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ドラクエ3
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ウェブ版『美術手帖』でわが目を疑うような記事が出た。 →DIC川村記念美術館が日本画展示を終了。作品を全点譲渡へ 驚きにちょっと言葉もない。かつて開館前から十五年間ここに在籍した者として、ただただ愕然とするばかりである。 欧米の近現代美術を中心とするこの美術館にとって、日本画のコレクションはいわば傍流であるが、それなりに粒揃いの質的水準を保っていたし、20世紀美術にあまり馴染みのない来館者にとって、印象派の諸作品、レンブラントの肖像画とともに、ほっと一息つけるオアシス的な役割を果たしていたのではなかったか。 収集点数こそごく僅かだが、そのなかには長谷川等伯の晩年の基準作たる重要文化財《烏鷺図屏風》が含まれている。この作品は美術館構想が生まれる遥か以前、たしか1960年代に収集された「川村コレクション」の記念すべき第一号だったはず。旧蔵者は團伊能だったと記憶する。コレクションの「原点」を手放
七年前の2007年3月のこと、石井桃子さんの百歳の誕生日を壽ぐべく、その稀有な人生に思いを馳せつつ、若き日の彼女の周辺について知り得る限りを連載の形で書き綴ったことがある。架蔵する書物をあれこれ渉猟し、図書館で当時の文献にも当たって正確を期しながら、心を籠めて書いたつもりだ。幸いにも何人もの読者の方から好意的なコメントを頂戴したほか、旧友に逢ったとき面と向かって「あれは読み応えがあった」と褒められたりもした。 →「白林少年館」の勇気ある試み →犬養家のメアリー・ポピンズ →石井桃子さんは100歳になられた →突然のおくりもの →石井さんはその本をむさぼり読んだ →ただ一度、二度はない… →「熊プー」につき動かされて →四谷の高台にたった家 →東京市四谷區南町八八 →潰えた砦、見果てぬ夢 →食い止められぬ暴走 →歴史の流れに抗う人々 →勝ち目のない闘いだとしても →暗い日々の始まり →今生の
ここ数日のことなのだが、当ブログの訪問者数がいつもより格段に増加し、しかも「荻窪ロフト」なるキーワードで検索してここに辿り着く方が圧倒的に多い。ちょっと調べてみたらみたら理由はすぐに判明した。数日前、読売新聞にこんな記事が掲載されていたからだ(「[東京の記憶] 荻窪ロフト」 →これ)。 三年前に書いたエントリーにアクセスが集中したのは明らかにそのせいだろう。他愛のない思い出話なのだが、例に拠って「まだ書きかけ」のまま尻切れトンボに終わっているのが申し訳ない。そこで末尾を書き足して、完全版(?)に仕上げ再録しておこう(後半の「どうしてそんなことになったのか」以降が加筆部分)。まあ愚にもつかない笑い話で終わるのだが、なにせ四十年近く前の実話なので今となっては歴史の一齣。どこかで何かの役に立たぬとも限らない。 ******** 数年前たまたま荻窪に出向いた折り、南口周辺を少し探索してみた。 道筋
ここ数日間というもの、鬱屈した気分で塞ぎ込んでいる。怒りと悲しみが沸々とこみ上げ、どうにも憤懣のやり場がない。 2月19日付の『神戸新聞』から記事の全文を引く。 阪神間で戦後、活躍した前衛美術集団「具体」のコレクションなどで知られる芦屋市立美術博物館(同市伊勢町)の学芸員4人全員が、大幅な人件費削減などに反発し、3月末で退職することが18日、明らかになった。学芸員の一斉退職は異例で、同館への寄託品の引き揚げを検討する所有者もあり、地域の文化を伝えるコレクションが散逸する恐れも出ている。 学芸員は、同博物館を運営するNPO法人「芦屋ミュージアム・マネジメント(AMM)」に所属。18日夜、芦屋市役所で事務職員を含む計5人が会見を開き、2010年度末での退職の意向を表明した。 同館は1991年に開館。財政難などから2006年以降、AMMに業務を委託した。学芸員は市職員からAMM職員になって仕事を
沼辺信一 [Shin-ichi Numabe] 1952年東京に生まれ、 1975年まで埼玉で暮ら す。大学を中退後は 上京して独り暮らしを 始め、多くの友人と出 逢う。生活のためバイト に精を出すうち、編集 プロダクション見習とし て書籍編集のイロハを 身につける。1988年、 取材で初めて訪れた外国 都市がレニングラード だった。 1989年から2003年 まで美術館の学芸員。 ジョゼフ・コーネル、 モネ、ルノワール、 若林奮など の展覧会を担当。 引退後は海辺で悠々自適の生活を旨とし、ブログ執筆のほか、折りにふれてバレエ・リュス、ロシア絵本、プロコフィエフの日本滞在などについて論考を綴っている。国境を越えた20世紀芸術の伝播に強い関心を抱くとともに、自らのルーツである70年代カルチャーにもやみがたい郷愁を 覚える。 ◆ 好きな作曲家/ パーシー・ グレインジャー、モーリス・ジョーベー
(1月15、17日よりつづく) つくづく「ウィキペディア」は凄いなァと感心する。メリー・ホプキンの唄った「悲しき天使」について調べていて、アメリカ版 Wikipedia の "Those Were the Days" の項目を読んでみたら、そこに思いもよらぬ驚くべき事実が書かれていた。 http://en.wikipedia.org/wiki/Those_Were_the_Days_%28song%29 ここに記された内容と、そしてこの記事からリンクが張られている Pat Richmonds 氏のサイトの記述とから、われわれが「悲しき天使」と呼ぶこの歌の、それまでに経てきた「地球的規模」の長い遍歴について、そのあらましを知ることができた。今日はそれについて書こう。 ウェールズ出身のフォーク歌手メリー・ホプキンをポール・マッカートニーに紹介したのは、ファッション・モデルで歌手のトウィッギーな
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