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あ行 欧米語表記:Mosque of Aqsunqur アラビア語転写表記:Masjid Āq Sunqur マムルーク朝のアミール・アークスンクルによって1346/7年に建設されたモスク。彼はスルターン・ナースィルに仕え、ナースィルの娘婿となり、ナースィルの死後、その未亡人とも婚姻を結んだ。モスクは、カーヒラ(ファーティマ朝の宮殿都市)の南門であるズウェイラ門と城塞を結ぶ通りに面し、東市壁の近くに位置する。中庭を囲む多柱式のモスクであり、太いピア(構造柱)にクロス・ヴォールトが架けられている。円柱に木造平天井が架けられることが一般的であるカイロのマムルーク朝建築において、このような様式はここでしか見られない。西側のファサードの北にクジュク(1342年没、スルターン・ナースィル・ムハンマドの息子)の廟、南に円形断面のミナレットがある。使われたタイルの色からブルー・モスクとも呼ばれるが、タイ
マドラサは、法学をはじめとする諸学問の教育を行う施設で、アラビア語で「学ぶ場所」を意味する。マドラサは、それまでモスクなどで行われていた教育活動のために専用の場所や様々な便宜を提供する新たな仕組みとして登場し、10世紀にイラン北東部ホラーサーンに建設されはじめたとされる。11世紀にはセルジューク朝(1038–1194年)の宰相ニザーム・アルムルク(1092年没)がバグダードなどの主要都市にニザーミーヤ学院を建設した。12世紀に入るとマドラサはシリア各地に建設され、同世紀後半にはアイユーブ朝(1169–1250年)下のエジプトに導入された。13世紀・14世紀になるとマドラサは北アフリカからアナトリア、イランにいたるまで広い地域で見られるようになり、マムルーク朝下のエジプトやシリアの都市でも多くのマドラサが建設された1。現在のカイロでも、カラーウーンの寄進施設のある旧市街でマムルーク朝期に建設
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