊
「木崎原の戦い」は日向国統一を目指した伊東義祐が、当主を失ったばかりの島津家に挑んだ戦い。 この戦いでは伊東軍3000vs島津軍300という、島津軍の圧倒的不利な戦況でしたが、大将の島津義弘の活躍で島津軍が勝利。 両軍の戦死者が1000人を超える激戦となりました。 木崎原の戦いまで 当主、島津貴久の死 時は1571年、島津家当主の島津貴久が病死します。 父の肝付兼続が貴久との戦いで死に、島津家へのリベンジに燃える肝付兼亮は 肝付兼亮 当主が死んだ今が、島津家を倒すチャンスだ と島津家の代替わりを狙い、島津家の薩摩国へと侵攻を始めました。 そして同じく、日向国の大部分を支配していた伊東義祐も 伊東義祐 肝付家側について島津家を倒そう 日向国における島津家の勢力を排除するため、島津家への戦いを表明します。 木崎原の戦い 加久藤城での奮戦 義祐はまず、人吉城を拠点とする相良義陽に 伊東義祐 伊東
「志賀の陣」は、摂津国へ攻めに行った織田信長の隙をつき、浅井長政と朝倉義景が京を狙い挙兵した戦い。 この戦いではその後、反織田勢力が次々と便乗して挙兵。 信長は多くの敵に囲まれピンチを迎えますが、最終的には講和に終わります。 志賀の陣まで 金ヶ崎の戦い 時は1568年、織田信長は足利義昭を担いで上洛戦を開始、義昭を将軍の座につけます。 その功績により室町幕府では、信長が大きな影響力を持つように。 そして信長は 織田信長 上洛せよ ……(信長の命令には従いたくない) 朝倉義景 と朝倉義景が命令に従わないことを大義名分に、朝倉家攻めを始めます。 そして信長と義景の間で「金ヶ崎の退き口」(金ヶ崎の戦い)と呼ばれた戦いが起こると、織田軍は序盤は優勢に戦いを進めます。 しかし、信長の同盟相手で信長の妹であるお市の方を娶っていた浅井長政が 浅井長政 古くからの盟友である朝倉家に敵対はできない と信長を
「金ヶ崎の退き口」(金ヶ崎の戦い)は、朝倉家を攻めていた織田信長に浅井長政が裏切り、攻めてきたことで起こった戦。 この戦いで周囲を敵に囲まれた信長は、絶体絶命の大ピンチに陥ります。 しかし織田家臣の活躍により、信長はこの危機を脱することになりました。 金ヶ崎の退き口まで 命令を無視する朝倉義景 時は1568年、足利義昭を担いで上洛に成功した織田信長は、将軍の命令として 織田信長 上洛せよ と越前国を治める朝倉義景に要求します。 この要求をした理由には 織田信長 本拠地の美濃国から京へ行く道中にある越前国は服従させなければ という信長の思惑があったとされています。 これに対し、歴史ある名家としてのプライドがあった義景は 朝倉義景 新興勢力の織田家には従いたくない と2度の信長による命令を拒否。 これにより信長は 織田信長 これで、将軍の命令に従わない朝倉家、を倒す口実ができた と同盟相手の徳
「石山合戦」は、勢力を著しく拡大していた織田信長に対し、本願寺顕如が起こした一揆。 この一揆により「信長包囲網」はさらに強固なものとなり、信長は11年間もこの一揆に苦しめられることとなりました。 石山合戦まで 信長と義昭の決別 石山合戦 緒戦は織田軍勝利 長島一向一揆の発生 1度目の和議 熾烈を極める情報戦 越前一向一揆の発生 2つの一揆の鎮圧 2度目の和議 天王寺の戦い 第一次木津川口の戦い 紀州征伐 第二次木津川口の戦い 荒木村重の反乱と終戦 その後 石山合戦まで 信長と義昭の決別 時は1568年、織田信長は上洛戦を開始、足利義昭を将軍にすることに成功します。 しかし、その翌年 織田信長 天下統一したい と考える信長と 足利義昭 他の有力大名と共に幕府再興をしたい と考える義昭の間で食い違いが発生すると、信長は「殿中御掟」という掟を義昭に提出。 義昭は 足利義昭 信長が私の行動を制限さ
「長島一向一揆」は、当時勢力を拡大してきていた織田信長に対して、長島(伊勢国)の本願寺教徒が起こした一揆。 最大で100000人以上も参加したこの一揆は、3度にも渡る信長との戦いにより鎮圧。 信長は一族や家臣を多く犠牲にして、本願寺勢力を大きく衰退させました。 長島一向一揆まで 信長の伊勢平定戦 石山合戦の影響で勃発 第一次長島一向一揆 信長の伊勢出陣 撤退する織田軍を叩く 第二次長島一向一揆 撤退路の増設に失敗 北伊勢の小豪族が続々と降伏 再び帰国を狙って奇襲 一揆衆に内応した会合衆を処罰 第三次長島一向一揆 100000超の大軍で出陣 各所で一揆衆を撃破 捨て身の攻撃で織田一族が討死 その後 長島一向一揆まで 信長の伊勢平定戦 時は1566年、尾張国を統一していた織田信長は、美濃国の斎藤龍興を稲葉山城で撃破(稲葉山城の戦い)。美濃国を占領します。 ikusa-zukan.com その後
「三増峠の戦い」は、同盟相手の今川家を裏切った武田信玄と、今川家の同盟相手の北条家北条氏照との間で行われた戦。 緒戦では北条軍が勝利しますが、武田家家臣の山県昌景の奇襲により形勢逆転。 信玄は左翼軍大将の浅利信種を失いますが、結果は武田軍の勝利に終わりました。 三増峠の戦いまで 駿河侵攻で武田vs北条に 小田原に北条軍を誘い込む 三増峠の戦い 氏照の奇襲 昌景の奇襲で逆転 その後 三増峠の戦いまで 駿河侵攻で武田vs北条に 時は1568年、武田信玄は以前から隣国の今川義元と北条氏康とで組んでいた「甲相駿三国同盟」を破り、今川家へ攻め込みます(駿河侵攻)。 ikusa-zukan.com そして信玄の裏切りに怒ったのが、もう1人の同盟相手である氏康。 信玄の同盟破棄を知った氏康は、信玄のライバル上杉謙信と同盟(越相同盟)を組み、武田家と敵になる道を選びました。 小田原に北条軍を誘い込む 越相
「多々良浜の戦い」は、九州地方の大部分を支配していた全盛期の大友宗麟と、中国地方の覇者となっていた毛利元就が、北九州を巡って争った戦。 毛利軍はこの戦い以前に九州への上陸を成功させるも、多々良浜の戦いでは敗北。 大友軍に押し戻される形となり、元就は九州への侵攻を諦めることになりました。 多々良浜の戦いまで 門司城の戦いで5度戦う 時は1562年、北九州の大部分を支配する大友宗麟は、 毛利元就 中国地方を支配した次は九州地方へ上陸しよう と考えた「中国の覇者」毛利元就の侵攻に苦しんでいました。 この大友vs毛利の九州を巡る一連の戦いは「門司城の戦い」と呼ばれ、計5回行われていたものでした。 そして5度の戦いを終えたこの時、将軍の足利義輝の仲介により 足利義輝 毛利軍は門司城以外の九州の拠点は全て捨て、大友家に譲るように と和睦。毛利家の九州における拠点は門司城のみとなっていました。 秋月種実
「大河内城の戦い」は、尾張国・美濃国を治める織田信長が、伊勢国の大部分を支配下とする北畠具教に挑んだ戦。 この戦いでは勝敗は決まらなかったものの、信長に有利な条件で和睦が決まります。 そしてこの戦いにより、後に北畠家は事実上滅亡。 信長は伊勢国をも手中に収めることに成功しました。 大河内城の戦いまで 北伊勢を支配下に収める 木造具政の裏切り 大河内城の戦い 大軍勢で大河内城に向かう 居城・霧島城を焼き討ち 信長有利で和睦 その後 大河内城の戦いまで 北伊勢を支配下に収める 時は1567年、尾張国に加えて美濃国をも支配下にしていた信長は 織田信長 南にある伊勢国も占領しよう と伊勢国への侵攻を考えます。 当時、伊勢国は 北伊勢=神戸具盛(神戸家)、長野具藤(長野工藤家)など 南伊勢=北畠具教(北畠家) という支配体制で、信長は始めに北伊勢へ侵攻します。 具盛は信長の侵攻に対し、重臣との協力に
「本圀寺の変」は、将軍争いを勝ち抜き新たに将軍となった足利義昭が、敵対する三好三人衆に襲撃される事件。 この戦いが起きた時、義昭の支えとなる織田信長はおらず、義昭は「永禄の変」と同じピンチとなりますが、幕府軍の奮戦により撃退。 三好三人衆の勢力を衰えさせる結果となりました。 本圀寺の変まで 義昭vs義栄~織田信長vs三好三人衆 時は1566年、当時将軍だった足利義輝は 足利義輝 将軍である私が自ら政治を行う という方針だったため 三好三人衆 将軍は私たちの言うことを聞いていればいい と、将軍の権力を手中に収めたい三好三人衆と対立します。 そして義輝が邪魔になった三人衆は、ついに「永禄の変」で義輝を暗殺します。 ikusa-zukan.com そして次期将軍には、自分たちの言うことを聞く足利義栄を擁立。 将軍の力を手中に収めることに成功します。 しかし義輝の弟である足利義昭は、義栄の将軍就任
駿河侵攻まで 過去にも対立を繰り返す 駿河侵攻の約100年前、今川家家中では大きな混乱がありました。 しかし後継者の今川氏親は北条早雲の力を借り、この混乱を鎮め当主となります。 この一件から、今川家と北条家は仲良くなっていき、この時の今川家は北条家と同盟関係にありました。 その一方、武田家とはバチバチの敵対状態。 後に一度同盟が結ばれたものの、氏親から氏輝が当主となると、両者は再び争いを始めるなど犬猿の仲でありました。 武田家との同盟と北条家との争い しかし、情勢の変化が起こります。 再び今川家で後継者をめぐって内部争いが起こったのです。 「花倉の乱」の勃発でした。 ikusa-zukan.com この乱では北条家の支援した今川義元が、兄の玄広恵探を破り当主となります。 新たに当主となった義元は、先代の氏輝の方針から一転
MENU
「稲葉山城の戦い」は当時尾張国のみを支配下に置いていた織田信長と、かつての同盟相手だった斎藤家の当主、斎藤龍興との間に起こった戦。 この戦いにより、信長は龍興から美濃国を奪うことに成功。 全国への勢力拡大を加速させる結果となりました。 稲葉山城の戦いまで 同盟関係だった織田家と斎藤家 斎藤家の内乱で同盟決裂 新加納の戦い 家臣に本拠地を乗っ取られる 河野島の戦い 稲葉山城の戦い 西美濃三人衆を寝返らせる 落ち延びる龍興 その後 稲葉山城の戦いまで 同盟関係だった織田家と斎藤家 今回「稲葉山城の戦い」で対戦することになる織田家と斎藤家ですが、両家は20年ほど前から同盟関係にありました。 「加納口の戦い」などで戦いを繰り広げ、犬猿の仲だった両者でしたが、信長の父の織田信秀と龍興の祖父の斎藤道三が
臼井城の戦いまで 関東地方の覇権争い 越後国を治める戦国大名の上杉謙信は、関東への勢力拡大を狙っていました。 そこで行われた戦いが「小田原城の戦い」。 ikusa-zukan.com この戦いで謙信は、関東地方のトップである北条家を本拠地まで追い詰めました。 しかし謙信のライバル、武田家を味方につけた北条家が巻き返します。 その結果、足並みの乱れた上杉軍は撤退することを決め、謙信の関東侵略の夢は挫折に終わったのでした。 しかし、謙信は諦めません。 上杉方の拠点である松田城が、北条・武田連合軍に落とされたことを知った謙信は
永禄の変まで 三好家の台頭 三好家はもともと細川家の分家の家臣、という立場で室町時代にはあまり力を持っていませんでした。 ですが、「永正の錯乱」と呼ばれる細川家の後継者争いに、三好家の主君の細川澄元が参加します。 ikusa-zukan.com それによって、三好家も細川家の内部争いに参加し、三好家は力をつけていきました。 また結果として、澄元の家系が細川家の本家を継ぐことになったので、三好家は「分家の重臣」から「本家の家臣」へと変貌を遂げたのです。 三好家vs細川家 ですが、「永正の錯乱」に勝利したあと、三好家に悲劇が起きます。 澄元の息子である細川晴元と、三好家当主の三好元長が対立してしまうのです。 仕える将軍を変えた晴元は、元長と意見が対立。 すると元長は、晴元の家臣を攻撃し始めたので
と、今川家からの独立に成功します。 また、今川家の敵である尾張の織田家とも同盟を組み(清洲同盟)、積極的な勢力拡大を目指すようになりました。 因みに家康はこの時、苗字を松平から徳川に変えています。 諸説ある一揆の原因 そんな矢先、家康に試練が訪れます。 西三河の本願寺門徒が、徳川家臣を巻き込んで一揆を起こしたのです。 これが後にいう「三河一向一揆」。 この一揆が起きた理由には 家臣の酒井正親が本證寺に入った者を勝手に捕まえた 家臣の菅沼定顕に上宮寺の兵糧を盗ませた といった様々な説があります。 因みに当時 本證寺 上宮寺 勝鬘寺 の3つの寺は「三河三ヵ寺」と呼ばれ、三河国の本願寺の拠点となっていました。 そしてこの寺には守護使不入という、簡単に言えば「守護(この場合は家康)が勝手に寺に入ってはいけない」という権利が与えられていました。 そのため、家康が守護使不入を破ったから一揆が起きた、と
教興寺の戦いまで 家臣の反乱に手こずる畠山高政 室町幕府が開かれてからの名門、畠山家はこの時窮地に立たされていました。 三好長慶の台頭 三好家はもともと細川家という一族の一家臣で、当初そこまで影響力を持ってはいませんでした。 細川家というのは将軍に次ぐ名家で、全盛期には「明応の政変」で将軍を変えるほどの力を持っていました。 ikusa-zukan.com しかし「永正の錯乱」という内乱が起こると、細川家は20年もの間一族で争い混乱します。 ikusa-zukan.com その間に着々と力をつけていった三好家は、次第に細川家を凌ぐ力をつけていくことに成功。 長慶の代になると力の関係は逆転、主君の細川晴元は「長慶の操り人形」と化していました。 家臣の反乱に手こずる畠山高政 一方の畠山家はというと、この時窮地に立たされていました。 なぜなら、新興勢力である三好家が畠山家に対して圧力をかけてきたか
稲生の戦いまで 尾張国の支配体制 まず初めに、今回の舞台となる尾張国の支配体制から見ていきましょう。 尾張国は元々、斯波家の一族が支配をしていました。 しかし、「応仁の乱」を経てだんだん斯波家の力が弱くなってしまいます。 なのでこの時は実質、伊勢守家(岩倉織田家)と大和守家(清洲織田家)という2つの織田家が 伊勢守家(丹羽郡、葉栗郡、中島郡、春日井郡) 大和守家(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡) というように分割して支配を行っていました。 そして、その中からメキメキと頭角を現して来たのが、大和守家の家臣の織田家である織田弾正忠家。 その当主こそが、織田信長と織田信勝の父、織田信秀だったのです。 織田信秀/出典Wikipedia 織田信秀の活躍 織田信秀は、大和守家の家臣という立場でありながら、独自に 斎藤家 今川家 松平家 といった近所の勢力と戦いを繰り広げました(例:小豆坂の戦い)。 i
赤塚で衝突 この出陣を知った教吉は鳴海城を出て、赤塚という場所で迎え撃つことを決めます。 そして、三の山に登った信長が教吉を見つけると直ちに突撃、赤塚の戦いが始まりました。 近距離戦となるも… この戦いは、一言で表すなら「近距離戦」。 両軍入り乱れての戦いが2時間ほど(午前10時~12時)続きました。 こう言うと、「両軍ともたくさん犠牲が出た激戦」とイメージするかもしれないですが、実際はそうでもありません。 山口家は元々織田家の家臣だったので、兵士たちにとっては敵軍に知り合いがいる状態。 戦いは引き分けに終わり、捕らえた馬や兵は互いに交換して帰ったそうです。 その後 この後山口家は、織田家の城である大高城、沓掛城を策略によって奪います。 しかしその後は、なぜか主君の今川義元に呼び出され親子共々切腹する羽目に。 一方の織田家は、信長の弟である織田信勝が謀反をおこし、「稲生の戦い」に続いていく
大寧寺の変まで 大敗北でやる気ゼロ 大内義隆率いる大内家は、この時最盛期を迎えていました。 その勢力範囲というのは 周防国 長門国 安芸国 石見国 豊前国 筑前国 という大規模なもの。 しかし「第一次月山富田城の戦い」でライバルの尼子家に大敗北。 重臣や後継者の大内晴持を失ってしまいます。 ikusa-zukan.com 可愛がっていた甥を失くした義隆はこれ以降やる気を無くし、政治をしなくなっていきました。 重臣同士の内部争い しかも義隆はこの時、相良武任などの文官のみを大事にしたので、武官の陶晴賢(この時は隆房)から
「小豆坂の戦い」は、尾張の小大名だった織田信秀が東海地方の大勢力、今川義元に挑んだ戦い。 この戦いは2度、行われており 第一次小豆坂の戦い=織田家の勝利 第二次小豆坂の戦い=今川家・松平家(今川家傘下)の勝利 という結果に終わりました。 また、この小豆坂の戦いでは 「第一次小豆坂の戦いは存在していない」 「松平家は第二次小豆坂の戦いで織田家に味方していた」 という説があるほど、謎が多い戦いでもあります。
と、多くが毛利側に寝返ってしまいました。 毛利元就の出陣 そんな中、ついに元就が尼子家を滅ぼすべく出陣します。 その人員は 毛利元就 毛利隆元(元就の長男) 吉川元春(元就の次男) 小早川隆景(元就の三男) を中心とした30000の大軍勢。 ですがこの内の隆元は、九州を警戒するため帰還しています。 元就率いる毛利軍は、次々と尼子側の城を落としていきましたが、白鹿城はしぶとく抵抗を続けていました。 白鹿城は月山富田城を落とす上でで必要不可欠な城。 落城させずに、見て見ぬふりをするわけにはいきませんでした。 白鹿城の戦い 落とさなければいけない理由は、この白鹿城と月山富田城で連絡が取れるから。 要は、月山富田城を包囲したとしても白鹿城から兵糧を運び込める、だから白鹿城を占領しなくてはいけない、ということです。 もちろん、白鹿城の重要さを尼子側も分かっています。 そのため、白鹿城にはあらかじめ尼
「第一次月山富田城の戦い」は中国地方の大名トップ2、尼子家と大内家による頂上決戦。 1年4ヶ月も続いたこの大戦は尼子家が制することになり、敗者の大内家は衰えていきます。 また大内家の部下、毛利家が大内家に代わって勢力を伸ばすことにもなりました。 第一次月山富田城の戦いまで 吉田郡山城の戦いで尼子家衰退 尼子経久の死 大内義隆の出陣 第一次月山富田城の戦い 赤穴城の攻略に手間取る ようやく月山富田城を攻撃するも… 大内軍の撤退 その後 第一次月山富田城の戦いまで 吉田郡山城の戦いで尼子家衰退 この戦いの少し前、中国地方では尼子晴久率いる尼子家と、大内義隆率いる大内家が覇権を争っていました。 そのため、晴久は
今回は「天文法華の乱」について解説していきます。 この戦いは、当時勢いのあった宗教である日蓮宗が起こした、宗教戦争のこと。 この天文法華の乱によって、京都は大部分が焼け、日蓮宗は6年もの間禁じられることになりました。 天文法華の乱まで 勢いの増す日蓮宗、潰しにかかる本願寺 日蓮宗が延暦寺を論破 裁判するも失敗する延暦寺 日蓮宗に対して強硬手段に 天文法華の乱 六角家の力を借り攻め込む延暦寺 延暦寺の逆転勝利 大きな被害 その後 まとめ 天文法華の乱まで 天文法華の乱が始まったきっかけは、日蓮宗の勢力拡大にありました。 勢いの増す日蓮宗、潰しにかかる本願寺 当時、京都では日蓮宗が広く信仰され、勢力を拡大させていました。 日蓮/出典Wikipedia 日蓮宗が広く信仰されると困るのは、他の宗教。 日蓮宗ばかり信仰されたら、他の宗教は信じられなくなってしまいます。 なので、迷惑がっていた宗教の1
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『ikusa-zukan.com』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く