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ドラクエ3
massarassa.hatenablog.com
えらそうに仕事で忙しぶって、ブログを書かなくなってしまった。 このブログを始めた2016年は25歳のニートで、ここだけがよりどころだった。停滞した日々でよどんでしまった頭の中。文章を垂れ流すことで、日常が動きだし、頭の中も流れ出し、濁りは少しずつ消えてった。結局、就職することもなく、フリーライターになって運良く途切れない仕事の依頼をこなしていたら、2023年も半ばに33歳になった。 33歳!おそろしい!部下も上司も同僚もいたことないから、この年齢だと社会的にどのくらいの立ち位置なのかわからず、未だに若手みたいな自覚で仕事してきた。けど、もういいかげんキツいっぽい。 大学を卒業してから、どこにも所属したことがないので、ライターとしても社会人としても基礎がないなと思う。それでもそれなりに働けてる自分の状況を、ちょっと前までは肯定的に捉えていた。「俺、よくやってるじゃん」と思ってた。でも歳を重ね
1 「NEVER TRUST ZOC」ツアーファイナル武道館公演を最後に卒業した香椎かてぃは、「私にとってZOCは青春でした」と話した。泣きながら手紙を読みあげるかてぃの言葉は率直でいたたまれなかった。 「毎日このまま時が止まればいいのにな、と思いながら、メンバーの顔を見るのが好きでした。 小さいライブハウスから、毎日いろんなことで悩んで、喧嘩して、笑って、炎上して、慰めあって、ちゃんと好きと言い合えたあの頃は、何度振り返っても大好きな毎日でした。 新体制になるたびに、「大丈夫、まだいける」何度も自分に言い聞かせていたのですが、どんどん変わっていく環境に着いていけなくなりました」 ぼくはこの日を迎えるまで気づいていなかったけれど、メジャーデビューが正式に決まる頃にはもう既に、ZOCの青春は終っていたのだろう。 大森靖子は、ZOCメジャーデビューについて次のように語っていた。 「自分が音楽で
憧れはありつつも、とっかかりが分らない、ある程度“勉強”したら現場に行こう、と思いながら、ずっと放置してきたのが歌舞伎だ。 一方で、歌舞伎の側が大衆に開かれた試みをすると、鼻白む自分もいた。「ワンピース歌舞伎」や「ナルト歌舞伎」だなんて、あまりにも媚び売りすぎだろう、伝統芸能にはもっと泰然自若としていてほしい、大衆に擦り寄らないでくれ、みたいな。「伝統芸能」は“高尚な芸術”で、だからこそそれを知ることは教養に繋がる。なのに、その“芸術”の方から下々に媚びへつらうなんてガッカリだよ、というような。 伝統芸能と少年漫画のコラボへのなんとなく感じていた違和感を言語化してみると、こんなふうになる。僕は無意識に、伝統芸能は上等、少年漫画を幼稚なもの、というように分けていた。それはもちろん伝統芸能にも少年漫画にも親しまないで生きてきたから生まれた誤解だ。 あらゆる場所に線引きの誘惑がある。しかし歌舞伎
2歳を目前にした娘は最近、夜なかなか寝てくれない。ベッドに連れていっても1時間くらいは平気で起きてる。今夜は妻がZoom飲み会に興じているから、僕が寝かしつけをする。案の定全然寝ない。寝かしつけの無為な時間にしばしば苛立ってしまう僕だが今夜は機嫌がいい。初夏の気候が気持いいからか、それとも妻が早めの誕生日プレゼントに財布をくれたからかは分らないが機嫌がいいのだ。機嫌のいい僕は、ベッドではしゃぎ回る娘にも余裕で付合える。 娘がおもむろに「あめあめふれふれ かあさんが〜」を口ずさみながらあぐらをかきはじめた。その姿を見た僕がふと「おしゃべりでもしよっか」と声をかけると、彼女は「うん!」と首を縦に思いきり振った。眠れない夜の暗がりのなかでお喋りするのはいつだって楽しいものだ。そんな夜を娘と過ごせるようになったのかと思うと少し胸が高鳴った。 今日はなにしたの?と聞くと、「きゅうり食べた」「バナナ食
保育園に娘を預けるようになってから、この国の3連休の多さに気づいた。「3連休」には「休む」という言葉が入っていますが、ぜんぜん休みなんかじゃないですね(©小泉進次郎)。 子供が家にいると、家事すらままならなかったりする。買物に行くのも億劫だ。自分の身支度すら面倒なのに娘も着替えさせるのはしんどいから、おでかけもほとんどできてない。しかし天皇誕生日を挟んだ今回の3連休は、2回も娘を公園に連れていけた。多分、春の近づきを無意識に体が察知していたんだと思う。娘と外に出てみようという気になった。公園にいる娘はいつも地面に夢中だ。ほっとくとずっと小石を探しては手に入れている。いつもは陽気でよく笑う娘だが、公園ではいつもしかめっ面で腰をかがめ地面に見入っている。庭いじりじじいのような趣。渋い。 娘の見つけてくる小石は、他の小石よりつるつるしていたり光沢があったりユニークな形をしている気がする。しかし俺
我が家に関しては、台風19号はあっけなく去っていった。昨日はミネラルウォーターやカップ麺、娘のベビーフードやオムツを買うために町をうろつき、溜まっていた洗濯物をある程度片づけたりして疲れたけれども、まあ大事に至らなくてよかった。1歳5ヶ月の娘を連れて避難生活なんて、想像するだけでうなだれてしまう。 でも、どこかで全てが吹っ飛ぶことを淡く期待していたりもし、このアンビバレントな気持をもてあましているうちに、一日は終わってしまった。 生まれてから20年間沖縄本島に住んだが、沖縄を通過する台風はとにかく遅かった。今回の台風の場合、関東に来るころには時速30キロくらいだったので、暴風域が広いとはいえども、雨はともかく風の強い時間は2〜3時間くらいではなかったか。でも、沖縄を通過時の台風の速度は「時速10キロ」はザラで、「ゆっくり」なんて表記も珍しくない。丸一日暗い嵐のなかにいる。そんな子供のころは
大森靖子さんの生誕祭に行った。 2016年がはじめての参加だったから、今年で4回目。2016年の大森さんは29歳だった。今年は僕が29歳。なんだか途方も無いものを感じてしまう。今年、大森さんは32歳。 生誕祭に毎年出演するジョニー大蔵大臣さん(水中、それは苦しい)とぱいぱいでか美さんは、毎年ここでしかパフォーマンスを見ていないのもあって、毎年恒例行事感が増す。生誕祭の帰り道にいつも口ずさんでしまうのは「PAINPU」だったりする。 そういえば「芸人の墓」も聞きたかったな。水中、それは苦しいのライブ見に行くしかない。 毎年ここでしか会わないふたり(ぱいぱいでか美さんは、ビバラポップでも見れるようになったのだった)のパフォーマンスを見てると、その明るさとは裏腹になぜか「死」を感じてしまう。毎年着実に死に近づいていく僕らという限りある存在が意識されてしまう。ジョニーさんもでか美さんも、盆正月に会
大森靖子が生んだZOCのZepp Tokyoでの1st ワンマンライブ「We are ZOC」は、想像をはるかに上回るクオリティとエモーションをぶちまけていた。その最大瞬間風速は、あらゆる呪いやしがらみ、過去をねじ伏せて旋風を巻き起こす彼女たちは、高純度の「今がいちばん幸せ」を体現していて、まんまともらい泣きさせられた。彼女たちのその幸せがいつまでも続くことを祈ってしまう。これがアイドルを推すということか、と気づいてしまった。 誕生の瞬間を知っている唯一のアイドルグループ「ZOC」のライブを見るのはこの日が3回目。1回目は去年9月18日に行われた大森靖子の生誕記念ライブでのお披露目だった。 はじめてのステージでは、大森靖子の既存の楽曲のみをパフォーマンスしていたZOC。そのときのライブを僕は次のように感想していた(書き残しておくってほんと大事だな)。 大森靖子の歌を体を使って表現する行為は
6月18日夜 Twitterでいくつかのアカウントに対して、フォローしてしばらく経つとうんざりしてアンフォロー、うんざりが落ち着くと再びフォロー・アンフォロー……というのを何遍も繰り返している。きっとそのアカウントの人は「またこいつフォローしてきやがった」とか思ってるはず、そんなにフォロワーの多い人ではないから。僕は「うんざり」させられたくて、そのアカウントをフォローしたり外したり繰り返しているんだろうか、誰かにうんざりすることで、自分の輪郭を捉え直しているのだろうか。そんな理屈すらない、なんだかただの癖だなあ。そいつのことを昨日は良いように思ったり、明日は悪いように思ったりする、ってだけ。 昨日くらいから著しく体調が悪くなり、ずっと横たわってるってな具合で、何も手につかない。でも、それくらいの感じ、生活やら仕事やらもうどうでもいいやって気分のときに、僕は文章書きたくなるらしい。生活礼賛は
この人生に決断なんてものがあったろうか、と少し考えてしまったけれど、僕はたしかに決断してた、娘の出産について、だ。 僕は今、あの決断の先を生きているんだった。 妊娠発覚当時、妻は40歳になったばかりで高齢妊娠だったし、僕と出会うよりずっと前に経験した手術によって妊娠しにくい体質になったと聞いていた。 だから、妊娠を知ったときは驚いた。“いつか”も“そのうち”も考慮していなかった僕らにとって、その妊娠は青天の霹靂というほかなかった。 検査薬を使って妊娠を知った妻(当時婚約者)が僕にそれを告げるとき、どんな顔をしたか、僕はほとんど覚えてない。 彼女が妊娠検査薬を使ったのはライブハウスだった。一緒に行った大森靖子の生誕祭の日、彼女はひとり下北沢GARDENのトイレで妊娠を知り、僕に告げることなくそのライブを過ごした。妊娠してるかも、と思いながら、でもその事実を誰にも告げぬままライブを見る心境は想
こないだ娘の1歳を記念して「一升餅」という催しをした。まだろくに立てない・歩けない1歳児に一升の餅を背負わせ、一定距離移動するのを見届けるお遊び。「一升」と「一生」をかけて餅を持たせ「一生食うに困らない」という願掛けをするのが趣旨らしい。大抵の子は生まれてはじめての重みに泣くという。 娘はまだ立てないので、四つんばいになっているところへ風呂敷に包まれた餅を背負わせた。正確にいうと、背負わせたのは僕ではなく、妻と友人だった。娘はもちろんおびただしく泣きながら、這い、進む。その様子を総勢12人で見た。妻と僕以外に10人もの人が、娘の泣き様を見に、集まってくれたのだった。 「娘のお誕生会やるからきてください」というのはなんだか気がひけるし、「プレゼントあげなきゃ」と気を遣わせてしまうが、「『一升餅』するので酒飲みがてらお暇なら来てください」というのは、エクスキューズとして大変よろしいと思っての催
自分がどう見られるか気にしすぎた結果、自分は人から見られてない、という嘘へ逃避。誰も俺のことなんて見てないから……と心のなかで宣言すると少しだけ気持がラクになる。でも実際は見られてるんだよな。「誰もおまえのことなんか見てないよ」はダウト。誰かが必ず見てる。 俺の自意識過剰の行く末は堕落だった。人の目を気にすると、自分が透明になっていく。ほんとうは自分で自分を見つめなければならなかった。俺は俺をどう見るか、スタートはそこからだった。俺は他人に自分を預けすぎた。 日付変わって29歳になる。20代最後の1年の抱負は「シラフでクッソ生きてやる」に決めた。昨日Twitterで「キレートレモンサワー」を見かけたのと、今日あるCM撮影にエキストラ参加した結果、強くそう思った。 我々をあの手この手で飲みこもうとする最近のアルコール業界が呪わしくなってしまった。俺らを酔わせてどうするつもりだ!なんてことを酔
すごく悔しいことがあって、花粉症の薬をもらいに病院へ行った帰り道はずっと、いつか手にいれた星の数を数えて自分を慰めた。 俺は嫉妬や羨望の感情が強い。「なんであいつがもてはやされるんだ」「俺のほうが全然いいのに」「俺もあの人みたいにちやほやされてえよ」……そんなことばかり言ってる、自分と人とを比べてひがむ、そんな物言いがすっかり染みついて、羞恥もなくなってしまったほどだ。 以前、友人に「妬んだり羨ましがったりするのって『自分もそれに値するのに与えられてない』という不満があるからだよね」とたしなめられたことを思い出す。なんにも行動を起こしちゃいないのに、嫉妬したり羨ましがったりしてはいけなかったのだ。 自宅に帰ってから妻に「俺の文章のいいところ教えてくれ」と泣きついたら「今日は絶対そういうこと聞いてくるんだろうと思った」と笑ったあとで叱られた。 「駄目だよ、そうやってインスタントに肯定感得ても
相談したことがない。 中学や高校での進路相談も、行きたい学校は決まっていたので相談することはなかった。親も「自由にしなさい」というタイプだったので、進路についてはそれほど話した記憶がない。 行く先が決まっていれば勉強するだけだ。勉強方法を聞くってことはありえたのかもしれないけど、学校の先生と親しく話せたのは小学生のときが最後で、小学生のときはさほど勉強しなくても授業には着いていけたので、先生に直接指導してもらうことはなかった。 浪人時代の予備校の先生はとても親身に指導してくれたけれども、それも俺が「どうしたらいいですか?」と教えを乞うわけではなく、先生から個別指導を申し出てくれたり、課題を出してくれたら、導いてくれていた。 大学でも恩師になるような人とは出会えなかった。それは俺が積極的に学問に励まなかったから。 サークルも2年生の夏休み前に辞めたし、バイトもしていなかったので、先輩も少なか
結婚してよかった、自分が汚い人間だってこと嫌というほど知れたから。 「愛はあるよ」のあいことばをずっとしっかり唱えつづけたい、家族を守るだなんて思っても、家賃もろくに払えない夫で父だけれど。こないだまで滞納していた年金は、死んだ母がコツコツ貯めてくれたお金を崩して払った、それでもまだ、働かなくても2年は家族3人生きていけそうなお金が残った。母と父が生きて稼いだお金。俺は娘にこれだけのお金を遺してやれるんだろうか。当時の父の年収を知っている、今年還暦を迎えてしまった彼の年収は去年、記憶の数字の半分以下になっていた。転居の際、保証人になってもらうべく電話したとき聞いたのだ、驚いた。しかし、俺の年収はそのまた半分以下、情けないな。 書くのが辛くなってきたのは、書くことが生きることになったから。親指の軌跡が人生を暴いていく、筆記という名の自傷行為。その傷あとを見て傷つく人までいる、ごめんなさい、そ
いつになく年の瀬の空気を感じられなかったのは、おそらく主夫になって子育てを始めたから。これまでの年末年始は、帰省すれば「おもてなし」してくれる母のおかげで年の瀬感をだらだらと享受できたし、母の死後も地元の友人と忘年会をすればなんとなく引き締まったものだった。 妻と出会ってからというもの、年越しは常に一緒にいるが、最初の年は大森靖子のカウントダウンライブに行くことで初めて東京で年越しを経験したし、2017年の年の瀬は、翌年子供が生まれる予定だったこともあって、「これまで/これから」をいつも以上に意識する区切りとなっていた。 しかし、いざ子育てが始まってみると、そんなふうに年が改まることに思いを馳せている余裕がない。寝正月をしようなんて思っても子供はいつもと同じようにミルクを欲しがり、出すものを出すから対応する。風呂に入れるし、寝かしつけもする。時間という観念に頼らなければ生きられない俺とは違
世の中にはびこる悪を撮ることと、人間がふだん隠している悪をわざわざ引き出して撮ることはまったく別ものだ。撮影者がはたらきかけなければこの世に生まれなかったはずの悪が現実に露出してしまったのならば、その悪と闘わないまま撮りっぱなしで終わるのは責任放棄じゃないのか。 「モンスターハウス」の結末にはがっかりしてしまった。あくまでも恋愛リアリティーショーの枠を借りて、クロちゃんという哀しきモンスターの悲恋を見るものだと思って楽しく見ていたこの企画。しかし、同時進行でふたりの女の子を口説くクロちゃんを「許せる/許せない」の二択で「国民」みんなで裁こうという落としどころを「水曜日のダウンタウン」は採用してしまった。これってけっきょく不倫を糾弾するマスコミと遠く離れていない。人の恋愛のやり方には、あまり口出ししないほうがいい。ましてや裁きを与えるなんて気味が悪い。 クロちゃんはカメラに撮られても一切気に
1ヶ月ほど前、いくつかの保育園を見学した。来年4月の入園のための申請期限が11月のとある日に設けられていて、慌てて何件か見てまわった。 公設の園は広く、思想が薄く、それが僕には気持ちよかった。だから、第一希望から第三希望までは公設公営あるいは公設民営の保育園を並べ、それ以降に私立を置いた。僕は、個性的な私立よりも、凡庸な公立を好む。 とある私立の園は、オーナーが保有していた家屋を改装したものだった。そこの園長は柔和な表情で園を案内してくれた。それまでに見てきた公設の保育園とは違い、身もふたもない言い方をすればオーガニックでアットホームな園。端的に言えば、苦手だった。この保育園に娘を通わせたら最後、マクドナルドに行くのをためらってしまいそうだった。誤解してほしくないのだが、その園自体は志が高く、とてもよかったのだと思う。しかし、我が家には、いや、僕には合わなかったのだ。毎日自宅で与えた夕飯の
いまの俺は人生でもっとも大森靖子の音楽を必要としているときなんだな、ということがわかったツアーファイナルだった。 『クソカワPARTY』というアルバムにはこの1年で結婚し、出産・育児に突入した俺(と妻)にとって大切な言葉が詰まっている。 特に、《薬指の心を運命とかにあげても わたし残り9人も わたしをぶら下げている》(わたしみ)、《心は“ひとりひとつ” 付き合おうがまぐわろうが歌おうが結婚しようが なんとなく“ふたりがひとつ”そんな気になれるだけ》(きもいかわ)、《私のかわいいと こどものかわいい それぞれ尊くて何が悪い 全てを犠牲にする美徳なんて今すぐ終われ》(GIRL'S GIRL)あたりの歌詞は最短距離で真実を提示してくるので、いまの俺に速攻で手を差し伸べてくれる。 重量級の言葉を神速で伝えなくてはならないという焦燥が大森さんにはあるのかもしれない。まんまと勝手に助けられてます。
僕はこのブログに、たいしたことを書かない。自分にとって大切なことはそれなりに書いてきたけれど、そういう文章にしたって、できれば、僕以外すべての人にとって無意味であればいいとさえ思っている。僕にとってだけ意味のあることが本当に大切なことなんだって信じている。僕にとってだけ意味があって、他者にはどうでもいいようなことを書きたい。あくまでも理想であって、実現しているとは言いがたいのだけれど。 こんなことを言ってみたところで、誰かが読んでくれることは嬉しいし、好意的な感想がもらえればその日1日はハッピーでいられる。それは事実だ。でも、本質ではない。 簡単に分かられたくないという思いがある。共感は不要なんだよ。 僕は屹立したくて文章を書きはじめた。認められたいからではなかった。他を圧倒したかった。正規ルートで社会人になれなかった僕の、ささやかな唯一の抵抗の場がここだった。「ここに俺がいるんだ」と叫び
娘にミルクを飲ませ寝かしつけたあと、テープ起こしの作業を終わらせ、いくつかメールの返信をすると24時半で、なんとなく神経が高ぶっていた。静めるためにアルコールがほしい。そう思って、妻と娘と猫が寝静まった部屋から忍び足で出る。玄関ドアを閉める刹那、妻の咳こむ音が聞こえて、なんとなく申しわけなくなる。 雨のそぼ降る商店街に人はまばらで、誰に気をつかうこともなく気ままに歩ける。ファミリーマートで買ったトリスハイボール・ピールレモンを供に徘徊する。このハイボールはファミリーマート、サークルKサンクスの限定商品で、アルコール度数が6%なのが嬉しい。ストロングゼロのブレイク以来、各社度数9%のアルコール飲料を乱発していたけれど、ここに来て6%を出してくるあたり、手練れだと思った。かゆいところに手が届く。実際、このハイボールはすごく軽やかで飲みやすく、なんだかこのまま眠るのはもったいない夜に一杯引っかけ
寝床でスマホから原稿を書き、寝たのは午前4時だったので、寝坊する。すでに妻が娘のおしめを替えてくれて、ばたばたと出勤準備している。昨日出張から帰ってきて、今日も仕事。おまけに今日は部署の飲み会があるという。出産から半年で職場復帰し働く妻に、頭があがらない。 妻を見送ってから、あかんぼうにミルクをやる。終わったら洗濯を干す。今朝、庭にねずみがいるのを見た。だから、窓を開けるのが恐ろしかったが、地面を注視しながら洗濯を干した。そういえばまだ取りこんでない、今は24時。 洗濯を干し終え、昨晩書いた原稿を整えて送信したらもう10時10分で、慌てて歯を磨きヒゲを剃り娘のおしめを替え出かける、今日は10時半から保育園の見学だ。 家からさほど遠くないのでなんとか間に合う。 園長が案内してくれる。清潔でいいところだった。なつかしい匂いがした。たしかに俺が嗅いだことのある幼児の匂い、というか俺がかつて発して
最近、あかんぼうが寝返りを打たないことにふと気づいた。引っ越してからだ。引っ越す前は畳のうえに敷布団という比較的硬いフィールドにいたから寝返りを打ちやすかった。しかし今はふかふかのベッドマットに寝かせているので、マットレスに体が沈んでいるのかもしれない。 ベビーベッド買ったが、届くのが10日後。待ち遠しい。 それはともかく、久しく寝返りをうってないあかんぼうが心配になったので、ベッドより硬いソファに横たわらせて、ジタバタさせた。そういえば、この子にはおもちゃの類もそんなに与えていない。妻も俺も、そういったことにあまり関心がないのかもしれない。ベビーベッドが来たら、頭上で音楽を鳴らしながらくるくる回るやつとか買ってあげようか。今日は義父がくれたガラガラを持たせてやった。義父ってはじめて言った。 胎教とかもほとんど気にしなかった(妻はしてたかもしれない、どうだろう)。昼間、遅ればせながらのHi
昨日飲みすぎてしまい、今朝はうだうだと起きた。アルコールが副鼻腔炎をひどくしていてなかなか起きれなかった。妻に「病院行ってね」と言われる。5年くらい前は通院していたのだが、あれは対症療法に過ぎなかった。医者本人は「手術で怖い思いするより、薬で良くなるほうがいいでしょう」と言っていた。病院で治療受けて薬処方されるくらいなら金銭的にも時間的にもマツキヨで買える副鼻腔炎薬を服用したほうがラクだと思ってしまい、通院はやめた。ただ、この町にはなんでもあると思っていたのに、マツキヨだけがなかった。俺はマツキヨの薬じゃなきゃダメなのだ。副鼻腔炎の手術、視野にいれるべきだろうか。鼻周りについてはもう20年近く悩まされている。 今日のファーストミルクは妻がやってくれた、助かる。 我が家にようやくWi-Fiがきた。引っ越しから3週間弱、Wi-Fiのない家はとにかく不便だった。先月末は思いのほか忙しくなってしま
日付変わって11月から主夫になる。日中、妻が働きに出て、僕は0歳児の面倒を見る。 これまでフリーライターとして働いてきて、それなりに経験を重ね、仕事量も増え、自信もついてきた矢先の決断。なぜ主夫になるかといえば、妻のほうが僕より稼げるから。実に簡潔な合理的判断。 ただ、来年4月に娘を保育園に入れられたら、僕もまたみっちり働くだろう。保育園がダメだったらどうすればいいのかはまだよく考えられていない。 また、“主夫”といったけれども仕事を完全にやめたわけではなく、在宅でできるテープ起こしや編集補助の仕事、スケジュールがそこまでタイトではないインタビューや取材仕事などはひきつづき受けていく。取材依頼からもろもろのセッティング、インタビュー本番、記事作成、確認依頼、修正……という一連の流れにようやく苦手意識がなくなったので、ブランクをつくりたくない。例えば、電話でのやり取りにためらいがなくなった。
生後4ヶ月を迎えた子供の眠る頬を見ていると、野原しんのすけの輪郭に納得できた。あのいびつさが実はリアルだったということ。生きているといろいろ気づけるのでやっぱり生きていくほうがいいと思った。 娘を寝かしつけた妻と直近の未来を話し合って励まし合い妻には寝てもらった後、台所で洗い物をする。昔から洗い物だけは丁寧にしてしまう性分なので、自分たちの使った食器や哺乳瓶を洗い、ミルトンの溶液を替えているとあっさりと20分以上は経過してしまう。 洗い物を丁寧にしてしまうのは、死んだ母親に似たからだ。母はところどころ神経質なところがあって、食器はやはり入念に洗ったし、Tシャツも一切のシワがつかないようにたたんでいて、たたみなおすこともしばしばだったし……と、2つ書いたところで、ほかにはどんなことに母が神経質を発揮していたのかもう俺は覚えていなかった。もしかしたら、この2点だけだったのかもしれない。母の神経
『寝ても覚めても』がとても良かった。 この映画に出てくる登場人物たちは、自分の感情や正義に忠実に生きている。彼らの主義や言動は“一般的”には凡庸だったり反動的だったりもするけれども、本人たちにとってそれはとても切実なもので、たとえ人間関係が決定的に破綻するとしても、彼らは自分の思いに素直に行動する。その清々しさに胸を打たれる。 そう、『寝ても覚めても』はとても清々しい。濱口竜介作品に対して人が「真実」という言葉を使いたくなってしまうのもむべなるかな、この映画には登場人物それぞれにとっての真実が鮮明に刻まれていく。 劇中もっとも苦々しいのは、4人の若者がマンションの一室に揃うシーンだ。舞台女優として活動する女の演技を映像で見た初対面の男が、こんなのは全然ダメだとののしる。あんたのやってることは中途半端だ、と言って怒りをあらわにする。はじめて4人で顔を合わせた面々の食事会がとても気まずい空気に
「きらきら星」を歌ってやると、我が家の生後4ヶ月弱の娘がえらく喜ぶことを、妻が発見した。歌いながら手のひらをひらひらさせると、手足をジタバタさせて笑う。泣きはじめたくらいのタイミングだったら、きらきら星を歌ってやると“きらきら光る”の段階で泣きと笑いが混じり、“おそらの星よ”と歌うころには、彼女の表面を笑いが凌駕する。 ためしにいろんな歌を聞かせることにした。いまの世の中はとても便利で、AppleMusicで童謡を探したら山のように出てきて、延々流すことができる。ひとりで子守をした日に、いろいろ聞かせてみた。 「きらきら星」の次に喜んだのは、「ブラームスの子守唄」だった。すぐにおとなしくなる。笑って喜ぶというよりも、聞きいるという雰囲気。僕もこの曲はとても好きなので嬉しかった。 「ブラームスの子守唄」は僕が赤ん坊のころによく聞かされていた曲で、それは赤ん坊の顔くらいのサイズの、小さな雲形の
妻は友人が多い。俺は友人が少ない。 妻は人が好きだから、人からも好かれるのだと思う。妻はとてもいい人だ。 ひるがえって俺は、やっぱり人がそこまで好きじゃない、人にあまり興味をもてない(話がずれるのでかっこで話すが、人に興味がもてない自分に気づいてしまったから、最近の俺はブログをよう書けなくなってしまった。俺は俺の見方でしか世界を見ることができないので、俺が人に興味をもてないように、人も俺に興味をもたないんだろうなと思うと、自分語りばかりになってしまう俺のブログなんて誰も読まないだろうとごく当然の理路をたどり、そう結論してしまった。でも、いろいろあって書くことにしました)。 人が好きじゃないから、友人が少ない。少ない友人とも定期的に連絡を取り合ったり、会って話したりすることができない。 でも、寂しさを覚えることはあるので、思い出したように連絡をしてしまう。ほんとうは毎日1分くらいは彼らのこと
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