サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
killhiguchi.hatenablog.com
人文社会系の必要性の問題が不毛な理系文系論/対立につながりませんように - 誰がログ の趣旨に反対はない。 いつも疑問に思うのは、「人文系などの一見役に立たないものを残しておくのが大切だ」という言説を、一般人に、市民に、彼らは説得的に説明できているか、ということだ。「将来への可能性が大切なんです。」「は?今そんな余裕ないよ。いや分かった。要るのかもしれないけど、もっと少なくして。」。あるいは「将来への可能性を残しておいて効果があったことは今までにあったのか、証拠を示せ。」って言われて、きちんと答えられるのだろうか。 教育政策や実際の教育に教育学の成果が利用されないとか、科学政策に科学が利用されないとか、この国は専門家をきちんと利用していないが、それを置いておく。軍事が市民に統制されなければならないのと同様に、科学も市民が統制しなければならない。軍事と医療福祉は国家のカネをつぎ込む二大分野で
英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ 作者: 金谷武洋出版社/メーカー: 講談社発売日: 2004/01/11メディア: 単行本(ソフトカバー)購入: 1人 クリック: 27回この商品を含むブログ (25件) を見る めんどくさいので「第3章英語を遡る」に飛ぶ。それにここが批判できたら表題の内容は批判できたことになる。 この本には主語の定義が書かれていない。 まず困ったことに、この本には主語の定義が書いていない。前著を見よみたいになっている。悪書だ。 日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ) 作者: 金谷武洋出版社/メーカー: 講談社発売日: 2002/01/10メディア: 単行本(ソフトカバー)購入: 4人 クリック: 209回この商品を含むブログ (51件) を見るp.62 (あ)基本文に不可欠の要素である。 (い)語順的にはほとんどの場合、文頭に現れる。 (う)動詞
服部四郎1978-1979「日本祖語について」『言語』読了。ほぼすべての回が「この章未完」で、最後2回で結論に持っていこうとするが一向に向かわない。大まかな見取り図もなしに、細かい話に拘泥する。悪い論文の見本。 日本語の系統 (岩波文庫) 作者: 服部四郎出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1999/03/16メディア: 文庫購入: 2人 クリック: 14回この商品を含むブログ (14件) を見るを読む必要があるか。 Lee & Hasegawa2011http://rspb.royalsocietypublishing.org/content/early/2011/05/04/rspb.2011.0518.abstractによって、既に、琉球諸語と本土方言が語族をなすことが統計的に推定されたのだから、いい加減、日本語学者・言語学者は、外国人でなくても、日本祖語について復元の研究を始める
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51708023.html 日本語は主語が省略される言語で、どころか文法的には存在しないとすら金谷武洋は主張しているが、それはあくまで文法の話であって、話そのものの話ではない。なぜそんな話をはじめたかといえば、主語を誰にするかが、会話上手と会話下手の一番の差であると私が感じているからだ。 金谷批判かなと期待をするも、裏切られた。批判者自身が駄目だからだ。 だいたい、主語が文法上存在しない、ということと、主語が話の上では存在する、の関連さえ明確ではない。最大限譲歩して、文法上、というのが、形式として明示的に、という意味で、話しの上で、というのが、意味上は、としても、話は通じない。 「申し訳ありません」の主語は「わたし」、「お待たせしました」の主語は「あなた」。 普通「待つ」の主語は「あなた」だが「待たせる」の
盆で旅行して子守りして体が痛くて夜に目が覚めると、要らんことばかり妄想してしまう。前のエントリーもまだ終わっていないというのに。 この間、電波文法臭いエントリーを書いたが、書くたびに思うのは、言葉によって言葉を解析するというのは、文芸批評のようなものであって、文法論を書くというのは言語を私的にかつ(言語による以上当然)公的に批評する行為であり、つまりは知的欺瞞なのだ、ということだ。古めかしい言い方をすれば、知的遊戯にすぎない、と言ってもいい。自分を騙しながら、怠惰に、遊んでいるだけなのだ。 私が文法論というものに曲がりなりにも出会ったのは学部1年の時であった。日本語文法の講義であり、5限で(当時は知らなかったが)教員免許の必須科目の裏で、受講生は5人もいなかった。私が受けたのは偶々である。試験でいい成績も貰ったが、当時は文法論の意義も何も分かってはいなかった。ただ、言語で言語を語ることが妥
二人称主語シタ形の言い切りは座りが悪いことが指摘されている(仁田1991:108-109*1)。 *あなたが昨日走った。 上山(2007*2)は、 あなたが昨日走ったことを私は知っている。 のように、埋め込みでは二人称主語シタ形が可能なことから、発話伝達のモダリティが現れない環境で人称制限が解消されるとし、シタ形には、断定を表わすゼロ形式の認識モダリティが存在しているとする。 今、二人称主語シタ形で言い切りの場合、可能な用法として思いつくのは、まず、二人称者の動作以降に話者が発見した証拠によって、二人称者の過去の行動を推定した場合である。 あのグラウンドの跡からすると、あなたは昨日走った{ね・な・*φ・のだ・にちがいない・ようだ・はずだ}。 ノダは事態を話者が発見したときの用法を持っているし、ニチガイナイ・ハズダ・ヨウダは広義推量形式であり痕跡から二人称者の過去の動作の存在を推量しており、
http://d.hatena.ne.jp/killhiguchi/20071124#p3で取り上げた「クララの弱虫!」用法についての論文を見つけた。http://nihon5ch.net/contents/ch5/daigakuin/gengo-2009-3.pdf妥当な分析だと思うが、何故マイナスイメージの表現にしかならないのかの考察も欲しかった(id:dlitさん、もしお暇があればコメントをお願いします。)。著者の小柳昇は、時々日本語教育関係で参照されるnihon5chの管理者で、拓殖大学の大学院生のようだ(関東日本語談話会にも参加しているようですが、dlitさん、ご存知でしたか?)。http://nihon5ch.net/contents/ch5/index.htmlにあるレポートは優れたものであると思う。三上章の他動詞の所動詞を理論的に位置付けることに成功しているし、自他対応で従
5周年ということもあるが、今日は体が痛くないし、(午前中は甥を連れて飛行場でヘリコプターに乗りにいっていた)婿が家にいて妹と子守りをしてくれているので、久々に時間がある。うだうだと最近考えていた電波を放出してみることにする。 何故、シテイル形とシテアル形のパーフェクト用法には主題が要求されるのだろうか。以下では、このことを巡って考察する。 学史的には、シテイル形の用法は、動作継続用法と結果継続用法を中心として、単なる状態用法や反復用法やパーフェクト用法が派生するとされている(工藤1995:38‐40*1)。この中で、パーフェクト用法は、「<後続時点における、それ以前に成立した運動の効力の現存>を表わす(ibid:39)」とされ、結果継続を状態パーフェクトと、パーフェクト用法を動作パーフェクトとそれぞれ捉え直して、両者の連続性が主張されてきた(ibid:116-125)。 しかし、主題との関
まだ、前のエントリーが途中だが。なんか頭の固い司書の古い図書館学を懐かしんでいるのが、単なる私情で今のネットが嫌いだと書いているだけで、全然性的な話に進んでいかないなあ。 日本語について語られる状況についての私憤を先日書いたところ、何故かブックマークが(私にしては)一杯ついていてビックリしている。こんなブログなんか読まなくていいのに。dlitさんのところの学識と良識に満ちたエントリーをこそ是非にも読んでほしいものだ。 その、珍しいブックマーク関連で、こんな記事http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/6f7cc3b6a4b704e7b9573f8812f4d5e1を見つけた。多くのコメントとブックマークが付いている。私はルサンチマンを抱くべきだろう。そして、これを機に、電波なことを書いて、人々にこのブログの信用性を落とさせるべきではないだろうか。 私は池田信夫と
仁科先生は30代の国語学研究者の中で、小柳智一先生と双璧をなすくらい、優れた研究をなさっていると、私は思っている。密かに私淑し論文を集めているくらいである。ストーカーか。 その先生の最新論文が出た。仁科明2008「人と物と流れる時と:喚体的名詞一語文をめぐって」森雄一ほか(編)『ことばのダイナミズム』くろしお出版 ことばのダイナミズム (成蹊大学アジア太平洋研究センター叢書) 作者: 森雄一出版社/メーカー: くろしお出版発売日: 2008/09/13メディア: 単行本(ソフトカバー) クリック: 10回この商品を含むブログ (6件) を見るである。 大変刺激的な論文であり、喚体についての最新研究である。仁科先生の論文はどれもそうだが、学史を包括し、メタな視点から学史上の問題点を炙り出し、ベタに降りて、言語的事実と向き合って鋭く分析し、学史に新たな一点を付け加えるのである。喚体の学史を見て
体調が悪いのに、珍しく久々に国語学めいたことを書いてみる。それはhttp://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070623さんが、 日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ) 作者: 金谷武洋出版社/メーカー: 講談社発売日: 2002/01/10メディア: 単行本(ソフトカバー)購入: 4人 クリック: 209回この商品を含むブログ (51件) を見るを褒めているからである。tokyocatさんほどの知的な方がこの本を誉めるのが不可解だからである。アマゾンでもbk1でも本質的な批判評はなかった。概ね礼讃である*1。 ただし、今日は体調が優れないから詳細な文献は示さない。手がかりは残すから、このブログ内で検索するなり、図書館に行くなりして欲しい。 前々から思っていたことだが、知的な人でも、一旦言語学のこととなると、極めて不可解なことを言い出すことがあるように思う。例え
体調が悪く、諸方への連絡を滞らせている。この土日で回復したい。 指はブシャール結節かもということで治療を始めた。 今年度はずっと生活があれていたので(それが絵を描けない原因でもあった)部屋の掃除をしていなかった。今日の残りは掃除に充てたい。 医大に指を見てもらいに行く。やはり確定的な診断はつかない。検査で何も異常がないから。とりあえず、今までと違う痛み止めをもらう。 ただ、カルテを覗き見ていると、「ブシャール結節か?」みたいに書かれていた。いやだなあ。 抗菌薬が腹に来ている。非常にお腹の調子が悪い。腸内細菌さんが死んだせいだろうか。 用言を副助詞係助詞(サエ・コソ・ハ・モなど)で分節すると、助詞より後ろの部分に軽動詞が時制・法で屈折した部分が出てくる。 走った→走りはした 走る→走りはする 走ろう→走りはしよう 走るまい→走りはするまい 美しい→美しくはある 静かだ→静かではある 軽動詞(
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『killhiguchi’s diary』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く