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仏が無ければ凡夫も無い ―本来無一物―(『六祖壇経』) 「この身体は菩提樹、心は明るい鏡のようなもの。常に拭き清めて塵の溜らぬようにせよ」とトップクラスの神秀上座が言う。これを聞いた寺男の盧行者(後の六祖慧能)は「身体も心もそのように立派なものではない。もともと実体など無い(本来無一物)のだ。どうして無いものの上に塵の溜ることがあろう」と、自分の心境を吐露した偈の一句。 「本来無一物」という語は、誰でも知っている禅の代表的な言葉である。誰でも知っているけれど、ほんとうに分かっているかどうかは、まったく別であろう。普通には、「もともと何も無い」というように理解されやすい。 しかしこの「本来」という語は、もともとという意味ではなく、「本質的に」とか、「根源的に」ということである。また「無一物」は何も無いということではない。 禅宗で言う「無」は大乗仏教の説く「真空」の中国版で、有と無の両方を超え
「啐啄同時」という禅語があります。啐啄同時とは、鶏の雛が卵から産まれ出ようとするとき、殻の中から卵の殻をつついて音をたてます。これを「啐」と言います。そのとき、すかさず親鳥が外から殻をついばんで破る、これを「啄」と言います。そしてこの「啐」と「啄」が同時であってはじめて、殻が破れて雛が産まれるわけです。これを「啐啄同時」と言います。これは鶏に限らず、師匠と弟子。親と子の関係にも学ぶべき大切な言葉です。 平成21年は、妙心寺ご開山さま(関山慧玄・無相大師)の650年の遠忌大法会が厳修されます。そのご開山さまの逸話を一つ紹介します。 ある雨の日のこと、開山さまの部屋から、「なんぞ持ってこい」と呼ぶ声がしました。「また雨漏りだ、早く何か持っていけ」と僧たちが騒いでいると、一人の僧がざるを持って飛んで行きました。すると、「これだ、これだ、よく持ってきた」と上機嫌でほめているところへ、もう一人の僧が
妙心寺派宗務本所での仕事の為、京都に単身赴任しているわたしが気にすることは、小学生になる子どもたちがどんな毎日を送っているのかということです。電話で話したり、家内からのメールなどでその生活ぶりを知ることはできますが、やはりこの目で見るのが一番です。帰宅するとまっさきに目に飛び込んでくるのが玄関の靴です。きちんと揃えられているか、野球のスパイクは汚れていないか。そして子ども部屋の机の上やマンガや新幹線の本が並べられた本棚。勉強の本よりマンガ本が多いことが気になりますが、一巻~九巻までが、順番どおり並んでいたりするのをみると、なんとなくホッとさせられます。 禅語に「看脚下」という言葉があります。 ある夜、五祖法演禅師が、三人の弟子たちと夜道を寺へと帰る途中、突然の風のために手にしていた灯火が消えてしまったのです。そのとき、法演禅師が「一転語を示してみよ」と弟子たちに問いかけました。「夜道を行く
坐るにはどうするか 平素の生活の中でこれまで述べたような準備がととのえられたら、いよいよ坐ることになります。『坐禅儀』には、 坐禅せんと欲するとき、閑静処において、厚く坐物を敷き、ゆるく衣帯をかけ、威儀をして斉整ならしめ、しかるのち結跏趺坐す とあります。この言葉を参考に、わかりやすく説明します。 坐る場所を選ぶ ここには、まず坐る場所を閑静処、つまり静かなところと規定しております。しかし、現実の問題として、今の都会生活者にはその閑静な場所を選ぶことが容易ではないでしょうが出来るだけ閑静処を選ぶよう工夫した方がよいでしょう。 たとえば、庭の縁側などで自然と一体になって坐るのもいいと思われます。他には、できるだけ外の音や家庭内の雑音が入ってこない書斎や寝室など、精神が集中できる場所を捜して下さい。 また、少々の騒音は我慢するとしても、昔から強い風や、直射日光の当たるところでは坐らないように、
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天龍寺は、京都の観光地・嵐山の、桂川中ノ島から渡月橋を渡って北へ向かう通りに面して門を構える。嵐山・亀山を借景に境内が広がる。観光名所の渡月橋や天龍寺北側の亀山公園なども、かつては天龍寺の境内地であったという。 天龍寺の開基は足利尊氏である。暦応2年(1339)8月、後醍醐天皇が崩御されたが、その菩提を弔うため、夢窓国師(夢窓疎石。以下国師と記す)を開山に迎えて、光厳上皇の院宣を受けて開創された。 康永4年(1345)秋、後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて盛大に落慶法要が営まれた。初め暦応資聖禅寺と号したが、比叡山が暦応の年号を寺号とすることに反対し、抗議したため、天龍資聖禅寺と改めた。 天龍寺の地は、檀林皇后が創建した檀林寺の跡地で、檀林寺が廃絶した後、建長年中に後嵯峨上皇が新たに仙洞御所を造営し、次に亀山上皇が仮御所としていた地である。暦応4年(1341)7月、(地曳祭)を行い、国師や尊氏が
禅語とは 禅語とは、禅的な真理を簡潔に表現した語句を言います。比較的短いものが多く、「禅に関する名文句」と言っても良いでしょう。「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」や「平常心是道(びょうじょうしんこれどう)」など、よく知られている禅語の多くは、禅の古典や高僧の言葉から取られています。また、仏教以外の漢籍や、詩人たちの作品の一部が、新たに禅的な意味を担わされ、禅語として扱われることもあります。例えば「悠然として南山を見る」は、陶淵明の有名な詩の一節です。 さらには、日本の和歌や民謡、ことわざなどの一節も、禅語に準じて使用されることさえあるのです。「禅林世語」と呼ばれるものの多くは、こうした世俗の言葉から取られています。禅の眼を通して見れば、真理を表現した言葉は至る所にあるのかも知れません。
妙心寺の開基、花園法皇は大燈国師こと大徳寺の宗峰妙超禅師に参禅し、印可(弟子が悟りを得たことを師が認可すること)されました。妙心寺の開山、関山慧玄禅師も宗峰妙超禅師の法を嗣がれています。建武4年(1337)、宗峰妙超禅師は、病に伏し重態となられました。ご自身の没後には花園法皇の師とする禅僧に、弟子の関山慧玄禅師を推挙され、また、花園法皇が自らの離宮を禅寺とされるにあたり、その山号寺号を正法山妙心寺と命名されました。その年の12月22日、宗峰妙超禅師は亡くなられ、妙心寺ではこの建武四年を妙心寺開創の年としています。 花園法皇は、自らの離宮を玉鳳院とし、そこから関山慧玄禅師に参禅されました。そして暦応5年(1342)、花園法皇は仁和寺花園御所跡を関山慧玄禅師にまかせられ、妙心寺の寺基が定まりました。 貞和3年(1347)7月22日、花園法皇は妙心寺に寄せる熱い思いを「往年の宸翰」にしたためられ
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