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災害への備え
kuriggen.hatenablog.com
ここで忘れてはならないのは、対象aは欲望の原因であり、欲望の対象とは違うということである。欲望の対象は、たんに欲望される対象のことであるが、欲望の原因は、対象の中にあるなんらかの特徴であり、その特徴ゆえにわれわれはその対象を欲望する。それはわれわれがふつう気づかない細部とか癖で、われわれは時としてそれを障害として捉え、この障害があるにもかかわらずその対象を欲望しているのだと誤解することがある。 ジジェク 『ラカンはこう読め!』 怪物の映画もそうなのだが、映画の構造において、そこで示すべき謎の対象が、あるいは凶暴さを発揮するべき荒ぶれた対象、不気味な対象というのが、一つの映画のテーマになっているような場合の話を考えてみよう。これはよくある映画の構造であり、作り方である。映画的時間の中で出遭われるべき対象について、それを如何に示すべきか、どういうプロセスを措いて示すのか、どのような時間、順序に
ラカンの用語で、理想自我と自我理想の違い、という言い方が出てくる。ある意味有名な説ではあるのだが、どうもこれをどう理解すればよいのかという段になると、実は相当難しい話なのではないかと思う。それはラカンの説明の仕方自体が、まず難しいということでもあるのだが。 僕が考えていたのは、これは、ナルシズムとプライドの関係を橋渡しする概念と考えたときに、よく理解できるのではないかと思う。簡単に言おうとすれば、「理想自我」とは想像的同一化のことで、「自我理想」とは象徴的同一化という、自我の捉え方における段階の違いを示すといえる。ナルシズムは、個体的成長にとって、常に自然発生しているものと見なされうる。 原始的なレベルでは、個体の自己認識にとって、神経の統覚的安定がイメージの自己充足的な安定感をもたらすものとして、世界と自己の関係の把握、その鏡像的反映、快感原則を媒介にした統覚の自己安定するレベルとして、
例えば、ジジェクは、自我理想と理想自我の違いについて、このように定義している。 フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる述語を用いている。理想自我(Ideal-Ich)、自我理想(Ich-Ideal)、超自我(Uber-Ich)である。フロイトはこの三つを同一視しがちで、しばしば「自我理想あるいは理想自我(Ichideal oder Idealich)」といった表現を用いているし、薄い本である『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)」となっている。だがラカンはこの三つを厳密に区別した。「理想自我」は主体の理想化されたイメージを意味する。(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思う自分のイメージ)。「自我理想」は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文
土曜日の今村仁司シンポジウムで、桜井哲夫さんの纏めた近代労働論の概観が大変分かりやすかったのだが、会場で配られたレジュメより、ちょっと引用してみよう。 近代に至ると、近代資本主義的市場経済の前提と共に古代的な労働への偏見が崩壊してゆきます。そしてプロテスタンティズムの労働観、ベンジャミン・フランクリンの「タイム・イズ・マネー(時は貨幣なり)」がでてきます。むろんプロテスタンティズムは、この世を徹底して拒否し、享楽を断念して、労働は絶対的に無意味な活動だからこそ、苦役として励むのです。労働を格下げしてみる古代的な点は継承しつつ、それを極大化することで、際限のない勤勉と節約が富を生み、逆説的に労働への蔑視が覆ってしまうというのがプロテスタンティズム倫理なのです。 何かドイツ人的な神経症の姿を髣髴させるような、歴史的な描写にもなりうると思う。あの奇妙なる妄想的教科書のような手記を著してフロイトの
映画『プラネットテラー』において、一個のダンサーだったチェリー・ダーリンが、失った片足の部分にマシンガンを埋め込まれることによって、ファルスを持った女性として生まれ変わるというストーリーのことを考えて、そういえば斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』という本が、やはり同様のテーマを扱った論考であったことを思い出した。ファルスを持った女性の像とは、ラカンによってファルスを持った母親−ファリックマザーとして示されているが、ファリックマザーのストーリーを一般的に紐解いたとき、それは権威を持って共同体を治める女性のイメージなどを示すが、それが特徴的な神話作用を帯びるとき多くの場合、外傷性の過去を有していると云う事がわかる。何かの外傷的なストーリーが転じて−レイプされた過去など、その穴を埋めるものとしてのファルス的な象徴性を、何かの特徴的な形象を媒介にし、女性がイメージし、承認されるようになって、ファリッ
平井玄の書評をネットで見つけて、少し自分自身、回想を思い巡らせてみた事柄がある。 「格差」の話に飽きた人のために この喰って寝て働いて、また喰って寝て書いて生殖して、怒りながら働いて、またまた喰って副作用に怯えながら働いて、寝る。こういうリアリティの中で考え抜くことが「肝」だとますます思うようになった。当たり前だけど。そして肝心の肝臓が悪くて酒飲めないんだけど。そうでなければ、この「透明な牢獄」を抜け出せないだろう。 でもー、いやだからこそ「格差」の話にはウンザリした。なぜなら、俺たちは「仕事」がしたいわけじゃない。「労働」がしたいわけじゃない。「会社」に入りたいわけじゃない。そんなものはみんな、結局「奴隷」になることだからだ。 金も……いやいや欲しいよ、金はねー。とりあえずそれがないと、食う物も寝る所もなくなるから。だから一番腹が立つCMは、あるメガバンク系カード会社のものだ。「お金で買
時代的なサイクルの中で、社会運動というのも、何かのサイクルとして存在している。しかし、運動が何かの間違いを孕んでいるとき、どのようにして社会の人々はそれに気付くのだろうか。そこに何かの誤りが含まれているとき、大抵の人はすぐには気が付かない。それが誤りだとわかるまでには、大抵の場合、幾らかの時間がかかるのだ。前回の左翼運動の時代も、同じ事情だった。そこから約30年近い時代をおいて、今また新しいサイクルが始まりつつあるように見える。しかしこの社会的な新しいサイクルにしても、やはり昔と同じ間違いを繰り返しつつあるのだという事が、次第に了解されつつもある。こんな記事をブログで見つけた。こういった現象は早晩、もう少し裾野を広げることだろう。 ■人生の歯車 その言葉を受けた彼女は、なんとかユニオンに相談した。すると、なんとかユニオンのメンバーが20名ほど会社に押し掛け、「無断欠勤くらいで解雇できない、
80年代には続いてきた個別音楽史の流れがそれぞれ飽和によって繁栄を見ることになる。特にアメリカ黒人音楽の流れは続いてきた個別セクト性を失なわずにしてその最も優雅な繁栄を見ることになる。黒人音楽のセクト性とは何か。社会の中で疎外されていた人間的価値の流れがそこでは、人間同士の上下関係ヒエラルキーもまた鏡に映したように、部族的なユニットに回収され、生と性の享楽は激しくタイプがぶつかり合い、旺盛なる賛歌へと弁証法的な上昇を実現する、舞台的なストーリーへと完結されていく。 黒人音楽のセクト性とは未来的なものがそこでは原始的なものへの郷愁である。あるいはそこでは未来がないとも言える。徹底的に閉じた世界観でもある。部族的な階級関係のユニットにはそこでは進化がない。世界はキングとクィーンの中心から由来して放心円状に広がるものに過ぎない。故に階級闘争とは必須である。 80年代に黒人音楽が完成させた一大オペ
アラン・ソーカルによって、知識の示し方における欺瞞性としてポスト構造主義の何人かの思想家が批判されるという事件は、90年代の終り頃に起きている。ソーカルはニューヨーク大学の物理教授であり、主にそれが自然科学の用語の濫用にあたるというものだった。しかし日本の文脈においては、同じソーカルの言ったような思想の記述を巡る問題性とは、既にずっと早くから、明瞭に指摘されていたものといえよう。何もソーカルの批判、知の欺瞞を待つまでもなく、ポスト構造主義の持つ傾向については的確な批判が指摘されていた。ソーカルの批判は、それをより明確に科学的な水準で我々に了解させたというだけで、同じ問題とは、もちろん最初からあった問題であったのであり、それをどう批判し乗り越えるかという立場を示すロジックとは、日本の文脈で、非常に明瞭な形式で指摘は為されていた。柄谷行人の次のような指摘を見てみよう。 「形式化」は、ポスト構造
最近また急速に、マルクスを沢山読んでいるのだが。僕が前にマルクスを読んでいたのは、もう昔のことで、22歳くらいの時期まで僕はよくマルクスを読んでいたはずである。マルクスを読むと言っても、それをどのように読むのかが問題なのである。最近になってようやく、僕はその読み方が見えてきたという気がしているのである。問題は、哲学史におけるマルクス、認識の歴史におけるマルクスの位置を明らかにすることにある。マルクスを聖書のように読む憐れな人も、僕は結構見てきたが、ああいうのは結果的なトラウマしかもたらさないわけだから。 ICUという東京の市街地中にある僻地の中で(三鷹のエルサレムとか綽名される)、十代の頃、高校生の時分に偏った環境の中ではじめてマルクスというのを読んだ−周囲の環境との関係によって、どうしようもなく逃げ道がなく読まされたのだが−それは経哲草稿だった。しかし、『経済学哲学草稿』−いわゆる初期マ
日曜日は、ナベサクさんid:nabesakuに誘われて早稲田まで文学の講演会を聞きにいった。高橋源一郎と望月哲男のレクチャーで『テクストと読者―<読み>のあり方を問い直す―』というものである。前に高橋源一郎の講演を聞いたのは88年の秋か冬だったから、もうそれ以来、19年ぶりである。特にその間時間がたったという気がしていないのだが、これは僕の感覚がやばいのだろうか?やはりあの時も早大で聞いたのだ。彼が話している問題意識とは、前と変わっていないと思った。この人はやはりこの二十年近くを、同じ問題を考え抜いてきたのだろう。それは「読みのあり方を問い直す」という問題であり試みである。ただ彼の語り口は豊富になった。論理的な明晰さも理論的な統一性もより深みを増した。同じ問題を考え続けてきて、そこに体系的な根拠を示し、重層化して説明しつつ、余裕で高橋源一郎は語っていたのに僕は感心した。そしてその間の時間の
『悲劇』の精神といえば次に来るのは『パロディ』の精神ということだろうが・・・。パロディの精神とは笑いのことである。『Stairway to Heaven』とはかくも広く知られた名曲であるのだが、この曲をパロディ化して演じたビデオで面白いものがあった。まずはフランク・ザッパが彼のバンドでこの曲をパロディ化している。 この人ほどパロディの精神に則った上でそれを上手く実現し切った人も、ロックの世界において、またといないのではなかろうか。フランク・ザッパのもたらす笑いというのは抽象的なものである。音楽を笑い飛ばすこの人の手つきは手馴れたものである。彼は音楽について知り尽くしているので、音楽について殊更真面目になることもない。いつもクールに醒めた目線で、歴史的な音楽形式の一つ一つを批評する、そしてパロディ化することによって、大人数での参加型イベントにまで仕立て上げるのだ。 音楽がただの祝祭にすぎない
進化論を明らかにしたダーウィンは、マルクスから唯物史観の着想に寄与したとのことで資本論の第一巻を献本されたというエピソードがある。もしかしたら微笑ましいエピソードだったのかもしれない。ある種の伝説でもある。しかし当のダーウィンのほうであるが、一体どういう気持ちでそれを受け取ったのだろうか。これはちょっと想像してみたくなる事柄だ。ここでマルクスとダーウィンの間に、実は奇妙な関係が生じているのではないだろうか。それはマルクスがまだ共産主義社会の未来について楽観的な観測をもっていて、自分が書いていることの傾向性とダーウィンの述べていることの傾向性の食い違いについて、何かが気がついていなかったのではないかと考えられるからである。 哲学者としてのダーウィンを捉えなおしてみたときこれが相当面白いのだ。ダーウィンは19世紀のイギリスにて「種の起源」を著すことによってキリスト教の世界観と対立した。地上に存
最近はスピノザをよく読んでる。スピノザは今までも何度かトライしてみたことはあったが、どうも本格的な読みのモードに入れたということはなかったのだ。だから断片的にしか、スピノザの知識はなかった。スピノザといえばエチカということなのだが、この本は読み方が難しいのだ。文庫だと上下二冊だが、比較的薄めの本だし、使われている概念用語も特別難しいものはないはずなのだが、しかしそれでもこの本は、解読するのにちょっとしたコツがいる、簡単そうでいて素通りできない、妙な仕掛けに充ちていて、そう安易には中に入っていけない本なのだ。最近になって僕はようやく、スピノザを理解するコツを掴みはじめたといったところだろうか。 よくスピノチストと謂われる言い方があるが、スピノザの魅力とは何なのだろう。なぜ時折スピノザに対して熱狂的に陶酔する人というのが世には現れうるのだろうか。スピノザといえばエチカということなのだが、この本
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