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大谷翔平
sengokukomonjo.hatenablog.com
『新九郎、奔る!』第10集が出版されました。 新九郎、奔る!(10) (ビッグコミックス) 新九郎、奔る!(10) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ] 今川義忠戦死後の今川家の内紛の収束、そしてそれに伴う伊都(義忠後室、新九郎姉、北川殿)と龍王(のちの今川氏親)の上洛、長尾景春の乱、応仁の乱の収束、新九郎の足利義尚御供衆の就任と話が動いていきます。 このうち私の目を引いたのは伊都らの上洛です。これは黒田基樹氏(本書の「協力」として名前が上がっています)の説です。龍王の姉(作中では亀)が正親町三条実望に嫁いだことから、彼女らが駿河にいたとは考えられない、という所説です。 そのきっかけとして今川範満サイド(範満本人は知らない、福島修理亮があやしい雰囲気を出している)による伊都・龍王暗殺未遂が描かれています。これは本書におけるフィクション部分ですが、話としてうまく繋がっていっていると
『新九郎、奔る!』第8巻の表紙は今川義忠です。 新九郎、奔る!(8) (ビッグコミックス) 新九郎、奔る!(8) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ] 今川家で最も有名な今川義元の祖父にあたり、北条早雲こと伊勢新九郎の義兄にあたります。今川義忠の突然の戦死とその後のお家騒動への関与が北条早雲こと伊勢新九郎の台頭のきっかけでした。 この今川義忠の時代に実は今川家の戦国大名化の契機があります。この辺を上手に『新九郎、奔る』第8巻では説明されています。 「戦国大名」はそれまでの「守護大名」とどう違うのでしょうか。 戦国大名とは何か、という問いの答えはまだ統一したものはありませんが、最大公約数的に見れば、数郡から数国規模の広い領域を支配し、家中と国衆を支配し、朝廷や室町幕府という観念的な権威以外には服さず、独自の支配を打ち立てている、ということになるでしょう。 戦国大名には守護もしくは守
足利義教はしばしば織田信長のモデルともなった強力なリーダーシップを持った強烈な独裁者というイメージを持たれています。もっとも織田信長は足利義教のことを「悪御所」とディスっていますから、信長が義教のことを基本的には評価していなかったことが伺えます。義昭に対して「義教様は悪御所と呼ばれてますが何ででしょうねぇ(何かを見た)」と皮肉をかましていますが、部下に殺されてしまうまでそっくりなため、信長が殺された時に義昭は「特大ブーメラン乙」と思ったでしょう。 義教はその強烈なリーダーシップを生かして北海道から沖縄まで支配したことになっています。 もちろん誤りです。琉球に関しては現在研究上琉球を支配したことになっている論拠である「嘉吉附庸説」は完全に否定され尽くしており、これを事実として取り上げる著作物は歴史の著作ではなく、政治イデオロギーを主張するものでしかありません。イデオロギーを主張するのはよいの
足利義教が琉球を島津氏に与えた、というデマがあります。これはデマと言って何ら問題はありません。これは学問上ではすでに否定され、決着がついている問題ですが、いまだにネット上では信じられているデマでもあります。多くの義教関係の著作や琉球関係の著作で否定され続けているにも関わらず、まだ生命力を持っており、クマムシか、と思っていましたら、その供給源が一つ明らかになりました。 【今日は何の日】嘉吉元年4月13日(J 1441/5/3)足利義教,琉球を島津忠国の属国とする(島津家譜)。『日本史総合年表 第2版』より。 #yk_nannohi — 吉川弘文館営業部official (@yk_sales) 2015年4月12日 吉川弘文館のお墨付きとなればいつまでたっても減らないわけです。『日本史総合年表 第2版』(吉川弘文館、2005年)を基にしているので余計にタチが悪い、としか言いようがありません。吉
大河ドラマ『麒麟がくる』、織田信長と正親町天皇の関係が悪化し、間に立つ明智光秀の心労が増している、という話のようです。 実際信長と正親町天皇の関係はどうだったのでしょうか。 従来、信長は自分の意のままにならない正親町天皇を退位させ、自分に都合の良い誠仁親王(さねひとしんのう)を天皇につけようとしてきた、とされてきました。大河ドラマもその方向で描かれている、と言っていいでしょう。 しかし現在の学界の多数説はその見方を否定しています。 詳しくは渡邊大門編『虚像の織田信長』(柏書房)に収録された「実は「信頼関係」で結ばれていた信長と天皇」をご覧いただければ嬉しいのですが、ここでそのアウトラインを書いておきます。 虚像の織田信長 覆された九つの定説 一言で結論から言いますと、信長は正親町天皇に対しては「しょうがねえ奴だなぁ」と思っていたのではないか、と考えています。実際正親町天皇の迷走ぶりはひどく
後花園天皇(厳密には上皇、以後全て後花園天皇に統一する)の出家は帝王不徳の責めを感じて出家したのは事実ですが、それはいわゆる引責辞任というようなものではありません。後花園天皇は閉眼の直前まで、さらには死後もなお「戦い続けた天皇」でした。 拙著『乱世の天皇』は事実上後花園天皇の評伝です。あまり知名度はありません。何しろ「後花園天皇と応仁の乱」という演題でご来場の皆様にお尋ねしたところ、80人中二人しかご存知なかった、とか、亀田俊和氏の『観応の擾乱』(中公新書)の出版が決まった時に「あの亀田さんが『観応の擾乱』を出すとは素晴らしい!」と感動していた弟も後花園天皇について「誰や?」と言っていた、とか、後花園天皇推しの私の周りには「後花園天皇、誰?」感がただよっています。 室町時代の天皇というのは長らくマイナーな分野で、私からすれば意外と一般書も出されている、という印象ですし(今谷明氏の『室町の王
追記:この記事を基にして『研究論集 歴史と文化』第5号に「後花園天皇と貞成親王の関係についての基礎的考察」を掲載させていただきました。 後花園天皇と父親の伏見宮貞成親王の間を引き裂くようなデマを言いふらして失脚した広橋兼郷、行動が少し怪しい、とか、あまりにも悪質だとか言われています。 そこで今日は広橋兼郷について調べてみました! 卒業写真は?彼女はいるの?SNSは? プロフィール 名前 広橋兼郷(ひろはし かねさと) 応永八(1401)年生まれ 父親、広橋兼宣 極官 従二位権中納言 改名歴 宣光→親光→兼郷 広橋兼郷といえば、後花園天皇と伏見宮貞成親王の間のデマを流布し、そのせいで後花園天皇の弟宮の貞常親王への親王宣下が遅れた、と言われています。その責任を取らされて流罪になるべきところを時の将軍足利義政の母の日野重子の口添えで流罪は回避され、所領に引きこもっていましたが、暗殺されたと『公卿
以仁王の令旨が全国にばらまかれ、それに対応した源氏が諸国で蜂起し、ついに平氏を滅ぼすに至った! それは本当でしょうか? どうも近年の研究では必ずしもそうは言えない、ということのようです。 源頼朝のケースです。頼朝のもとに令旨をもたらしたのは頼朝の叔父の源行家でした。このとき頼朝は斎戒沐浴して義父の北条時政とともに令旨を見た、とされています。そして令旨の到来を受けて挙兵を決意した、と『吾妻鏡』には記されています。 しかしそこから二ヶ月、頼朝は動きません。五月には頼政家臣で頼朝の支援者の寒河尼につながる下河辺行平からクーデタ計画の情報がもたらされたにも関わらず、です。 頼朝が動き出すのは三善康信からの知らせを受けてからです。細川重男氏は二ヶ月は長すぎだろう、と言っています。そう思います。頼朝は挙兵の準備に取り掛かったのではなく、迷ったのでもなく、なかったことにしたのでしょう。 それはそうでしょ
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