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アメリカ大統領選
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つい先日、赤身マグ朗と共に僕は話したのですが、日本で正当な評価を受けられなかった2大バンドは、ブルーハーツとたまだったと僕は語りました。ブルハはもっともっと上の伝説にならなければいけなかったけれど、日本には既にそういう存在が求められていなかった。カリスマが必要ではなかった。むしろ享楽的に人々が求めていたのは、見た目が奇異な一発屋だった。 当時のインタビューなどを交えた本に、こんな記載があるようです。 たまの悲劇。 日本歌謡史に、そう呼ぶしかない現象が起きたのは、昭和が平成に変わった年のことである。 それは、芸術家として音楽をやろうとした四人の青年が、世間によって見世物にされるという珍事だった。 また、こんな話もあります。 当時『週刊明星』のインタヴューにおいて、ヴォーカルの知久寿焼は、 「百人のうち三人がボクたちの音楽が本当に好きで、あとの九十七人が“そんなに言うならちょっと聴いてみよう”
メシ食いながらなんとなくテレビ見てたら、NHKで「ニラレバとレバニラ、国民の総意としてどちらを支持するか!」とか多数決とってて吹いた。 そのくだらなさに惹かれてしばらく見てたら、「よろしかったでしょうか?」を日本語として認めるかどうかと言う話になった。 僕は以前から、この「よろしかったでしょうか?」にあまり違和感を感じていない派の人間でした。 うーん、なんというかうまく言えないんだけど、別にそれでもいいんじゃねーのってのが第一で。例え間違いだったとしても、顔真っ赤にして否定するほどのことじゃないだろうし。まずここで世間との温度差。 あとはこう、文法としては正しくないのかもしれないけど、この言い方の方が接客用語としては間違っていない気がするというか。 「なんとなく」とか「気がする」とか、文章書く仕事している割には、文法がどうこうとかのきちんとした理由立てで擁護できないのが、情けない感じですね
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