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大谷翔平
ownricefield.hatenablog.com
2010年7月2日にゼミ*1で発表した資料を転載します。 メタ言語能力と文法教育 文法教育の目的:橋本進吉と時枝誠記 国語科における文法教育の目的は、古典文法(文語文法)と現代語文法(口語文法)で異なる。古典文法教育の目的は古文解釈のためという一点に集約されるが、現代語文法教育の目的については意見が分かれている。これらを大きく分けると、日本語の理解や表現の能力を高めることに直接結びつけようとするものと、間接的に結びつけようとするものがある。また、両者の中間に位置づけられる立場のものや、言語学習を超えたところに目標を定めているようなものもある。 現代語文法教育を日本語の理解や表現の能力を高めることに直接結びつけようとする立場は、時枝(1950a, 1963, 1967, 1984)に見られる。時枝は「文法教育の目的は、言語表現の法則を教えることであり、言語の実践の方法を教えることである」(時
言語の恨みは恐ろしい 自分が英語ができないのは学校の英語教育が悪いからだという言説が流布している。パタンプラクティスをしよう。自分が漢字が読めないのは学校の国語教育が悪いからだ。自分が歌が上手に歌えないのは学校の音楽教育が悪いからだ。自分が味噌汁を作れないのは学校の家庭科教育が悪いからだ。これらも大人としてはできた方がいいに決まってるのだが、冒頭の英語の言説だけが高頻度で現れるのが現実である。 私だって、怨念を抱いてないと言えば嘘になる。中学の国語教師に教科書準拠のワークブックの問題をそのまま定期試験に出すと言われて、私はその答えを丸暗記する勉強を続けたら卒業の頃には国語ができなくなっていた。高校の国語教師には漢文の授業のときに「始めます」「読んでみます」「訳してみます」「書き下してみます」「終わります」の5つの言葉しか発しない人がいた。こうして高3の時点で国語の偏差値が35になったのであ
「英語の授業は英語で」の陰で・・・ 新学習指導要領案が発表された。英語の授業は英語で、というところにマスメディアは注目しているようだ。だか、これと同じくらいに重要な改訂ポイントがあるのに、あまり取り上げられていない。それは「読み」を扱う独立科目の廃止である。講読だとか、IIBだとか、リーディングだとか、名前を変えながら存続してきた読み科目が、新しい案には盛り込まれていないのだ。 英語Iや英語IIが実態として何を扱う授業なのかはっきりしない状況になっているのは確かで、今回はそれをコミュニケーションの名の下に改訂している。だが、「コミュニケーション=英会話」という認識を持ち続けている教師がいるという状況を考えれば、「読み」の削減率はさらに大きいものにも感じられる。「受信型」か「発信型」かの二者択一を求められて「発信型」を選んだらこうなったという感じの科目構成になっている。 コミュニケーションは
英文理解と古文理解における文法の扱いの違い 英文理解における文法の扱いについては、「受験英語」が一定の貢献を果たしていると言って良い*1。だが、古文理解においてはどうであろうか。阪倉(1963:11)が「もともと文法なるものは、決して解釈のために整理され、組織立てられたものではなく、本来別の目的を持つものであり、解釈に役立つというのはその応用的一面に過ぎない」というように、古典文法は学習文法としての体をなしていなかった。阪倉の指摘から45年が経過した。英語はこの間に変形文法を英文理解に援用する試みや、Jespersenらの知見を援用しながら旧来の学校文法を英文理解のために再構成する試みが見られた。古文ではどうなのか。受験古文の理論的基盤がどこにあるのかは、私自身が不勉強であるゆえ、はっきりと断言できない部分が多々ある。だが、「所詮は日本語である」という甘えが古典文法を学習文法として整備する
大分汚職に思う 不正な得点操作で合格した教員を解雇し、逆に操作によって不合格になった者を教員として採用するというのは合理的ではある。しかしそれとは別に、教員採用試験が試験として適切で妥当であるかどうかという問題がある。つまり、「どうもあの先生は使えないと思ったら得点操作で受かったんだ」というのならともかく、「すごくいい先生なのに、不正操作で採用されたからクビになっちゃうんだって」という状況もあり得るのではないかということである。 私は学生時代に、直観的ではあるが、「教師になるための勉強」と「教師としての勉強」とが別のものであるような気がしていた。教職課程での授業にしても、現場で教えるために必要な本質的な部分と、採用試験で出る部分との間に、乖離があるような気がしていたのだ。もちろん、すべての都道府県市がそうであるとは言い切れない。しかし、採用プロセスを異にする私立学校の教員にも素晴らしい先生
作文教育のこと ここまで作文や文章表現の指導/学習について見てきたが、率直に言って、「こんなこと教わったことないぞ」ということが多かった。いままで経験してきた作文教育とは何だったのであろうか。ただ、日本語の文章を書くということに真剣に取り組むことで、日本語の語彙体系、文構造、文章構造に対する意識が高まるのではないかと思った。そうしたメタ言語能力を外国語学習に活かすことができればいいのではないかという見通しも立った。 ひとつ気になること。国語教育の趨勢はいまでも文学重視なのだろうか。過去には文学的な言語活動が基本で、より日常的な言語活動が応用のようなスタンスもあったようだ。しかし、理解ができなければ、解釈も鑑賞もできない。理解させる文章が書けなければ、感動させる文章は書けない。これは卵と鶏の関係ではない。一義的な関係である。というものの、別に国語教育に注文をつけるつもりはない。それよりも、自
論理と文章の関係 ロジカルライティングという言い方がある。照屋(2006)など最近の書物でも紹介されている。だが、鳥山(1954)でも、「実証のための資料はできるだけ多方面から選んだ方が読者を納得させ得るが、多方面から選んだ資料相互のあいだに矛盾があってはならない」(39)など、現代のロジカルライティングと同様のことを指摘している。鳥山は論文を「自己の立場を確立して、自己の思想や意見を論理的に表現した文章」(39)と定義している。この論文の定義が少しずつ拡大して解釈され、より日常的な文章が含まれるようになったのが、最近の傾向ということになろう。 しかし、論理が文章のすべてではない。鳥山(1954)は、合理的で妥当な論旨を展開し、それを首尾良く実証して論文としての体裁を保てても、書き手が論旨について深く正確な理解をできていないなければ意味をなさないと述べている。さらに、野内(2008)は、論
説得のための文章(続き) 大熊(1973)は論証の方法として、帰納的推論と演繹的推論に加えて類推法を取り上げている。類推法には説明を分かりやすくするという効果があるが、結論が確実に出る保証はなく、大熊もこのことに対して注意を促している。 書き手が論証を行う際に、ときには誤りを犯してしまうことがある。非常に犯しやすい誤りの1つに因果関係推定の誤りがある。たとえば、単に2つの出来事が偶発的に連続しただけなのに因果関係があると思いこんでしまったりする場合である。複数の原因があるはずなのにそのうちの1つだけを恣意的に取り出してしまうのも、この誤りに含まれる。複数の原因から恣意的でない形で1つを指摘する場合は、もっとも大きく、直接的で、重要な原因を挙げなければならないにもかかわらず、それよりも間接的で軽微な原因を指摘してしまうのも誤りである。また、複数ある原因の相互関係を見落とすことも、因果関係を誤
説得のための文章 文章の目的の1つに、読み手を説得させることがある。読み手を説得させる文章は「論説文」や「論証文」と呼ばれる。論説文とは「ある問題について、主張を、論証的・解説的に述べ、相手を説得しようとする文章」(大熊1973b)であり、論証文とは「ある問題について、自分の意見を提出し、その正しさを論理的に証明し、その正しさを信じさせることを目的とする文章」(大熊1973a)である。このなかでも大熊(1973a)は、論理性をかなり重視した文章のあり方について述べている。 大熊(1973a)は、よい論証文の条件として次の4点を挙げている。 主張と証明の2部分がある。 主張は明確・妥当である。 証明は論理的に正しい。 構成・用語も適切である。 主張を明確にするには、主張を短く理解しやすい文で表す必要がある。論理的に正しい証明とするには、証明の部分が信頼性の高い論拠でなければならない。また、論
「その1」は2年近く前のエントリーになります。 綴方の指導 鈴木(1935)は、子どもに書くのが無理なものを書かせておきながら、綴方が伸びないという教師が多いと言っている。書ける題材から始めなければならないというのだ。題材が難しいと、自分が直接経験してもいないことを、経験したことのようにでっち上げて書いてしまう子どもが出てくるという。こうなると、文章を無理矢理こねくり回すようになってしまう。綴方の指導においては、子どもの経験し得ないような、難しい題材を与えるべきではないというのが、鈴木の主張である。 次に、鈴木は抽象的な課題で文章を書くことの難しさを指摘している。具体的な経験から離れた、こうした抽象的なテーマで文章を書くことは、大人であっても困難なことである。これを、例えば何が耐えねばならない経験であったかの分析ができない子どもに、「忍耐」という課題で綴方をやらせるのは無謀だというのである
「従属節」と日本語 日本語と英語の文構造の違いのなかで重要なもののひとつに、英語では複文が多く用いられるのに対し、日本語では重文が多く用いられているという点が挙げられる*1。亀井(1994)はこれを、英語は立体構造で日本語は平面構造であるという説明をしている。さらに平子(1999)は、日本語には文と文との主従関係がないと言い切る。日本語文法の「複文」の概念は英語の「複文」の概念とはやや異なるようだが、少なくとも英語の従属接続詞を日本語の接続助詞に機械的に対応づけることには無理があることは確かであろう。 語順と和訳 従来の「英文解釈」では、英文を主語・述語動詞・目的語・補語などの文法的要素に区切ったうえで、日本語の語順に当てはめて訳出していくという方法がとられている。文構造解析はチャンキングの前段階における過渡的な言語技術/学習活動と捉えれば、必ずしも否定されるものではない。しかし、文構造解
古典文法の定義 そもそも、「古典文法」とは何であろうか。鈴木(1995)によれば、古典文法とは中学校や高校で扱われる古典語に関する文法であるという。ここで鈴木は「古典語に関する文法」と言っているが、これは古代日本語の文法を基盤として確立された文章語の文法であると定義している。古代語というのは主に上代・中古の日本語を指すが、これには概念上は当然、話し言葉と書き言葉が含まれる。こうして考えると、英文法と同様に古語の文法においても研究者レベルで扱われる文法体系と学習者レベルで触れることになる文法体系とは異なることがわかる。国語史的に分類すれば、古い方から順に上代語、中古語、中世語、近世語、近代語、現代語という区分が立てられる。区分が立てられるということは、それぞれに特色があるということでもある。しかしこれは研究上の立場である。学習文法としての古典文法は、現代語文法と対比される単一の体系である。す
英語のブログのはずなのに、なぜ日本語なのか、しかもなぜ古文なのかと感じる方がいらっしゃると思います。これは大半の日本人が体験する言語学習を見渡し、そのなかで英語学習について考えていこうとする意図があります。外国語を1言語(主に英語)しか学ばない人でも、国語教育は当然受けてきているわけです。国語学習と英語学習が互いに干渉しあうのではなく、たがいに相乗効果を上げるには、どうしたらよいのか。その一環でこのような記事を書いています。 古文理解における現代語訳の位置づけ 古文を古文のまま理解しろ、というような主張はあまり耳にしない。漢文であれば素読などのような活動もあるのだろうが、古文では事情が違うようである。つまり、古文の理解において現代語の介在は不可欠なものと一般に考えられているのである。しかし、現代語訳を古文理解のなかでどう位置づけるかということに関しては、さまざまな立場がある。 もっとも急進
古典文法の役割 古文の理解には古典文法の知識が必要であると一般に考えられている。金水(1997)は古典文法の役割について現代語文法と対比させながら次のように述べている。 学校文法に基づく古典解釈のメソッドが確立された結果、文法は完全に暗記の学問となってしまった。古典ではまだ学校文法が実効的に働くからいいのであるが、学校文法の現代語文法は実は古典文法を導入するための仮構された悪しき折衷と妥協の産物であり、辞書の品詞分類以外にはほとんど役に立たない。(金水1997:122) 金水の指摘から、古典文法は古文理解のために必要ということが暗黙の了解のようにも思えてくる。渡部(1981)も「古文の文法なら多少存在理由がわかる。「係り結び」などというものを知らないと訳せないこともある。」(2)と述べている。だが、この問題についてはっきりしていないことも多い。古典文法が古文理解のために必要だとするならば、
国語教育の本質 国語教育においていったい何を教えるべきかについては、いくつかの立場が考えられる。このなかには村上(2008)や高木(2008)のように、日本語文法の体系的知識を教育内容の中心に据えるべきという立場もある。この立場は、母語の言語技術の習得や外国語学習において、その土台として母語の体系的知識が大きな役割を果たすという考えに基づくものである。高木はまた、読み、書き、話し、聞くなどというものは、学校国語教育のみで完成するものではなく、国語科教育は基礎教育教科として文法教育をまず行うべきと主張する。こうした考え方は、国語教育を文学教育や言語技術教育と捉える考え方とは区別される。この場合、文法指導は明示的で演繹的なものになっていく可能性がある。しかし、公教育における母国語学習と学校外での母語習得は外国語の場合と比べて連続的で不可分なものである。また、外国語の場合と異なり、学習者の年齢も
ちょっと古いアンケートから 愛原(1981)には、中学校の国語教師が生徒に対して行った、文法教育に関するアンケートの結果が引用されている。まず「ことばのきまり」についての学習、すなわち文法学習の好き嫌いに関する質問の回答が挙げられていて、3学年とも7割以上の生徒が嫌いと答えている。そして嫌いな理由として次のような点が挙げられている。 英語の文法とごちゃ混ぜになって理解できない。 暗記することが多すぎで混乱する。 基本事項が理解できても応用がきかない。 国語学習において文法に対してこのような印象を抱いてしまうと、英文法に対しても同様な否定的イメージを抱きがちになることは、容易に想像できる。日本語は英語と違って生徒にとって日常言語であるのは確かだが、吉田(1994)が指摘するように日常の話し言葉の大部分は分析不要の決まり文句であるために、中学レベルの英語で文法学習の必要性を生徒が見いだせない可
前回の記事 この記事は前回からの続きになります。 ownricefield.hatenablog.com 形容詞の活用(続き) 鈴木(1990: 69)は、日本語の形容詞には次のような文法上の性格を持つと指摘しています。 ①現代語では、「く・い・けれ」と一律に活用する。 ②そのままで文において述語になる。 ③連体修飾語となる。 ④連用修飾語となる。 ⑤動詞に比して、直接続く助動詞が少ない。 ⑥動詞に比して、語幹に独立性がある。 ⑦印欧語のように、形容詞自身が、原級・比較級・最上級を持たない。 このうち形容詞の活用に言及しているのは①です。鈴木はこれに合わせて例を挙げています。そして、活用形の用例は上記②・③・④の用例ともなっています。 ①あの山は高くナイ。 ①この花は美しくナイ。 ②だんだん高くナル。 ②だんだん美しくナル
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