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外交のそもそもの目的は「不確実性」を減少させることにあると思う。究極的には平和の構築に目的があると言えるが、平和主義が却ってエントロピーを増大せしめる場合があるのは、ネヴィル・チェンバレンの路線が失敗した史実を例にしても言えると思う。 ヒトラーはチャーチルを戦争屋、好戦家と呼んで非難したが、両者の戦争路線に違いがあった点を上げれば、ヒトラーの軍国主義はエントロピーを増大せしめたのに対して、チャーチルの戦時体制はエントロピーを減少せしめた点である。 基本的には外交政策の是非は、エントロピーの増減の視点で推し量られるべきだと思う。 この視点で見れば侵略戦争は基本的には侵略された側が悪い、という前提で捉えなおされるべきだと思う。 侵略されたと言う事実は、侵略が可能な状態で力の空白があったということであり、エントロピーを増大せしめていたからである。 ある小国が自衛可能な十分な武力を持つ、または徹底
http://h.hatena.ne.jp/deztecjp/228182215462618911 こちらの記事で言及されたので返答と言う形で、私見を述べます。 まず、 ・疑念を持つこと ・その疑念に根拠があるかと言うこと ・それをしかるべき機関に裁定を委ねるということ ・しかるべき機関に圧力をかけるということ ・疑念を公言すること それらはすべて別個の話です。 今回の直接の契機である某弁護士(すでに記事は削除されているので匿名としておきます)の記事は、「当時の渡辺竜王が疑念を抱くだけの相当な根拠があった」ことを論じていますが、動機が本当にそうなのかは第三者には分からないことです。結果的に外形的に言えるのは、相当な根拠があったということを示す必要上、三浦九段が不正を行ったという論拠を提示しなければならないということです。その論拠の評価自体は人それぞれですので、それ自体が三浦九段の名誉を棄損
まず大前提とするべきなのは、今年が共和党にとっては奪還年にあたるということだ。第2次大戦後、民主・共和両党は基本的には規則正しく8年交代で政権を担当してきた。この流れが乱れたのはいずれもレーガン絡みで、1980年、民主党の再選年であるにもかかわらずカーターを破って共和党が政権を得たのと、1988年、民主党の奪還年であるにもかかわらず、激しく高まったレーガン人気の影響を受けて、レーガン政権下の副大統領であったブッシュ・シニアが当選した、この2回しかない。 今日、レーガンは国父扱いされているのだが、カーター政権の異常なまでの無能さとレーガンのカリスマがあってこそ、レーガンはルーチンを乱してホワイトハウスを獲得したのであり、普通の政権と普通の対立候補ならば、奪還年には奪還すべき政党が勝つ、それはよほどのことがなければ覆らない。 つまり、今年は共和党が普通の候補を出してくれば、ヒラリー・クリントン
何をどう書いても「弱い者たちが夕暮れ、更に弱い者を叩く」になりそうで、なかなか言葉にしにくい事件だった。 僕はあの事件の加害者、彼らの中にも被害者である部分があるのを感じている。だからと言って罪に問うべきではないとか、社会のせいだと言いたいのではない。でも、加害者の少年が、混血児としてこの日本社会の中で生きていくうえで、周囲の環境がどうも理性的に道を示せるような状況ではなく、肩肘を張って生きていかなければならないだとしたら、ああいう解になってしまうのもなくはないのではないかと感じている。 被害者の少年も、事前にああまで殴られていて、それでいて周囲が何も気づかない、何の手助けもしないというのも普通ならば考えにくい。考えにくいから林真理子は被害者の母親を責めるような文章を書いたのだろう。だが、普通が普通として手に入れられないからこそ、それを過酷と呼ぶのであって、その過酷さが川崎にあった、もっと
性暴力加害者の心理-キリンが逆立ちしたピアス こちらの記事は、性犯罪者(自称)が語ったこちらの記事の反応に対して、法治的には犯罪者が徹頭徹尾悪いのであって、自衛のコストを被害者に押し付けようとする傾向、何故か性犯罪のそれも女性被害者に対してのみそういうことが言われ易いのだが、とにかくそう言う傾向があるので敢えて念押しした、したということだろう。本心においては、この手の、しかも犯罪者の自分語りについてまで、いちいち目くじらをたてているわけではないだろう。 ただし、法律的にはともかく、社会政策的に言えば、自衛がまったく求められないわけではない。自衛は求められるか求められないかの二項で分けられるものではなく、費用対効果として程度としては求められるものである。あなたは本当に今まで一度もインフルエンザが流行しているからマスクをしましょう、うがいをしましょう、予防ワクチンを接種しましょうと公立学校や病
まず、大前提を指摘しておけば、公式参拝が違憲である以上、安倍晋三の靖国参拝は私的参拝以外の何物でもないのだから、私人の宗教的行為、「信教の自由」は最大限に尊重されなければならないという大原則を、リベラルがまったく考慮していないのは、日本のリベラルにありがちな党派性、「融通無碍な人権意識」の表れであろう。 安倍晋三は私人であり、靖国神社は私的な宗教施設である。本来そこにパブリックが入り込む余地はない。 「靖国はアーリントンとは違う」 と言う言葉は、アーリントンは靖国よりもはるかに悪質な存在であると解釈されるべきだ。あるいは韓国の顕忠院ははるかに悪質である。何故ならば、現代の基準で戦争犯罪と判断されるような行為者が「公式に」顕彰され、国家元首が「公式に」参拝しているからである。徹頭徹尾、私的な行為である靖国参拝と比較して、戦争犯罪に対する態度としてははるかに悪質なのはもちろん公式性の強いアーリ
ブロゴスフィアって久しぶりに打った。たぶん、この記事書いたら、もう一生打たないんじゃないかと思うけれど。 2002年くらいから2006年くらいまでのブロゴスフィアは面白かった。どこが面白いかと言うと、質。その質は、パソコン画面の向こうにいる人は理性ある他人だという認識を個々人が持っていたことに由来していたんじゃないかと思う。逆に言うと、最近のブロガーはこの認識が足りない。 他人だから自分とは感覚が違う、意見が違う、でも理性はあるから話せばわかる、話してゆく中でこちらも意見が変わっていくかも知れない。だから論理的に話そう、冷静に話そうと努めないといけない。 そうじゃない、最近の典型例はこちら。 http://d.hatena.ne.jp/tokunoriben/20130813/1376415786 関係のないことに首を突っ込んでいる連中は私刑をしたいだけ!と騒いでいるけれど、関係のないこと
もう10年近く前になるのか。イラク戦争直後の、治安が回復していないイラクに入国した民間人3名(学生、ボランティア活動家、フリージャーナリスト)がイラクの武装勢力に拘束され人質とされた。日本政府の交渉によって、その後、これら人質は解放されたが、当時、外務省がイラク全土においてレベル4の退避勧告を出していたこともあって、人質たちの無謀さに対して非難する声が強まった。 当時、私は、これら人質に批判的な人から、日本政府が要した経費の損害請求を人質に求めることは出来ないのかと聞かれて、刑事事件なので無理、と答えたら、その人はようやくこの事件が刑事事件なのだと気付いたのであった。 無謀さと言う点において、私は今でも人質たちの行為には批判的であるし、行くなら行くで覚悟が必要な状況だったと思う。また、特に外国領土において日本政府が出来ることは限られているし、政府に救出義務はあるものの、それによって日本の外
好きか嫌いかで言えば、私は乙武さんのことが嫌いだった。マジョリティに迎合している感じがあったからである。彼はかつて、障害者が叩かれる時、世間が無理解なんじゃなくてあなたの性格の問題なのでは?みたいなことを言っていた。今回、世間がどれだけ理不尽なのか、身を以て理解なさったのではないだろうか。 乙武さんの件を改めて整理しておくと、とにかく予約をした際に、乙武さんが車椅子を用いると言う情報が共有されていなかった。そこにそもそもの問題があるが、共有されていなかった責任は誰にあるのか。多くの人はそれを乙武さんの責任だという。しかし障害者基本法では、障害者がどこの店舗にも行けるのがデフォルトであり、何らかの理由で利用できないことが猶予として例外的に許認されているに過ぎない。構造上の理由等でお断りをしなければならない方が例外なのだ。 しかも事前に予約の際に、説明する機会がありながら店舗側はそれを怠ってい
おやおやと言う感じである。久しぶりに炎上したらしい。もっともこの件で、乙武さんを擁護して叩かれるのであれば、これで叩く側に回ったり、模様眺めをするよりは名誉なことだと感じる。 乙武さんのこれに関する話を聞いて、私は最初に考えたのは、乙武さんは気軽にレストランに行くものなのだなということだった。彼の文章を読んでいる限りでは、彼の障害のことを失念しているけれども、考えたら彼はどうやって文章を書いているのだろう。そんな疑問を以前持ったことも思い出した(もっとも一人で文字を書いたりパソコンに入力することは出来るそうだ)。 乙武さんはただ単に車椅子を利用しているというだけではない。車椅子という移動手段さえあれば他のことは日常生活に不自由なくこなせる、というわけではないだろう。その知性は極めて明晰ながら、障害者の中でも身体的には特に重度のハンディキャップをお持ちで、彼の状態からすれば驚異的な自立を成し
さんざん話題になっている話だけど、乙武洋匡さんが土曜の夜にイタリアンレストランを予約していたところ、いろいろあって入店を断られたと言う話。 正確に言えば、 ・レストランには車椅子が入れない構造になっている。 ・車椅子を路駐にして、乙武さんを抱えて入れてくれないか、店のスタッフに連れの女性が交渉。店のスタッフが了承する。 ・10分外で待っていて、遅いので、女性が様子を見にレストランに入ると、オーナーから手が足りないので、そういう対応は無理、と言われる。若干の口論あり。 ・その後、わざわざ階下にオーナーが下りてきて、更なる口論になる。 「車椅子なら前もって連絡しておくのが常識でしょ」 「そんな常識聞いたことがありません。なら広範囲に聞いてみてどちらが常識なのか聞いてみますか」 「おう、望むところだ」 みたいなことになって、乙武さんが事の経緯を説明して、twitter で店名を公開。 その結果、
私は優先席には坐らないが、それは基本的に電車の中では立っているからである。坐りたいなら優先席にも坐るし、若い人が優先席に坐っていても当然の権利だと思う。そもそも席を譲るとか譲らないとかは個々人の判断と道徳心に拠るのであって、一私企業が半ば強制するものではない。 老人や妊婦が坐る席を必要としていることは分かる。同様にこれから長時間労働をするために通勤しようとしている人にも必要だろう。老人が坐る席が必要だと言うなら、老人が道を歩いている時、タクシーで横切ればタクシーに乗っている若い人はタクシーを料金支払い込みで譲らなければならないのだろうか。そんなことはない。老人は代金を支払っていないからタクシーに乗る資格がないが、若者は代金を支払うからタクシーに乗る資格があるのだ。それと同じで、鉄道で同じ乗車券を買ったならば、同じ権利を持つ。そこに「道徳心」などをたてにして、一定の者を優遇したり、逆に一定の
モンスタークレーマー的な話があると、はてなブックマークに限らず、ネット世論ではクレーマー批判が大勢になるけれども、これだけ「労働側に優しい視線を持つ人が大半」の国で、ブラック企業が現にまかりとおっているというのも不思議な話である。ブラック企業と言えば、ユニクロやすき屋あたりが名を挙げられやすいが、理屈から言えば、残業を強いているような企業はブラックなのであって、「ノー残業デー」なんてものを設けている時点でブラックであり(残業はしないさせないのが基本だから)、それで言えば、「労働側に優しい視線を持つ人が大半」であるこの国で、ほとんどすべての企業、企業どころか官公庁はなおのことブラックである。 私はこれを、労働側にシンパシーを持つ人が多いにもかかわらず現状ブラック、と見るのではなくて、そういう人たちのメンタリティ自体が、ブラックな環境を引き起こしていると考えている。 それは彼らの多くが結局、他
サッチャー夫人はもちろん生きていたが、実際には既に歴史の人だった。認知症を患ったこともあり、21世紀に入ってからは目立った動きもなかった。サッチャーは文脈の人である。それ単体では評価は出来ない。彼女が首相として登板した1979年には、石炭労組と政府の対立が頂点に達していて、既に事はエネルギー政策の範囲を越えて、統治案件の問題になっていた。 変化は突然来る。例えば、海運のコンテナ輸送が本格化する1960年代、世界のすべての港で独自の世界を形成していた港湾労働者の社会はわずか数年で消滅した。コンテナ輸送の影響は迅速でなおかつ圧倒的であったので、港湾労働者の労組はおりおりに雇用者と戦い、それなりの成果を手にしていたが、雇用者を含めた業界そのものが押し流されることによって、成果を手にしつつ滅びて行った。 英国は世界最初の産業革命を経験した国であり、石炭産業は伝統産業であり、単純な一産業の問題ではな
母と父のことを思えば、夫婦のありようとして、傍から見ていて面白い関係だったと今は思う。 母は支配的な人物だった。10人いればその中で、100人いればその中で、必ずリーダーシップをとるような女で、社交的でもあるしお節介でもあるし、同情心もある人だった。母の息子である僕は、性格で言えば何一つ似たところがない。似たところがないからまあまあそれなりに折り合ってこられたのだと思う。姉は母と同じような性格だったから、母とはぶつかることも多かった。 六人姉弟の長女に生まれ、早くに母親、つまり僕から見れば祖母を亡くしたことから、母は家政において全権を振るってきた。そのために犠牲にしたこともあるのかも知れないが、そうした指導的な立場が心底性に合っていたのも確かだろうと思う。僕の一族にはわりあい受け身な性格の人が多いのだが、母と母の父(つまり僕の祖父)だけは例外で、彼らは生まれながらの指導者であった。 祖父も
AKBには興味は無いし、当人たちが納得して関与している以上、AKB商法にも、恋愛禁止を含むAKBのルールにもとりたててどうこう言うつもりはない。AKBやその関与者に対しては侮蔑感情は抱いているが、それは私個人の感情であって、それで断罪するつもりはない。言ってみれば私はAKBについては徹底的に無関心者であり、無関係者である。十把一からげのレベルの低いアイドルが何位になろうとも、誰とくっつこうともどうでもいい話であって、私の人生に関わって来ないなら好きなだけアイドルごっこでもやってなさいよ、と言うだけだった。あの日までは。 まず、そのまえに、巷間言われている「アイドルだから恋愛禁止は当然」というのは過去をひも解いてなお言えるのかどうかを考えてみたい。古くは吉永小百合・浜田光夫、山口百恵・三浦友和のように、所属事務所も違うのに疑似恋愛的なカップルで売り出す、売り出そうとすることは稀ではなかった。
台頭する中国に対してどのように向き合うのか、これが多くの周辺国にとって重要な課題であるのは確かだとしても、そのありようは、その国が置かれた立場、地理的な位置によって違ってくる。過去の経験も関係してくるだろうし、現在持っているもの、失われては困るものによっても左右される。そこの判断で、道義的な議論をしても仕方がないことだ。 韓国が中国にいずれ取り込まれるのはやむを得ないことだと思う。軍事的に前線に位置するという脆弱性はもとより、韓国の場合は国内に資産が蓄積していない。ストックによる支えがない以上、経済においては単年ごとのフローに依存する構造がより強力に作用するわけで、既に対米対日輸出を大きくうわまって対中輸出に韓国経済の生命線が握られている以上、中国と対立する選択肢は韓国には無い。 もちろん本音から言えば、韓国人とても怪しげな中国に依存するよりは、既になじんでいる旧来の西側陣営にとどまりたい
http://togetter.com/li/430429 NYT記者と池田信夫さんとの論争を読んだ。従軍慰安婦問題については僕は河野談話の見解が妥当だと考えている。細部の問題においては、確かに論争的な余地はあるが、政府が当事者と面談を重ねたうえでのオーラルな証言の体系でもあるわけで、極小のレベルに話をとどめるのは、はぐらかそうとしている印象しか第三者には与えないだろうと思う。 ただし、河野談話を踏まえて日本政府がどういう行動をとったかと言うと、日本政府としては個別補償は条約上応じられないので、法的には無視してかまわない問題であるが、人道上の配慮から事実上政府主体の基金を設立した。現在の日本政府の法的解釈から言えばそれ以上のことはしようがない訳である。過去は変えられないわけで、法的に決着した問題について、更に批判的に強調することはそれ自体が差別的な動機と行為である、と私は見ている。 NYT
フランスのオランド大統領がアルジェリアを訪問して、過去の植民地支配について謝罪するしないで揉めていたようだが、朝日新聞ではあたかも謝罪したような内容の記事だったし、毎日では逆に謝罪しませんという内容の記事だった。実際には、過去にはいろいろあって非人道的なこともあって誠に遺憾、的な謝罪と言えば謝罪だし、謝罪でないと言えば謝罪でない内容だった。 フランスのアルジェリア支配は単なる植民地支配というのではなく、何百万と言うフランス人が少なくとも5世代以上にわたって入植した、フランス国家という範囲の問題でもあるのだけれども、それだけにアルジェリアが独立する際にはもめにもめて、非常に残虐な事件も頻発したし、拷問も圧政も行われた。フランスはアルジェリアを巡って事実上の内戦状態にも陥った。ド・ゴールがカリスマと強権発動と冷徹なリアリズムを徹底して用いなければ、事態収拾はもっと紛糾しただろう。 今回の件は謝
衆議院の定数のうち、だいたい150議席程度は政権交代を可能ならしめるため、揺れ動いた方がいい、それ以外は安定していた方がいいと書いた。現在の選挙制度では、小選挙区が主で比例区が従の関係にあるが、これを逆にした方がいいのではないだろうか。 定数480のうち小選挙区が150、残りを比例とした場合、今回の選挙ではどのような結果になるのか。 集計を簡単にするため、各党の小選挙区の獲得議席は総数300から総数150に比例して縮小させる、比例区は今回各党が比例区で獲得した議席を総数180から総数330に比例して拡大させた。小選挙区で端数が出た場合、そもそも大政党が有利な小選挙区制で小政党が議席を獲得しているとすればそれはその候補が相当に強いのであって、その強さを重視するという意味から、上位の政党から下位の政党へ端数を振り分けた。比例区の端数は、正の数を合計して全議席数から除いた端数を出し、残存議席を端
自民党が現憲法を改変し、特に現在の12条、13条の基本的人権を公共の福祉に従属させるという規定を極度に強調している件について、左派が強いはてなでは批判が強まっているが、はてなサヨク界隈にそれを批判する資格があるのかどうか非常に疑問に思う。 自民党の立場は法学的に言うならば、一元的外在制約説を強調しているに過ぎないのであって、それを批判するならば、一元的外在制約説自体を批判しなければならない。 私は明確に、一元的外在制約説に批判的立場に立っていて、一元的内在制約説(通説)に立つか、更に突き進めて、実際には経済的自由権と社会権のみに公共の福祉の制約は限られるという二元的内在外在制約説に立っている。 このことがかつて争点になったのは、 http://d.hatena.ne.jp/iteau/20091205/p1 http://d.hatena.ne.jp/iteau/20091205/p2 h
TPPに関する内田樹先生の文章、 さよならアメリカ、さよなら中国 こちらのブログ記事は、ちょっとびっくりするほど経済学に関する理解の欠如を示されていると思う。これに対して、池田信夫氏が(私は氏については先生とは呼ばない)、内田樹氏の知らない比較優位で『誤認』を指摘されているのも、もっともだとは思うが、全体を通して言えば私は内田先生の論に説得力があり、池田氏の論は浅薄に過ぎるように思う。 総論では内田先生は正しいが各論では誤謬だらけである。各論では池田氏は正確だが総論ではねじまがった見解だと私は思う。 比較生産費説を内田先生がおそらくきちんとは把握されておられない、そしてその知識が高校の政経レベルのお話だと言うのはその通りなのだが、いまさら古典的なこの理論で現代世界が説明しきれるものではなく、であれば、現代のこの問題を論じている時に、「高校生レベルの話も知らないなんて、やーいやーい」というの
少女漫画には繰り返される類型がある。 恋愛に無関心・鈍感な主人公がいて(多くはガリベンだ)、学園のアイドル的な(しかしそのことには自身は関心を持たない)美少年がいる。美少年は、ガリベン少女の素朴さや古風さにひかれて少女に恋をする。ビッチ的な女子たちは嫉妬で主人公に嫌がらせをするが、好かれるための努力をしていないように見える主人公の「本当の良さ」に美少年が気づく結果しかもたらさない。 学園を舞台にした少女漫画は9割がたはこのパターンではないだろうか。 この構造の嫌らしいところは、恋愛至上主義に結果的に懐疑的であるかのように振る舞っている主人公の価値観が、美少年による全肯定を権威としている点だ。 美少年の歓心を得ることが少女漫画の恋愛における勝利だとしたら、勝利へ至る道が非合理的だ。美少年の歓心を得ることが勝利ならば、歓心を得るような行為を積み重ねることが常識的に言って常道だろう。しかしその常
来年のNHK大河ドラマ「平清盛」のウェブサイトの人物相関図で、皇族を指して「王家」と記載されていたことについて、右翼の西村某氏が「不遜だ」と批判している。それに対して、「日本史も知らない右翼なんて、バカじゃないのw」という反応が見られるが、私はこれについては西村氏の言うことも一理あると思っている。 王家という呼称が言うほど一般的とはちょっと思えない。王氏、王法、王権、等々の用法はあるが、王家はそれほどないのではないだろうか。いずれにせよ厳密に定義づけられた語ではなく、「日本国皇室」という限定されたイエというよりは、機能的な意味に焦点をあてる時、王という語が用いられることが多いように思うが、それにしても王家という用例がそれほど多いのだろうか。そうは思えないが。 親王のイエが親王家なら、王家は王のイエである。以仁王などの家中が王家なのであって、果たしてそれを皇族全体に敷衍することが出来るのかど
このところずっと鎌倉の武家政権について考えているが、分からないことがある。幕府の終焉が余りにも唐突で、急であることだ。足利高氏が大覚寺統に寝返ってからひと月もしないうちに、六波羅の滅亡、千早城攻めの幕府軍の崩壊、新田義貞の挙兵と矢継ぎ早に事が置き、ついには鎌倉での北条家滅亡を迎えた。この間、わずか二十三日に過ぎない。 これが数年間栄華を極めた程度の平氏の滅亡ならばともかく、幕府は百五十年に及んで東国はもちろん西国をも軍政下においていたわけで、起きてしまったことだからそういうものかと受け入れられているが、これがいかに異常なことなのか、改めて考えればほとんどあり得ないことと思われる。 朝廷を向こうに回して、つまり権威を向こうに回して敵対した経験が北条家にないならばともかく、承久の乱は言うに及ばず、鎌倉内部でも将軍との相克を制して何度も死線をくぐってきたわけで、ホームグラウンドの東国でさえ、ああ
メア氏講義メモ私訳 - 極東ブログで、finalventさんが批判されたのは訳が恣意的過ぎたからである。極端に例えて言うならば、「あいつは異常者だ」という発言を「彼は非凡な人です」と訳したようなもので、テキストを作り変える意味合いをfinalventさんの訳は持っていた。 これについて、finalventさんは、メア氏問題の背景で次のように語っている。 私訳したのは、「ごまかしとゆすり」というメディアの訳語が一人歩きしているので、この時点で可能なかぎり妥当な文脈を捉えてみようとしただけにすぎない。 しかしそれは「妥当な文脈」以上のものであった。全体に、finalventさんの訳は意図的に攻撃的なニュアンスが和らげられていて、テキスト自体を忠実に追ったものではない。そのテキストの妥当性に疑念があるゆえに、敢えて意図的に和らげたというのであれば、先にそう明言しておけばいいだけのことであって、好
一ヶ月かもっと前、とにかく大震災の前にこの映画を見て、感想文を書こうと思っていたのだが、例のごたごたがあって忘れていた。先日、アカデミー作品賞と主演男優賞、監督賞を獲得した作品である。 幾つかの脚色はあるけれども、おおむね史実をカヴァーしている。ジョージ6世が吃音症だったことは秘密でも何でもないが、それでもわざわざ声高に言うようなことでもないので、この作品を通して初めて諸事情を知ったという人も多いのではないか。 ジョージ6世が吃音症だったのは事実であり、彼が幼少期にナニー(乳母)から虐待されていたのも事実、彼の末弟が自閉症のために隔離され、いなかったかのように扱われ、夭折したというのも事実。父、ジョージ5世や兄のエドワード8世が「よかれと思って」彼に恥辱を与えることを通して吃音症を矯正しようとし、結果的に屈辱だけを与えたというのも事実。 こういう事情を踏まえずして、どうしてエリザベス王妃が
福島第一原発の事故で、子供の通学の安否を心配するアメリカ人の話(といっても、在日のアメリカ人ではなく、アメリカでの話) - グローバル・ダイアリー バカはどこにでもいる、と言ってしまえばそうなんだけど、やっぱり、10人中1人がバカなのと、10人中5人がバカなのは全然違うと思うの。で、何について話すかにもよるのだけど、不特定多数の人たちと、政治経済や歴史、社会問題について議論している時に、アメリカ人が加わると「あーあ」って落胆することが多いのですよ。 バカのくせに黙っていられないで話をかき乱すんだろうなって思ってしまう。 例えば日本の戦争犯罪の話について中国人や韓国人と話す方がまだ穏やかで建設的な議論になりますよ。互いにこれは議論ですよっていう前提があれば。 アメリカ人>オーストラリア人>>>カナダ人>英国人>>>>>>>フランス人>ドイツ人>ロシア人>イラン人>>>韓国人>中国人 話の「通
日本史は基本的に血腥いものだが、鎌倉時代は特に血腥いと思う。それはおそらく寡頭共和政治的な、鎌倉における東国武士団連合政体という実質を、北条家が中心になって身分制の律令国家という外枠にあてはめるという、無理、をしなければならなかったからだろう。 北条家の権力の実態は権力そのものであり、権威によって補強される程度が少ない。都度都度になされる粛清は徹頭徹尾、北条家、それも得宗家の私戦であるが、近世以後から見てこれがいかに奇異な現象であるのか、徳川幕府にあてはめて考えてみればよく分かる。 大老が将軍の許諾もないまま、老中を誅殺し、何の咎めもないまま当たり前のように元の日常業務に戻ってゆく。私戦禁止は国家権力の権能の最大のものであるが、ここのところの極端な弱体化が鎌倉幕府には見られる。鎌倉の歴史は血の歴史であり、その陰謀、虐殺、謀反の数々は鎌倉時代全体を通底している。 北条時宗が執権就任早々に北条
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