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「指を指す」や「速さが速い」という表現は「頭が頭痛」や「馬から落馬」のような二重表現みたいで「違和感を感じ」ないだろうか。しかし、後者三つは間違いだけれど、前者二つは間違いではない。じゃあ、間違っていないことを証明してよと迫られても、「証明?」と少し困惑してしまう。 ほかにも「歌を歌う」や「踊りを踊る」などは二重表現だけれど日常的に使われる。間違っていると思われる例をもう少し挙げると、「車に乗車する」や「危険が危ない」というようなものもあるだろう。関係ないが、標語の「危ない」はどうして「危い」と書かれているのだろう。 もしかすると、それはきっと「危ない」だと「危+ない」で危険を否定しているような感じにも受け取られるからではないかと僕は思うのだけれど(「仕方ない」「勿体ない」「申し訳ない」みたいな言葉はけっこうある)、いずれにせよ複雑な奇妙さを感じるところだ。話を戻そう。 それらが言葉遣いと
Activica. の 今日のテキスト で、コミュニケーションという観点から無断リンク拒否を擁護する議論を構成してみました。こういう観点から無断リンク拒否を擁護しようとする議論は、僕の知る限りなかったので、できれば意見を聴きたいところです。このエントリでは、再構成された議論の流れを「論理的な飛躍」を補足しつつ、説明してみたいと思います。 僕はまず、無断リンクを「原則的水準の無断リンク」と「コミュニケーション水準の無断リンク」に分けました。これはわりと実態に即した分類だと思います。おおまかに言うと、より公共性の高い公的なサイトほど、前者のカテゴリを念頭においたリンクが許容され、より公共性の低い私的なサイトほど、後者のカテゴリを念頭においたリンクを望まれるという具合になると思います。 そのような分類をしたとき、無断でリンクを張るという行為は、 原則的に正しいかもしれないけれど、コミュニケーショ
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