サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
ノーベル賞
retro.useless-landscape.com
以前吉原遊郭のことを書いたときに、「吉原は元々今の人形町あたりにあった」という話をした。 その元吉原界隈を歩いてきたので、そのあたりの話もふまえ、現在の町並みを紹介していければ、と思う。 まずは場所から。元吉原は、地図上この辺りになる。人形町駅の東側に当たる。 中央を南北に貫くのが大門通り。北側が大門。北枕を避けるために区画が斜めってるのはこの頃からあったのがわかる。 当時は葦が茂る湿地帯で「葭原(よしはら)」と呼ばれていたが、縁起のいい「吉」を使おう!と言うノリで今日の「吉原」に改められた。 出入りは大門のみで四方は掘割であったのだが、東側の水路は前回書いた浜町川だったようだ。 人形町なんてまともに歩いたことなかったので、正直このからくり時計と東野圭吾の新参者くらいしかイメージがなかったわけである。 まさか吉原遊郭がここにあったとはね・・ まずは遊郭にまつわるものから。南端の路地に面する
その日はついにやってきた。そんな言葉が相応しかった。 東京一の公娼街が吉原なら、私娼街で不動の地位を築いていたのが玉の井であった。現在で言う墨田区墨田にあったその赤線跡に、間もなく夏も盛りを迎える7月のある日、ようやく足を踏み入れるに至った。 玉の井は「東向島駅」と「鐘ヶ淵駅」の間にある 玉の井の最寄り駅は東武スカイツリーラインの『東向島駅』になるが、筆者の自宅から向かうとぐるっと迂回するようなルートになってしまうため、めんどくさいのでバイクで向かうことにした。 お隣の鐘ヶ淵に二輪のコインパーキングがあったので、図らずも逆方面、北側からアクセスすることになった。 玉の井から鐘ヶ淵駅まで伸びる西町買物通り商店街を南下。下町の商店街らしい風景に自然と足取りも軽くなる。 玉の井と言えば、先日レビューを書いた映画「赤線玉の井 ぬけられます」をはじめ、永井荷風の「濹東綺譚」、滝田ゆうの「寺島町奇譚」
奈良県生駒市。 と問われれば、国内屈指の極上夜景が堪能できる信貴生駒スカイライン、そして生駒山上遊園地。持ち得る知識でそう答えていた。 そう・・関西、いやもとい、日本最後の桃源郷とも言える『宝山寺新地』の存在を知るまでは。 そんなわけで、次に向かったのは生駒山の山中にある宝山寺新地(生駒新地)である。 大和郡山の散策を終え、そのまま友人に生駒駅まで送り届けてもらった。 この場を借りてお礼を言わせてください。その節は大変お世話になりました。 ケーブルカーで行く遊里 生駒駅からは日本最古のケーブルカー、生駒ケーブルに乗り換えることになる。 1918年(大正7年)開業と、そろそろ100歳を迎える長い歴史を誇る。 生駒山は、中腹に聖天さんの愛称で親しまれる真言密教の寺院『宝山寺』があり、かつては参詣客で大いに賑わっていた。 生駒ケーブルは、宝山寺参りの足として開通したわけである。 ひとつ先の宝山寺
昨年(2014)末、少しまとまった時間ができたので三泊四日の日程で沖縄へと飛んだ。 目的は他でもない。沖縄屈指のディープゾーンとして名を馳せた、コザ吉原と真栄原の街並みをこの目で見ることである。 羽田発6:25のANA機に乗り込む。外は雲一つないピーカン。 文字通りのオフシーズン、しかも平日のクソ早い時間帯とあって機内はガラガラ。 9時過ぎに那覇空港に着き、すぐさまレンタカーを借りる。その足で向かったのは、沖縄第二の都市、沖縄市である。 吉原へ 沖縄市にあるコザ吉原社交街。その歴史は戦後にまで遡る。 白人兵向けの歓楽街としてスタートしたこの街は、やがて日本人向けのちょんの間街へとその姿を変えていったのである。 ちなみに「社交街」とは、沖縄での歓楽街の呼び名だと思っていただけると概ね相違ない。 「吉原」の名は東京の吉原遊郭の名を模して付けられたもので、ここら一帯の住所は「沖縄市美里一丁目」と
大阪には『新地』という独特の色街がある。 かつて遊郭や花街だった場所が、売防法施行後に料亭や旅館として表向きの営業を続けている地域で、全部で五ヶ所ある。 以下、それぞれの歴史、特徴、場所などをざっくばらんに綴っていきたいと思う。 今里新地 ※2018年2月に再訪し、大幅画像追加と加筆修正実施 地下鉄千日前線、今里筋線、さらに近鉄と3つの駅がある今里。この中で、新地へは近鉄今里駅が最も近い。ちんたら歩いても10分程度で到着する。 今里新地は、昭和4年末に花街として産声を上げた。松島遊郭の移転をめぐって起きた事件、松島遊郭移転疑獄のすったもんだの末に開業したという何ともきな臭い歴史を持っている。 駅前を真っ直ぐ南下し、セブンイレブンの先の信号を右折。そこからブロックふたつ越えたあたりが新地の入口となる。 戦後は花街から赤線に移行し、その系譜を汲んで現在はちょんの間街となっている。 かつて『今里
信太山新地 初見だとなかなか読めない。「しのだやま」と読む。 大阪五新地の中ではここだけが異常に離れていて、天王寺から阪和線に揺られること約30分。堺市を越えて和泉市に入る。目的地はそこにある。 駅舎のプレハブ感が、ここが大阪であることを忘れさせる。 何ということか。関西はおろか全国から人を集める性都の玄関口がこんな粗末な造りでいいのだろうか。 信太山新地の歴史はいたって単純明快。ここには陸自の施設があるのだ。 これだけで色街が形成される条件になり得るが、さらに古い話では、熊野街道(阪和線沿いを走る府道30号線)の禊の地として遊里が発展したという説。かつては「八坂新地」と呼ばれていたらしい。 戦後は赤線に移行し、売防法施行後に今の業態になったであろう信太山が飛田や松島と違うのは、料亭ではなく旅館であるという点。 駅の南側、府道30号を左折。このままてくてく天王寺方面に戻り、5分も歩けば信太
このたび、東京ニュース通信社より全国の重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)を紹介した『全国重伝建紀行...
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『Nostalgic Landscape』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く