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パリ五輪
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只今、森鷗外記念館では「鷗外の『意地』のはなし」展開催中です。 大正元年9月13日。明治天皇の大喪の日に陸軍大将・乃木希典が殉死。この事件をきっかけに鴎外は、「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」「佐橋甚五郎」など次々と歴史小説を書き始めました。 翌大正2年には、上記3作品を収めた初の歴史小説集『意地』を刊行。 鷗外はなぜ歴史小説を書き始めたのか。 乃木の殉死の直後に、江戸時代の殉死事件を扱った、まさに殉死小説ともいえる「阿部一族」を書いたのはなぜか。 「観察」「時代背景」「心理描写」に重点を置き、「新しき時代に於ける歴史小説」を試みた鴎外の、時代や社会に向き合う姿に迫った展覧会です。 展示をみたあとは、併設のモリキネカフェでひと休み。 「阿部一族」の舞台熊本産の柑橘類を使った「肥後国ムース」をいただきました。 くまモンのカードまで付いてるww。 かわいい♡ それにしても暑い🥵! 観潮楼の
鎌倉土産「鳩サブレ―」でお馴染みの「豊島屋」。 鎌倉駅前店は「鎌倉の扉になれ!」という願いを込めて、鎌倉文士であった久保田万太郎(明治22.11.7~昭和38.5.6 小説家・俳人)が「扉」店と命名しました。 1階は名物「鳩サブレー」などのお菓子の売店と、「扉店」限定のパン屋さんがありますが、3階は「パーラー」になっています。 ちょっとそっけないくらいの、レトロ感のあるパーラーです。 メニューの扉には「扉」。 コースターにも「扉」。おしぼりは豊島屋らしく鳩ぽっぽです♡ そしてさらに愛らしいことに、ペーパーナフキンにプリントされているのは「鍵」! 「扉」を開ける「鍵」ってことですよね。憎いなあ。 画風(書体?)もレトロで可愛い♡♡ せっかくのレトロ喫茶なのでプリンを注文。 予想どおりのしっかり固めのレトロプリンです。大きく焼いたものをカットしてサーブするスタイル。背後にはまるで由比ガ浜の波を
鎌倉・長谷の「旧加賀谷邸」が、長期の修復工事を経てようやくオープンしました。 工事中、外側から養生で囲まれたお屋敷を見て、まだかまだかと心待ちにしていた「加賀谷邸」。それも「カフェになったりしたらいいなぁ。」なんて思っていたら、なんと本当にカフェになってオープンされたので嬉しさもひとしお。 早速伺ってみました。 「鎌倉 北橋」。きれいに修復されたお屋敷は、和館側がお蕎麦屋さん。 洋館側が珈琲のお店です。 お昼時だったので、まずはお蕎麦屋さんへ。 中はすっきりとした洗練された和の佇まい。 縁側の広々とした窓からお庭が一望できます。 この屋敷には作家の山口瞳(大正15.1.19~平成7.8.30 小説家・随筆家)が住んでいた時期があったのですが、ご近所には川端康成(明治32.6.14~昭和47.4.16 小説家)も住んでいて、家族ぐるみのお付き合いをしていたのだそうです。この素敵な室内でどんな
芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)の「本所両国」(昭和2.5.2~22『東京日日新聞(夕刊)』)最終章は、「方丈記」と題して「僕」「妻」「父」「母」「伯母」の会話形式で綴られていきます。 僕「けふ本所へ行つて来ましたよ。」 父「本所もすつかり変つたな。」 母「うちの近所はどうなつてゐるえ?」 僕「どうなつてゐるつて・・・・・・釣竿屋の石井さんにうちを売つたでせう。あの石井さんのあるだけですね。ああ、それから提灯屋もあつた。」 と「僕」が見聞してきた本所の変貌を、家族が追想と驚愕を交えて聞いていきます。その中で、 父「臥龍梅はもうなくなつたんだらうな?」 僕「ええ、あれはもうとうに・・・・・・さあ、これから驚いたといふことを十五回だけ書かなければならない。」 というくだりがあります。 「臥龍梅」というのは、歌川広重(寛政9~安政5.9.6 浮世絵師)の描いた有名な梅の絵
僕等は「天神様」の外へ出た後、「船橋屋」の葛餅を食ふ相談をした。(「天神様」) masapn2.hatenablog.jp 芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)の「本所両国」(昭和2.5.2~22『東京日日新聞(夕刊)』)の「僕等」一行は亀戸天神に詣った後、参道出てすぐ側にある「船橋屋」へ。 「船橋屋」は江戸時代の文化2年に創業された和菓子処。初代勘助の出身地である下総・船橋の名にちなんで命名されました。 名物の「くず餅」は江戸時代にはもうすでに人気で、亀戸天神の参拝客でお店もたいそう繁盛していたのだそうです。 明治~大正期にかけてこの辺りに住んでいた芥川龍之介も、よく訪れていたようです。「本所両国」には、 船橋屋も家は新たになつたものの、大体は昔に変つてゐない。僕等は縁台に腰をおろし、鴨居の上にかけ並べた日本アルプスの写真を見ながら、葛餅を一盆づつ食ふことにした。 「
神田淡路町にある洋食屋「松栄亭」。 夏目漱石(慶応3.1.5(陰暦)~大正5.12.9 小説家)が食したという「洋風かきあげ」がいただける、明治40年創業の老舗洋食屋さんです。 漱石が、東京帝国大学で教鞭を取っていたフォン・ケーベル邸を、訪れていたときのこと。「何か変わったものが食べたい。」という漱石の要望に応えて、当時ケーベル邸で専属料理人をしていた初代松栄亭主人が、即興で作ったのがこの「洋風かきあげ」なのだそうです。 卵と小麦粉の衣の中に、玉ねぎと角切りの豚肉がゴロゴロ。 ラードで揚げてありボリューム満点のお品。 お腹いっぱいになります。 大きくて食べ応えがあるので、テーブル上のソースやからしを付けて、味変しながら食べるといいと思います。 他にもコロッケやオムライスなど、昔ながらの洋食メニューも人気。この日も近所のサラリーマンたちが、ランチに続々と訪れていました。 池波正太郎(大正12
只今、駒場公園内「日本近代文学館」にて『芥川龍之介展』が開催されています。 今回の展覧会は、日本近代文学館の刊行物『芥川龍之介文庫目録 増補改訂版』の刊行を記念しての展覧会です。 部門構成としては、第一部「原稿と初版本でたどるその軌跡」第二部「旧蔵書に見る知の宇宙」第三部「書画と来簡に見る交友」第四部「生涯」の四部構成。 特に第二部では、芥川の蔵書の中の書き込みや、挟まれていたメモ、押し花などの展示もあり、芥川がその本を読んで何を思い、考えていたかの軌跡をたどることができる、興味深い展示となっています。 同時開催は『川端康成の名作Ⅰ』。 川端康成の文壇デビューから戦中までの前期作品を、原稿や同時代の作家から寄せられた書簡などからクローズアップしていきます。 展示を見たあとは、1階カフェBUNDANで一休み。 いただいたのは、もちろん「ブラジルコーヒーAKUTAGAWA」。 スイーツは、展示
JR山手線の巣鴨~駒込間にある「染井霊園」の先に、「慈眼寺」という日蓮宗のお寺があります。どちらかというと、おばあちゃんの原宿でお馴染みの巣鴨から行った方が近いのですが、あえて駒込で下車。というのも、慈眼寺には芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)のお墓があり、田端に住んでいた芥川家の人々は、隣の駒込からお墓参りに向かっていたからです。 芥川龍之介の妻文(明治33.7.8~昭和43.9.11)は、『追想芥川龍之介』(1975.2.15 筑摩書房)で、 「慈眼寺は染井の墓地の中を通り抜けた所にあります。染井の墓地も駒込から八丁といわれて歩くとかなりの距離ですが、その街を貫く一本道を通るのが好きでした。 何となく昔のおもかげのある街並で、静かでやさしい街です。」 と語っています。 駒込・染井といえば、あの桜のソメイヨシノ発祥の地。 駅にも桜の名所散歩コースの看板が出ています。
両国にある回向院は、江戸時代に起きた明暦の大火(振袖火事)で亡くなった方々を、供養するために開かれた浄土宗のお寺です。 江戸市街の6割が焼失し、10万人もの命が失われた明暦の大火。亡くなった方々ほとんどの身元や身寄りがわからなくなってしまっていたので、当時の将軍徳川家綱(寛永18.8.3~延宝8.5.8 第4代将軍)が、隅田川の東岸に万人塚を設け、大法要を行わせたのがこのお寺のはじまり。「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説く」ことを理念とする当院には、明暦の大火をはじめ、安政の大地震、関東大震災、その他飢饉や水難事故等、さまざまな災害で亡くなった方々の供養塔が建っています。「人・動物に関わらず」ということから、動物の供養塔の多いのも目にするところです。 参道を入ってすぐ、左にあるのが「力塚」。 江戸後期になると、回向院は勧進相撲興行の中心地としても
JR総武線両国駅東口を出て、横綱横丁を抜けると「芥川龍之介生育の地」があります。 左側に、 この案内板。 芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)は、生後約7カ月で母ふく(万延元.9.8(陰暦)~明治35.11.28)発狂のため、ここ両国の地にあった、ふくの実家である芥川家に引き取られ、養育されるようになりました。 龍之介が引き取られた芥川家には、ふくの兄芥川道章(嘉永2.1.6(陰暦)~3.6.27)とその妻とも(安政4.4.11(陰暦)~昭和12.5.14)、道章の妹でふくの姉のふき(安政3.8.29~昭和13.8.4)が住んでおり、龍之介は3人の伯父伯母によって育てられていきます。 母の発狂という不運にみまわれた龍之介でしたが、芥川家ではみな、龍之介を「龍ちゃん」「龍ちゃん」と呼び、たいそう可愛がって育てていたようです。 また、道章は東京市の役人でしたが、芥川家は江戸
三田のお土産として人気の「学問のすゝめ最中」。 販売しているのは、慶応義塾大学東館(東門)隣の「文銭堂本舗」です。 本の形を模した箱の中には、 手付け最中が入っています。 手付けなので皮はパリッと香ばしく、甘さ控えめの餡子は、ちょっと欲張って詰めちゃっても重くならず、とっても美味しい最中です。 詰める作業も楽しい最中。 文銭堂、目印は諭吉のお顔です。 三田にお越しの際は、ぜひどうぞ。 オンラインショップはこちら↓ bunsendohompo.raku-uru.jp 文銭堂本舗 三田店 東京都港区三田2-13-9 ☎0334516604 https://bunsendohompo.com 営業時間 10:00~17:00 定休日 日曜日 祝日 ランキングに参加しています。ポチっとしていただけると嬉しいです。 ご覧いただきありがとうございました。 にほんブログ村 本・書籍ランキング
慶応義塾大学三田キャンパスの南校舎隣り、稲荷山にある「三田演説館」は、日本最古の演説会堂です。 演説、スピーチ、ディベートというと、今では自分の意思を多数の相手に伝える手段として広く行われていることですが、日本に初めてこの方法を伝えたのは、福沢諭吉とその門下生たちでした。 西洋で行われている演説を、日本に広める必要性を強く感じた福沢諭吉は、明治7年に三田演説会を組織し一般に公開。演説や討論の仕方の手ほどきを記した書籍等を発表し、普及に努めました。スピーチを「演説」、ディベートをと「討論」と翻訳したのも福沢です。 日本初の演説会堂となるこの三田演説館は、明治8年5月1日に開館。 建物は、木造瓦葺、なまこ壁という、和風建築の手法によっていますが、図案はアメリカから取り寄せた洋風建築の手法が取り入れられた、和洋折衷建築になっており、明治初期の珍しい建築遺構となっています。 福沢は晩年、 其規模こ
東京メトロ有楽町線新富町駅からすぐ、築地橋を渡った京橋税務署の角に「新富座跡」があります。 新富座は、江戸三座(中村座・市村座・森田座)のうち、森田座を守田座と改称し、明治5年に12代目守田勘弥が、浅草猿若町から京橋新富町に移設し開場した歌舞伎劇場です。 「新富座」と改称したのは明治8年。 市川団十郎、尾上菊五郎、市川左団次などの名優を集め、積極的な興行をしましたが、明治9年、京橋区数寄屋町から始まった大火で類焼してしまいます。 けれども明治11年には、ガス灯などの設備を備えた近代的歌舞伎劇場として再建。 太政大臣や各国大使を招く、盛大な西洋風落成式が華やかに行われました。 (三代目歌川広重「東京名所之内 第一の劇場新富座」『東京都立図書館デジタルアーカイブ』) またさらに新富座は、西洋の劇場にならって夜間興行を行ったり、イギリスのエドワード・ブルワー・リットン(1803.5.25~187
東京メトロ日比谷線築地駅を出てほど近い、築地2丁目11番地辺りに「築地小劇場跡」があります。 築地小劇場は、今からちょうど100年前の大正13(1924)年に開設された、日本で初めての新劇の常設劇場です。 100坪弱の平屋建て、468の客席を持つこの劇場は、ドイツの演出家マックス・ラインハルト(1873.9.9~1943.10.31 俳優・舞台監督・演出家)の小劇場をモデルに作られた、ゴシック・ロマネスク様式の建物で、内装・外装共にグレーで統一された洒落た建物でした。 電気を用いた世界初の照明施設を持ち、高い天井にクッペル・ホリゾントと呼ばれる湾曲壁、可動式舞台を備える、「演劇の実験室」とも呼ばれる非常に斬新な劇場でした。 劇場がこのような形になったのは、ドイツで演劇修行をしていた土方与志(明治31.4.16~昭和34.6.4 演出家)の提案によるもの。劇場設立の資金全額を提供したのも土方
慶応義塾大学三田図書館旧館八角塔脇の小道を入っていくと・・・(入っていいんだろうか?と、一瞬躊躇してしまうような裏道感のある所ですが・・・入っていいんですw) 何やら小高くなっている所があります。 ここは「文学の丘」(丘?っていうか、石が積まれ土がこんもり盛り上がっているだけのような・・・いや、でも丘なんですw)。慶應ゆかりの文人たちの、文学碑や石像の並んでいる丘です。 まず目に入ってくるのは、吉野秀雄(明治35.7.3~昭和42.7.13 歌人・書家)の歌碑。 図書館の 前に沈丁咲くころは 恋も試験も 苦しかりにき 群馬県高崎出身の吉野は、『福翁自伝』(福沢諭吉 明治31.7.1~32.2.16 『時事新報』)に感銘を受け、慶応義塾大学理財科予科から経済学部に進学するも、病気のため中退。独学で国文学を学び、正岡子規(慶応3.9.17(陰暦)~明治35.9.19 歌人・俳人)らのアララギ派
横浜山手の港の見える丘公園、神奈川近代文学館の隣、沈床花壇の前に、とても特徴的なデザインの、赤いレンガタイルの洋館が建っています。 この建物は「大佛次郎記念館」。 横浜の出身の作家大佛次郎(明治30.10.9~昭和48.4.30 小説家)の記念館です。 (大佛次郎) 大佛次郎は、横浜英町(現・中区英町)に生まれました。この記念館のある港の見える丘公園から、谷戸坂を下った先にある、山下公園前のクラッシックホテル「ホテルニューグランド」に仕事場を置いたり、結婚したのち鎌倉に居を定めるなど、神奈川にゆかりの深い作家、まさに神奈川が生んだ小説家です。 「大佛次郎・おさらぎじろう」というペンネームも、鎌倉に由来します。そう、あの鎌倉といえばの、長谷の大仏様です。 なんでも、大仏のある長谷の高徳院裏に住んだとき、本物の大仏が太郎だから、自分は次郎にした。「大佛」の読みは、鎌倉北条氏一族が、この土地に住
横浜港の見える丘公園奥にある「神奈川近代文学館」では、只今コーナー展示「没後50年 大佛次郎展ー戦後の仕事」展開催中です。 (大佛次郎展)神奈川近代文学館では12/2から常設展と併設で「没後50年大佛次郎展―戦後の仕事―」を開催。 チラシをゲット。「天皇の世紀」を読むと命とは何なのか。考えさせられます。えっ?そこで切腹しちゃうの?事実は壮絶です。#大佛次郎 #天皇の世紀 #パリ燃ゆ pic.twitter.com/rCZjVQkpCC — かなぶん@神奈川近代文学館 (@Kanabun84) November 23, 2023 「鞍馬天狗」シリーズでお馴染みの大佛次郎(明治30.10.9~昭和48.4.30 小説家)は、横浜で生まれ、昭和4年から終生鎌倉で過ごした、神奈川にゆかりの深い作家です。 本コーナー展示では、その没後50年を記念して、隣接する「大佛次郎記念館」の所蔵品も合わせ、約1
田端文士村記念館横の江戸坂を上って、コンビニの角を右折し進んで行くと、 右手に「そば処浅野屋」というおそば屋さんが見えてきます。 ここは芥川龍之介が贔屓にしていた、といわれているおそば屋さんです。 創業は大正5年。芥川が田端に住み始めたのが大正3年なので、その2年後に開業したお店ですね。 店内は、どこか懐かしさのある、落ち着いた暖かみのある雰囲気。 芥川が好んで食べていたのは、天ぷらそばだったのだそうです。 こちら↑が「上天ぷらそば」。 大葉とかぼちゃと茄子の天ぷらがひとつずつ、大きな海老の天ぷらが2本入っています。結構なボリューム。出汁は濃い目の関東風。冷えた体に、熱いおそばが染みわたります。 浅野屋さんは、鉄道模型のあるそば屋としても知られているそうです。 田端にはたくさんの文士が住んでいたので、芥川の他にも訪れていた文士・芸術家がいたかもしれませんね。 田端文士村散策の休憩に、ぴった
改修工事のため、4月から休館していた田端文士村記念館が、11月から再開館しています。 再開初の企画展示はやっぱりこの人、田端のスター芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)です。 (芥川龍之介) 今回の企画展は、『古典的作品の再現者 芥川龍之介「宇治拾遺物語」から「千夜一夜物語」まで』展。 芥川には「羅生門」(大正4.1.1『帝国文学』)や「地獄変」(大正7.5.1~22 『大阪毎日新聞』)をはじめ、「かちかち山」や「桃太郎」(大正13.7.1『サンデー毎日』)などのお伽噺等、古典を材料にした小説が多数あります。 本展は『宇治拾遺物語集』から『千夜一夜物語』まで、和漢洋の古典に精通した芥川作品の魅力を、「古典の再現者」という視点から紹介する企画展です。 また、これまで雑誌未掲載とされていた「三つの指輪」の掲載雑誌が、当館研究員によって『體性』(第四巻第六號)であると特定され
本郷、言問通りから別れる暗闇坂を入っていくと、東京大学弥生門のほぼ斜向かいに見えてくるのが「弥生美術館 竹久夢二美術館」。 1984年に、弁護士鹿野琢見(大正8.4.15~平成21.10.23 弁護士)によって創設された、私設の美術館です。 鹿野琢見は9歳の時、当時一世を風靡していた挿絵画家高畠華宵(明治21.4.6~昭和41.7.31 画家)の絵を見て大いに感動。長じて後、戦中戦後華々しい活躍ができなくなり、すっかり生活に困窮していた華宵に手紙を送ったのをきっかけに、半ば鹿野が華宵を支援するような形で、2人の交流がはじまります。華宵亡きあとは、鹿野が華宵作品の著作権を得ることになり、この「弥生美術館」が開設されました。 鹿野(右)と華宵(左)。 3階建ての小さな美術館。 1・2階の展示室では、大正から昭和にかけて活躍した挿絵画家の作品をはじめ、挿絵、雑誌・漫画・付録など、当時の出版美術に
現在、千駄木団子坂上の森鷗外記念館では、『千駄木の鴎外と漱石~二人の交流と作品を歩く』展開催中です。 明治を代表する二大文豪、森鷗外と夏目漱石。 二人が実際に会ったのはほんの数回でしたが、互いに意識し合い、才能を認め合い、自著を贈るやり取りや、そのお礼の手紙のやり取りなどの交流は、細やかにあったそうです。 また期を異にして、偶然にも二人が住んだ千駄木58番地の家、通称「猫の家」(漱石がこの家でデビュー作「吾輩は猫である」を書いたことからこう呼ばれる。詳しくはこちら↓)や、 masapn2.hatenablog.jp 千駄木を舞台にしたそれぞれ小説、その登場人物らの交錯から、二人の関わりをこの展覧会では、丁寧に紐解いていきます。 私的には今回この展覧会を参観して、とても驚いた発見がひとつあって、それは何かというと、「猫の家」に鴎外が住んだ後、漱石の住む前の期間に、なんと芥川龍之介が晩年「越し
江ノ電長谷駅を海側へ出て、極楽寺方向へ進んで行くと右手に、まるでタイムスリップしたかのような、古色を帯びたお店が見えてきます。 「力餅屋」。 創業は江戸元禄年間の、由緒ある和菓子屋さんです。 平安時代の武将、権五郎景政の武勇を伝え偲ぶよすがにと、代々伝えられてきた「権五郎力餅」が名物。近くには権五郎の御霊を祀った御霊神社もあります。 「権五郎力餅」。 つきたてのお餅に、控えめな程よい甘さのこし餡が載っています。 箱にきっちり詰まっていますが、ひとつひとつは小ぶりなお餅です。 餡とお餅のバランスがよく、何個でも食べられてしまいそうです。 この権五郎力餅は、鎌倉文士たちにもこよなく愛され、大正5年、横須賀海軍機関学校に英語教師として勤めるため、東京田端から鎌倉に移り住んだばかりの芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)は、友人久米正雄(明治24.11.23~昭和27.3.1 小
江ノ電長谷駅から大仏に向かう手前にある長谷寺。 天平8年創建の、いわずと知れた鎌倉有数の名古刹。 紫陽花寺としても有名で、修学旅行や遠足の子どもから外国人観光客まで、人足の絶えることない人気のお寺です。 そんな多くの参拝客で賑わう長谷寺の、入り口入ってすぐの所に、ほとんど誰も見向きもしない像がぽつんと立っています。 久米正雄(明治24.11.23~昭和27.3.1 小説家)の胸像です。 久米正雄は夏目漱石(慶応3.1.5(陰暦)~大正5.12.9 小説家)の門弟で、同門の松岡譲(明治24.9.28~昭和44.7.22 小説家)と漱石の娘筆子をめぐって、三角関係の恋に破れてしまったことでも知られる作家ですが、なぜこんな所に久米正雄の像があるのかというと、今からちょうど100年前、大正12年に起きた関東大震災のとき、久米がちょうどここ鎌倉は長谷に滞在中で、長谷寺に避難しにきていたのだそうです。
京王井の頭線駒場東大前駅からほど近い、駒場公園内にある「日本近代文学館」。 明治以降の日本文学の資料を、収集・保存・展示する資料館です。 所蔵品は、9万3千点余りの原稿や草稿、日記、遺品、48万冊を超える書籍、2万8千タイトル60万冊を超える雑誌という膨大な量を誇り、芥川龍之介文庫や太宰治文庫、志賀直哉コレクションや有島武郎・生馬コレクションなどなどの、文庫・コレクションも160を超える豊かさです。 資料のほとんどが、作家や遺族、出版社からの寄贈によるものなのだそうです。 一般向けの公開講座や、文学館職員・大学院生対象の文学館演習などの教育活動も盛んで、展示室は通年開設。季節によって展示内容が変わり、春と秋には特別展も開かれています。 近代文学館の開館は昭和42年。同公園内の旧前田侯爵邸洋館も、近代文学博物館として同時開館し、展示を行っていましたが、残念ながら現在博物館は閉館。展示は近代文
薮下通りを下り切り、根津裏門坂に突き当たると左右が日本医科大学。 masapn2.hatenablog.jp 右手本郷通に向かって坂を登って行き、日本医大前の信号(一炉庵という和菓子屋がある所)を右折し、進んで行くと日医大同窓会橘桜会の建物の敷地内に、「夏目漱石旧居跡」があります。 ここは、夏目漱石(慶応3.1.5(陰暦)~大正5.12.9 小説家)がイギリス留学から帰国した明治36年の3月から明治39年12月まで暮らした家があった所です。 漱石がこの地に暮らしたのは、わずか3年と10カ月でしたが、この地は漱石の作家デビューの地。あの「猫伝」こと「吾輩は猫である」(明治38.1~39.8 『ホトトギス』)が書かれた場所になります。 そのためこの旧居跡は、別名「猫の家」「我猫庵」とも呼ばれていて、「猫伝」の主人公である猫の「吾輩」と、飼い主である苦沙弥先生の住む家のモデルとなったのも、ここに
横浜港の見える丘公園奥にある「神奈川近代文学館」では、只今『「おまけ」と「ふろく」展ー子どもの夢の小宇宙』開催中です。 (おまけ展情報)神奈川近代文学館では7/29~9/24まで「『おまけ』と『ふろく』展-子どもの夢の小宇宙」を開催します。 ポケットにグリコのおまけを詰め込んでいた子供の頃が懐かしいな。チラシをゲット。 会期後半に北原照久氏の講演会も開催予定。#おまけ #ふろく #北原照久 #グリコ pic.twitter.com/8bc3CR0ICO — かなぶん@神奈川近代文学館 (@Kanabun84) June 10, 2023 子どもにとって、身近でささやかな宝物であるお菓子や雑誌の「おまけ」や「ふろく」。 本展では、明治半ばに創刊された幼年雑誌の紙の組み立て付録から、戦後の野球カードや仮面ライダーカード、別冊の漫画や探偵グッズなどなど、子どもの夢や憧れの詰まった「おまけ」と「ふ
自由が丘駅正面口を出て右、お洒落なショップ建ち並ぶカトレア通りを、5分ばかり進んで行くと、ふと駅前の喧騒が晴れ、静かな住宅地の趣になり、右手に落ち着いた古民家が現れます。 突然、タイムスリップしたかのような景色。とても自由が丘とは思えない異空間です。 ここは「古桑庵」という茶房ギャラリー。 小説家松岡譲(明治24.9.28~昭和44.7.22 小説家)と友人の渡辺彦が、隠居後2人が楽しむ茶室として、昭和29年に作った建物です。 かつては住居として使われていたそうですが、平成11年に人形作家の渡辺芙久子が茶房としてオーブン。現在は、彦の孫で芙久子の娘にあたる方が、引き継いで運営しています。 「古桑庵」という名は、松岡譲が命名したもの。 松岡譲は、芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)、菊池寛(明治21.12.26~昭和23.3.6 小説家・劇作家)、久米正雄(明治24.11
慶應義塾ミュージアム・コモンズにて、ただいま「うさぎの潜む空き地 鏡花のお気に入りたち」展開催中です。 今年の干支である、卯にちなんだ展覧会。 泉鏡花(明治6.11.4~昭和14.9.7 小説家)は、向かい干支がうさぎであったことから、たくさんのうさぎ雑貨をコレクションしていました。 向かい干支とは、自分の干支から数えて7番目の干支。ちょうど時計回りに干支を並べていって、自分の干支と反対側にある干支のことを指します。 向かい干支は、裏干支、逆さ干支、守り干支とも呼ばれ、これをあしらった物を持つと幸福が訪れるという慣わしがあり、鏡花は最愛の母鈴から、水晶のうさぎを貰い受けたことから、うさぎグッズを蒐集するようになりました。 当展覧会では、慶應義塾で保存してきた鏡花のコレクションのほか、「不思議の国のアリス」や「ウサギと亀」など、古今東西のうさぎにまつわる書物・物品を、テーマに沿って展示してい
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