サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
kugyo.hateblo.jp
Nottingham大で哲学を教えているKatharine Jenkinsが,トランスの権利運動によく登場する性同一性[gender identity]とはなんのことかについて説明する論文,Jenkins 2018を書いている.この論文は,哲学業界で最近流行している,概念工学という研究ジャンルの一例でもある. トランスの権利運動に対して,ちょっと気の利いた人間なら思いつく疑問がいくつかある.私はこの論文をそういう疑問への応答として読んだ.たとえば,この論文を読むとおそらく,トランスの権利運動が,必ずしも性同一性についての自認を絶対視する必要はない,ということがわかるだろう.また,以下のような立場をとりたいと考えるなら,この論文をよく読み,応答を考える必要があると思う: 性同一性や性自認1といった怪しげな概念を使っているのだから,トランスの権利運動はばかげているにちがいない. トランスの権利
「ネタバレの美学」ワークショップの感想 2018年11月23日(金祝)に,公開ワークショップ「ネタバレの美学」で話題提供した.発表スライドはresearchmap上ですでに公開しており,年度明けぐらいの時期で論文化の予定もあるが,ここでは,次の問いに答えを与えたい:この発表はどうやってできたのか? 話は2010年にさかのぼる.時系列を追って見ていこう. 2010年 私がTwitterを始めて2年ぐらいたったころだ.当時は分析形而上学の勉強をさせてもらいながら,文学の哲学(どのような文学作品がよい文学作品であるか)にアプローチする方法を考えていた.したがって,このころは形而上学と,ちょっとだけ認識論の議論とに関心があり,分析美学には詳しくなかった. そういう状況でネタバレについて最初に考えを公にしたのがこれ. ネタバレの害については何度となく考えてるが,ネタバレは不快だけどこの世に知識を増や
世のなかにはアートミステリーというものがあります.アートを扱ったミステリーのことで,そこでは芸術作品が盗まれたり,芸術作品の制作者があばかれたり,芸術作品のなかに暗号が仕込まれていたりします.芸術の世界にはさまざまなしきたりや専門用語があり,それが日常とのギャップを作り出すのです.ギャップあるところ,それを利用したトリックあり.ミステリーがアートのちからを借りたがるゆえんです. ではSci-Fiの世界ではどうでしょうか.一見すると,芸術SFやアートSFというのはあまり作例が多くないように思えるかもしれません.というのも,芸術というのはどこか,SFが重んじる科学的精神と相容れないところがあるような気がするからです.制作はさておくとしても,とくに芸術鑑賞においてはそうです.絵画にちかよって定規を当てて消失点を探ってみたり,コンサート会場で指折り数えてbpmを調べてみたり,ダンサの骨格の緊張をレ
2014年に“分析美学エステティシャン 抽象物としての芸術作品”というSFミステリー小説を公開したのですが,そのつづきを書きました.“分析美学エステティシャン 同一都市”というタイトルです. https://drive.google.com/file/d/0B747RMSSVeGvVThhX0FjSnhGT2c/view 前作(ダウンロードリンク)では,エステで働く分析美学者のところに,哲学好きのロボットとその相棒とが事件を持ちこんでくる,という筋で,芸術作品の存在論的地位をネタにしたものでしたが,今作( ダウンロードリンク)では,その分析美学者が学生だったころの事件で,2つで1つの都市で暗躍する,悪の哲学者の陰謀と対決します.ネタは都市の環境美学です. 2月ごろ,美学の勉強会の席で,「都市の同一性」という話題が脱線としてあがり,これはおもしろいと思ったので小説に仕立てようと思ったのが,こ
恋の境界事例 みなさんこんばんは.第19回文学フリマの開催まで1ヶ月を切りました! 今回はどんな本に出会えるかわくわくしますね. 私はこれまで長いこと購入専門で参加していたのですが,第19回は久しぶりに出店側で参加できることになりました.取り組んだものの1つが「恋愛SF」というテーマです. このテーマを聞いてみなさんはどんな作品を思い浮かべるでしょうか? 私の場合,まっさきに思い浮かんだのは「恋の境界事例」というキーワードでした.特異な状況,それもなるべくなら現実には起きていないけれども可能ではあるような状況での恋愛は,ふつうの恋愛とどうちがい,どこが同じなのか.SFのなかで,恋愛というものを,いわば極地での拷問にかけることで,恋愛の本性を引きずり出そうというわけです*1. 一筋縄ではいきませんでしたが,最終的には,ほぼ納得のいくものができあがったと自負しております.11月24日(月祝)の
SF映画で学ぶインタフェースデザイン アイデアと想像力を鍛え上げるための141のレッスン 作者: Nathan Shedroff,Christopher Noessel,安藤幸央,赤羽太郎,飯塚重善,飯尾淳出版社/メーカー: 丸善出版発売日: 2014/07/24メディア: 単行本(ソフトカバー)この商品を含むブログ (8件) を見る SF映画に現れるさまざまなインタフェースが,作品内世界でどのように働いているかを分析し,それを通じて,現実のインタフェースのいろいろな特徴がわれわれにどんな影響を与えるかを確認したり,映像に現れるインタフェースが映画を見るときどんな感じを与えるかを確認したりする本. SF映画のなかでだれかが何かを操作するとき,またそいつがその操作結果を受け取るとき,そこにはどんなやりかたがあるだろうか? 2010年ぐらいまでの100以上のSF映画を分析したこの本で取り上げら
先日,2014年度表象文化論学会パネル「知/性、そこは最新のフロンティア 人工知能とジェンダーの表象」を聴講してまいりました. ・電子の時代のピュグマリオン――ポストヒューマン技術のジェンダー化をめぐる文化的想像力/小澤京子(首都大学東京) ・人工知能にジェンダーは必要か――ソーシャルロボットとしてのAIと被行為者性の観点から/西條玲奈 ・挑発的なサイボーグであるために――「もはや誰も人間ではない」世界に生きるためのポリティクス/飯田麻結(東京大学) 【コメンテーター】大橋完太郎(神戸女学院大学) 【司会】北村紗衣(武蔵大学) 第9回大会プログラム | Conventions | 表象文化論学会 人工知能の表象について,芸術(小澤さん発表),倫理(西條さん発表),フェミニスト的科学論(飯田さん発表)から検討するパネルです.以下,聴講した雑感を述べたいと思います. 当時のツイートは各所にまと
私はつねづね,ひとはダジャレからは逃れられず,そうであるからこそダジャレに警戒する訓練を積まねばならない,と考えています.ダジャレの危険のひとつは,それがまったく異なることがらを,あたかも関連あることとして,ひどい場合には同一のこととして描いてしまうことで,議論にあいまいさを呼び込み,混乱させてしまうことです.私は,「認識論」という語に含まれる「認識」という語が,ダジャレのこの危険を招いているように思えてしかたありません. 私はふだん,「認識論」(Epistemology)という語を,「知識の哲学」(Philosophy of Knowledge)と完全に置き換えられるものとして読んでいます.これは,戸田山,*知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)*(2002)の強い影響下にある読みかただと思っています. いっぽうで,「認識論」という語は,一般的には,もっといろいろなしかたで使われています.た
今回から雑感を上に,リストを下に置くようにします. よくわかるジェンダー・スタディーズ―人文社会科学から自然科学まで (やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)は大判の本だけあってかトピックが多彩で,引かれているたくさんの文献もほとんどが邦訳ありのものになるよう工夫されている.1トピック見開き2ページなのだが,どれを読んでも発見があって感動. 高学歴女子の貧困 女子は学歴で「幸せ」になれるか? (光文社新書)は,高学歴ならではの問題を今後明らかにしていこうという気概が感じられた.大学組織内での微妙なヒエラルキーはその1つだろうと思う.常勤職と非常勤講師との力関係に加え,正規雇用の大学職員との力関係もある,というのはけっこう特異なのではないか,企業で派遣社員と事務方の正社員との力関係があからさまになる局面ってそうない(あんまり関わらない?)気がするので.あと,博論を出すのが(特に人文系だと,他
R. M. Sainsbury, *Fiction and Fictionalism*(2010)は,巻頭に各節の要約がついています.これは学術出版業界すべてに共有されるべき有用な特徴だと思います.索引の次は各節要約がトレンド! 以下,pp. vi-xviを訳出.何か誤解などありましたらご指導願えれば幸いです.(誤訳やtypoのご指摘は,はてなスターの引用スター付与でいただけると,カジュアルでよいかと思います.もちろん他の形でも大歓迎です.なお当ブログではハーフはてなスターをご利用いただけます.) 1. What is fiction? 1.1 Fictive intentions フィクションの生産者〔producers〕は,とある意図群を持っている.それは,聴衆をして,作ったものでごっこ遊びする〔make-belive what they write〕ように仕向けることである.Curr
これは,文章読解のときはだれでもやっていることだと思うのだが,作文のときにはなかなかやってもらえないことなので,書いておく.*1 文章つくるときは,同じ単語(あるいは対義語)が出てくる文は同じ話題として関連づけて読まれることを考慮すると,文がガンガン明確になる.文のつながりを明示しようというとき,接続詞を適切に使いましょうというのがまず言われることだが,接続詞をいくら適切に使っても,それは長い文になれば端っこの数文字ぐらいを占めるものでしかなく,文どうしのつながりを理解する助けにはなりづらい.だから,つながりが理解しやすい文章を書くためには,文の端っこではなく文のなかのもの,つまり使う単語を変えるべきだと思う.同じ単語を使っている文は同じ話題を扱っているかのように読まれることを考慮し,使う単語を修正する. これを怠って,思いついた単語を並べてるだけだと,この逆のことが起きて,文どうしのつな
先日開催されました第5回応用哲学会にて,楽しみにしておりました発表のひとつが,先日資料公開されました.西條玲奈さんの"ロボットを恋人にできるか"というものです. 西條 玲奈 - 資料公開 - researchmap 今回の応用哲学会の論題のなかでも相当に刺激的かつ“応用的”な問題に正面から取り組まれており,たいへん触発されます.公開感謝いたします. この公開資料だけで議論・反論するのに問題なしとは思いませんが,3点ほど,気になって考えていることがあります. “人工物に対する愛着が,恋愛でもあることはありうるか” まず,扱われている問いを,「ロボットを恋人にできるか?」というややナイーヴな形から,資料中で精緻化されているとおり,“人工物に対する愛着が,恋愛でもあることはありうるか”という形に変えておきましょう.この問いに対してとられているアプローチは,次のようです: 1: 恋愛とは何か定める
このひと月ほど,いろいろなところに行って,魅力的な方々とお会いしたり再会したりしていたので,記録する.12月も同様に鍛錬していきたい. 振り返ってみるに,私,魅力的なひとにお会いしすぎではないか? これは偶然や実力などではなく,まず地理的に有利な場所で暮らしているということもあるし,それと,魅力的でなかったひとのことはたいてい覚えていられないというのもある.自分の必要に応じてしか覚えないというのは,傲慢な態度だ. お会いする方々にお返しができるように,しっかり勉強していかないとな……. ゆるふわ形而上学の会 10月7日(木) James Van Cleve, "The Moon and Sixpence : A Defense of Mereological Universalism"をレジュメ担当.話としてはPersistenceの章でやったようなことが主だったのですらすらと行けた.古典
アリの群れが、餌場から巣へと餌を持ち帰っている様子を観察すると、アリどもは同じ1本の経路をたどっているように思われる。これを、アリが他のアリの付置したフェロモンを頼りに移動しているからだ、と説明することは、広く膾炙しているといえよう。 しかし、アリたちは1本の経路をたどっているだけではなく、最短の経路をたどっているようにも思われる。もしアリが他のアリの付置したフェロモンに頼って移動しているだけだとすると、最初にとんでもない経路に沿ってフェロモンが付置されてしまった場合、アリどもはそれを修正できないはずである。 アリ個体の認知能力はごく限られており、自分の現在地から遠く離れた餌場の位置を確認することはできないし、先の経路の予測もできない。行動ルールも、フェロモン蒸気を左右の触覚で感知して左右に曲がるという、非常に単純なものでしかない。したがってアリ個体はせいぜい、確率的にフェロモンの濃度に反
スティグマジーという発想のもとになったのは、生物学者Rabaudが導入した2つの概念、相互作用interactionと相互誘引interattractionとであるらしい(詳しくはTheraulaz & Bonabeau, 1999を参照)。 相互作用とは、集合的行動のためには個体のふるまいが本質的である、ということを述べている。直近の生物どうしは、相互にふるまいを修整しているはずであるからだ。いっぽう相互誘引とは、同種の生物が相互にひきつけあう、という概念を指して用いられている。ところが、社会的動物のふるまいは、このような個体中心的な考えでは説明できないところがある。そこでGrasseは、社会的動物の共同と統制とは、個々の行動主体じしんに依存するのではなく、巣その他の構造によって特徴づけられるのだと考え、スティグマジーを提案した。 スティグマジーは、さらに次のように分類できる(Wilso
創発とStigmergyとについて記事を書きました。 Ant Colony Optimization(創発とStigmergy) - kugyoを埋葬する Stigmergy(創発とStigmergy) - kugyoを埋葬する 創発?(創発とStigmergy) - kugyoを埋葬する 文献(創発とStigmergy) - kugyoを埋葬する
たしかこの内容は永井均の著書にあったのではないか。調べていないので、既存の学に基づかぬ文としておく。ローティだったかもしれない。 (あまりに論の運びが不明瞭だったのでちょっと修正。2009年7月29日) 相対主義に対して、よく、自己論駁的だという反論がなされる。相対主義の主張に基づけば、相対主義を主張することに意義はなくなるはずだ、というパターンのものだ。 こんな反論は審級の違いを設定することで、あるいは相対主義の主張はふつうの主張と質的に異なるものだとする(指令だとする)ことで、簡単に対応しかえすことができる。 ところで、同種の反論が独我論に対しても行われることがある。独我論の主張に基づけば、独我論を主張することに意義はなくなるはずだ、というパターンのものだ。 しかし、独我論へのこのパターンの対応も、やはり筋の悪いものだと思う。独我論を主張することに意義がなければならないというのは、過当
2ちゃんねるでもオススメの『穴と境界―存在論的探究 (現代哲学への招待)』読了。各章とも、議論が煮詰まってくる*1手前ぐらいまでは非常に読みやすい。著者の自説の検討に入ると少し読ませる速度が落ちるけど、予備知識が必要で投げ出さざるをえないタイプの文章ではない。私なんぞが言うのもおこがましいけど、よい研究者さんであると思う。 しかし、うーん、こんなに簡単に、中くらいのものの存在論にコミットしていいのだろうか。 以前に学会にもぐりこんで存在者に関する不用意な発言をしたことは、古い記事に書いたとおりだけど(講演「世界の中に人を位置づける」に行ってきた - kugyoを埋葬する)、このとき、“静けさ”は存在者ではなく性質であろう、と考えていた。たぶん、穴や静寂といったものは、何か別の存在者に依存するものである以上、少なくともまともな存在者とはいえないはず、と軽く考えていたはずだ。ところでこういう考
いまもトマス先生のパーフェクションかちろん教室を読んでいるのだけど、そのThomas Hurkaが、「ゲームにおける卓越excellenceは善goodだ」という議論をしているらしいです。わくわく。 "Games and the Good," Proceedings of the Aristotelian Society, Supplementary Volume 80 (2006): 217-35. http://www.chass.utoronto.ca/~thurka/docs/pass_games.pdf この議論が議論のしかたとしてうまくいっているとすると、芸術の哲学に応用ができるかもしれません。 ネタもとはこちらの記事です。これによるとどうやらHurkaの立論は、ウィトゲンシュタイン研究者的には怪しげなゲームの定義、という前提に基づいているようですが、そこを修正して議論のしかた
このまえやった勉強会のレジュメの一部を公開します。リアルとかリアリティとかリアルリアリティとか言ってるひとたちの参考になるといいです。リアリズムって言ってるひとたちの参考にはならんでしょうな、このレベルでは。 (前略) ところで、ここでいう虚構とはいったい、なんであろうか。 共通点として、「対応する対象が、この現実世界に存在しない」という点を捉えたとしても、虚構という語の使われかたはなおいくつかの種類に分けることができる。ということは、それらの分類のうちどの「虚構」について議論しているのかを明確にしなくては、そもそも議論が成り立たない、ということだ。 今回はさしあたり、「虚構」を以下の3種に分類してみよう。すなわち、「暴ける虚構」「浸れる虚構」「使える虚構」の3種である。 第1に「暴ける虚構」について。「世界経済共同体党の虚構を暴く」のように、うそ・いつわりといういみで使われる場合である。
(訂正しました 2009/1/29) 可能世界の実在についての虚構主義(様相虚構主義modal fictionalism)の難点を指摘した、Bob Haleの議論(Hale, 1995b)を紹介する。 様相虚構主義は、可能世界論the story of possible worldsが偽であると主張している。Haleの議論は、可能世界論を必然的に偽であると考えても、偶然的に偽であると考えても、様相虚構主義による文の読み換えは理解できないものになる、ということを述べている。 可能世界論が必然的に偽であるとすると 可能世界論が必然的に偽であるとしよう。ここで、様相虚構主義者による、 (1a) 可能世界論によれば、x という接頭辞をつけた、文の読み換えを考える。もし、この読み換えを (1b) 可能世界論が真ならば、xは真であろう。 と解釈するなら、(1b)は、xがどのような命題であっても、トリヴ
最近入手した文献のリスト。 清塚邦彦 (1990) “固有名の意味”、文化 54-1/2, pp. 58-77. 清塚邦彦 (1991a) “〈個体述語〉としての存在”、科学哲学 24, pp. 75-88 清塚邦彦 (1991b) “確定記述による直接指示:ドネランの区別について”、科学基礎論研究 77, pp. 27-34 清塚邦彦 (1992a) “指示詞の本性と〈自己関係性〉”、科学哲学 25, pp. 85-98 清塚邦彦 (1992b) “存在文の解釈について”、文化 55-3/4 , pp. 46-64. 清塚邦彦 (1993) “自己意識の概念について:言語論的な観点から”、倫理学年報 42, pp. 223-238 清塚邦彦 (1994a) “言語活動と主体性:E'・バンヴェニストの所論の哲学的意義”、哲学 44, pp. 244-253 清塚邦彦 (1994b) “信念
いつまでも学でないことを書いていても学は出てこないので、少しは世界に資することにしよう。予告どおりね。そう、犯行予告というのは、犯行がなされてはじめて、事後的に犯行予告であったと指定されるのであって、それまでは犯行予告ではないのではないだろうか……なぜフィクションを恐れるのか? という問題にからめて考えてみるといいだろう。 論題は、『「私」の同一性はなぜ実在しないのか』ってところ。最後にまとめをつけておきました。 完全に同一なコピーってなんだよ 何らかの方法で、「私」の完全なコピーを作ったとする。このとき、そのコピーの主観的意識は、「私」の主観的意識と同一だろうか。 当然ながら、答えはイエスである。なぜというに、「私」の完全なコピーというのは、たぶん定義上なにもかもが「私」と同一なのだから、それはとりもなおさず「私」そのものであるからだ(不可識別者同一)。「私」の主観的意識が「私」の主観的
今日はこのあとひさびさに続きを読む記法を使うね。 某飲み会に行こうと思って、そうするとせっかく芸術作品について考察するであろう人々にお会いできるわけだから、なにかのお役に立てればとCurrie論文サーベイのレジュメを2部刷ったんだけど、炎天のもと自分の自転車を探し回ったりその自転車に乗って帰宅するとちゅう大雨にはねられて心に大怪我を負うなどしたので、あきらめて自宅で新たなるレジュメを作りはじめました。 ちかぢか就職のためのイベントがあるうえ、アルバイトもたてこんでいるので、思ったより時間がないんだよね。 芸術作品とか社会現象とかになんの興味もないひとにも批評は必要だと思うな、という話は以前書きました。うっかり全可能世界にまで風呂敷を広げちゃったし(なんだその矛盾した風呂敷。ラッセルのお化けが出るぞ)、かなり飛ばしぎみな記事だけど、イーグルトンの影響を受けているつもりです。と、今日お会いでき
よそさまのブログで専門でもない知識を書き散らすほど責任をとれないので、自分のブログで。 「様相実在論」を理解しているというわけでもないけど - finalventの日記 哲学専攻でもない野蛮な理系の学部学生の知識ですが、様相実在論は、一般的には形而上学(存在論)に分類されると思います。様相論理学をうまく構築するためには、可能世界なる概念を利用するのがよいというのは、かなり広く認定されていますが、この可能世界なるものの本性の捉え方については、いろいろ立場があります。その一つがデイヴィド・ルイスの様相実在論で、単なる論理学の便宜上の想定や言語的な虚構ではなしに、可能世界が現実世界同様の身分で実在する(と考えるのが合理的であることを示す)、という立場です。この実在する可能世界は、現実世界とは時間的にも空間的にも因果的にも隔絶している、と考えるのがふつうです。 で、この立場は、たとえばフィクション
id:optical_frogさんからお返事をいただきました: 「応答」未満のお返事:やっぱりたんなる論理的な可能性では足りないと思います - left over junk 論点は「実用論的汎反意図主義」と名づけた私の立場の意義、そしてそれへの対案としてのoptical_frogさんの立場の妥当性の検討に移ってきたと思います。以下、2項に分けて、応答したいと思います。 まとめ(A)について けっきょく、コンパニョンは間違っている 分析哲学のよき伝統のひとつに、相手の主張をより妥当な形に仕上げたうえで、それでも反駁が可能であることを示す、というのがあると思っています。そこでここでも、optical_frogさんの診断どおり、コンパニョンの主張を以下のようなものだとひとまず考えることにしましょう: バージョン 2:実際的な必然性として,テクストの理解において参照される発語内意図が猿やキーボード
さ、それでは、ぼちぼちと、Philosophy of Literatureの興味のある章を訳していこうか。 The Philosophy of Literature: Contemporary and Classic Readings - An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies) 作者: Eileen John,Dominic McIver Lopes出版社/メーカー: Wiley-Blackwell発売日: 2004/02/13メディア: ペーパーバック購入: 1人 クリック: 24回この商品を含むブログ (17件) を見る まずは13章、J.O.Urmson,"Literature" (pp.88-92.)を扱う。初出情報をあげておくとこんな感じ。 J. O. Urmson, "Literature" from George Dic
文学至上主義ねえ……じゃあ、文学ってなんなのさ? http://d.hatena.ne.jp/natume_yo/20080706/1215324139 夏目陽さんへ、第1信 - 雲上四季〜謎ときどきボドゲ〜 http://d.hatena.ne.jp/inhero/20080708/1215529907 いまこそ文学の哲学が望まれている気がする! しかし、Difinition of Literatureの章はそれほど興味ないんだよなー。いちおう、一パラグラフだけ訳出してみる。あまり自信がない場所は原語を併記したので、多少読みづらいかもしれません。ごめんなさい。 (The Philosophy of Literature: Contemporary and Classic Readings - An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies),
optical_frogさんへの応答:実用論的汎反意図主義(汎テクスト論)の立場から - kugyoを埋葬する 上記の記事について、id:optical_frogさんよりお返事をいただきました。以下の記事です: kugyoさんの「応答」への応答 - left over junk このような議論がブログ間で成立しているのはとてもうれしいことです。optical_frogさんは現在もご活躍中の研究者の方とお見受けしますが、そうした方を相手に私が議論できるというのは私にとってありがたいことですし、この議論が虚構論を含む何らかの学に貢献するということにでもなれば、さらに望外の幸運というべきでしょう。 私の拙い論考に対し、2度も反応してくださったoptical_frogさんの懐の広さと、そもそも議論を成立させてくれている(分析)哲学の伝統とに、特に感謝を示したいと思います*1。おかげさまで、ずいぶん
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『あなたのkugyoを埋葬する』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く