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コーヒー沼
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金属供出 代替梵鐘 昭和13年、政府は戦局の悪化と物資の不足、特に武器生産に必要な金属資源の不足を補うため、鉄鋼配給規 則を制定する一方、不要不急の金属類の回収を呼びかけ声明を発表。 宗教施設も例外では無く寺院の梵鐘も数多く供出されたが、鐘楼は梵鐘の重量でバランスを保つ構造になって いる事から崩壊の危険が有り、多くの寺院では石・コンクリート等で作られた代替梵鐘を吊り下げた。 各寺院から供出された梵鐘 各寺院から供出された梵鐘 各寺院から供出された梵鐘 金属供出で集められた梵鐘 興徳寺 福島県福島市 戦後、代替梵鐘として使用された松根油釜 由来 太平洋戦争の末期、燃料欠乏に対処する国策として、松野の根を乾溜して原油を採取する 施策を決定した当局は、町村長に対し「現下航空決戦緊急需要に対処する為、操業日数月 三十日を目途とし全乾溜機能を遺憾なく発揮せしめ、生産倍加に格段の御配慮相成度」と 供出
画集戦時徴用船の最期 資料提供:秦 一生様(財団法人日本殉職船員顕彰会 常務理事) 財団法人 日本殉職船員顕彰会 〒102-0083 東京都千代田区麹町4-5 海事センタービル TEL 03-3234-0662 FAX 03-3234-0682 画・大久保 一郎画伯(大阪商船の嘱託画家/昭和51年没) ぶら志゛る丸 昭和17年7月31日、海軍徴用船「ぶら志゛る丸」は軍需物資輸送のため横須賀を出港、 大阪、釜山を経由してトラック島に入港。8月4日、同地から横須賀へ向かった。翌5日、 敵潜水艦の雷撃を受け大爆発、、船尾から沈下し七分後には棒立ちとなり海中に没した。 大野船長は「天皇陛下万歳」を叫びながら、船と運命をともにした。戦死者57名。 ぼるねお丸 昭和17年9月27日、陸軍徴用船「ぼるねお丸」は兵器、弾薬、糧秣を積載して小樽を出港 しキスカ島へ向かった。10月6日にキスカ島に入港、徹夜
木村 久夫 陸軍上等兵 京都大学卒業。昭和21年5月、上官が起こした捕虜虐待の罪により、 シンガポール・チャンギー刑務所にて刑死、 28歳。 尚、当事者の上官は罪を免れている。 遺書 私の死に当っての感想を断片的に書き綴ってゆく。 紙に書くことを許されない今の私に 取ってはこれに記すより他に方法はないのである。 私は死刑を宣告せられた。誰がこれ を予測したであろう。年齢三十に至らず、かつ、学半ばにしてこの世を去る運命を誰が予 知し得たであろう。波澗の極めて多かった私の一生はまたもや類まれな一波瀾の中に沈み 消えて行く。我ながら一篇の小説を見るような感がする。しかしこれも運命の命ずるとこ ろと知った時、最後の諦観が湧いて来た。大きな歴史の転換の下には、私のような蔭の犠 牲がいかに多くあったかを過去の歴史に照して知る時、全く無意味のように見える私の死 も、大きな世界歴吏の命ずるところと感知する
硫黄島玉砕 米軍は昭和19年8月の時点でサイパン、グアム、テニアン島などを制圧、B29爆撃機による日本本土への 長距離爆撃を開始した。 一方、大本営は硫黄島の戦略的重要性を認識し、小笠原兵団第109師団(栗林忠道陸軍中将)、混成第二 旅団(千田貞季陸軍少将)、第27航空戦隊(市丸利之助海軍少将)、軍属、特年兵(少年兵)を含む総数約 21,000名を配置した。 栗林中将は持久戦にそなえ、島内各所に全長18Kmにも及ぶ地下壕を作りこの戦いに備えた。 栗林忠道陸軍中将 市丸利之助海軍少将 米軍の兵力は、艦船800隻の、航空機4,000機、総数25万人。昭和20年2月16日、硫黄島に対して熾烈 な艦砲射撃と空爆が開始された。19日にはB-29による空爆と硫黄島沖に集結した艦隊による砲撃が全島 を襲い、硫黄島の南海岸には約130隻の上陸用船艇第一波が上陸した。
第五福竜丸 昭和29年 3月 1日、アメリカは北太平洋赤道海域のマーシャル諸島ビキニ環礁で水素爆弾の実験を 行った。 その爆発力は広島・長崎に投下された原子爆弾の1000倍以上にも達し、 太平洋の広い地域に多大の 被害を及ぼした。 ビキニ環礁で行われた水爆実験のきのこ雲 被爆前の第五福竜丸(昭和28年頃) 第五福竜丸の大漁旗 . 被爆 その日、日本のマグロ漁船:第五福竜丸はビキニ環礁の東方160キロメートルの海上で操業していた。 午前3時45分、突如西の空が明るく輝き、水平線から巨大な火の塊が浮かんだ。数分後に大爆発音が轟き、 3~4時間後には空全体を覆った雲から白い灰が落ちてきて、甲板に積もり始めた。 白い灰は乗組員の顔、手、足、頭髪に付着し、鼻腔から隊内にも吸いこまれた。やがて放射線による火傷が 生じ、顔はどす黒くなり、歯ぐきからは血
第六号潜水艇 明治43年 4月15日 09:50、第六号潜水艇は山口県新湊沖において半潜航実験の後、 全潜航に入り海底沈座などの潜航訓練を開始した。しかし間もなく海水が浸入し必死の排水 作業にも係わらず、佐久間勉艇長以下14名を載せた六号艇が再び自力で浮上することは なかった。 第六号潜水艇 艇長:佐久間勉海軍大尉 翌16日に沈没した艇体が発見され、17日になって浅瀬に回航された。当時の潜水艇の 性能から生存者の望みは無かった。 問題は乗組員が帝國海軍軍人として相応しい死に方をしているか、という一点にあった。 直近で外国の海軍に同様の事故があり、乗組員の醜態が世間に知られていたからだ。 「よろしいっ」。 まさに絶叫であった。引き揚げられた六号艇の状況を検分した吉川中佐の絶叫は号泣に 変わり、男泣きに泣き崩れた。 艇長は司令塔に、機関中尉は電動機
原子爆弾 資料提供:HP「帝國陸海軍現存兵器」製作者様 日本は世界で唯一の、計画的な戦略攻撃による核被爆国である。 この多くの一般市民を巻き込んだ非人道的な作戦については、既に多くの著述・論説が発表されており、 今更多言を必要としないであろう。 原爆投下計画 ヨーロッパ戦線での帰趨がまだはっきりしない昭和18年の時点で、アメリカは既に日本に対する原爆使用 を決め開発に着手していた。 原爆計画委員会の科学者顧問団は、原爆実験について下記のように答申した。 . 1、原爆は日本に対し出来るだけ早く使用すべきである。 . 2、原爆は日本政府に無条件降伏の最後の決断をさせるよう、一大軍事施設に投下すべきである。 . 3、原爆は事前に予告せず軍事的に使用すべきである。 原子爆弾の使用される目標がドイツではなく日本であった理由は、以下の諸
愛国顕彰ホームページ 祖国日本 ふるさと にっぽん 貴方は自分が生まれ育った国 日本に誇りを持っていますか 第一部 殉 國 之 碑 じゅんこく の いしぶみ くにのため いのち捧げし ますらをの いさを忘るな 時うつれども 更新日:2020年05月08日 ページ更新 「鎮魂の霊地/拓魂公苑、厚木空神社、乃木神社、大阪城、佐世保海軍墓地、釜墓地」 ・・・更新履歴をご参照ください 目 次 は じ め に 英 霊 更 新 履 歴 項目別索引 海兵73期 勝山 淳 峯 眞佐雄 血染の鉢巻 回天特攻隊 小灘 利春 岡田 純 久保 吉輝 甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会・関西甲飛十三期会 公認HP --------------------------------------------- 帝 國 海 軍 艦艇殉難史 果断の提督 海 軍 三 校 予 科 練 術 科 学 校 予 備 学
都市空襲 概 説 都 市 空 襲 大阪市空襲 名古屋空襲 模擬原爆(東京)、模擬原爆(島田) 模擬原爆(新潟) 模擬原爆(富山) 模擬原爆(春日井) 模擬原爆( 大垣) 模擬原爆(大阪) 原 子 爆 弾 学 童 疎 開 十六地蔵尊 ムッちゃん像 動物園処置 戦 災 孤 児 空襲の記録 昭和17.04.18 東京都、他 本土初空襲 昭和19.06.15 福岡県北九州市 八幡空襲 昭和19.08.20 福岡県北九州市 八幡空襲 昭和19.08.20 福岡県上空 野辺 重夫・高木 傳蔵 昭和19.10.10 沖縄県那覇市 十・十空襲 昭和19.10.25 長崎県大村市 大村大空襲 昭和19.11.15 福岡県大牟田市 大牟田空襲 昭和19.11.21 長崎県上空 坂本 幹彦 昭和19.11.21 熊本県熊本市 熊本空襲 昭和
軍事裁判 軍 事 裁 判 軍 事 裁 判 A 級 裁 判 パール博士 BC級裁判 虐待の証言 関 連 史 蹟 巣鴨プリズン 久 保 山 伊 豆 山 三 ヶ 根 山 高 野 山 直 江 津 BC級史蹟 殉難者顕彰 昭和殉難者 醍醐 忠重 本間 雅晴 加藤 榮吉 堀内 豊秋 都子野順三郎 満淵 正明 木村 久夫 上田 貢 教誨師 花山信勝師 田嶋隆純師 目 次 更新日:2007/06/30
ラダ・ビノード・パール राधाबिनोद पाल 法学教授・国際連合国際法委員会委員長 略歴 1886年 1月27日 インド・ベンガル州ノディア出身 1911年 月 日 カルカッタ大学理学部、法学部卒業 1923年 月 日 カルカッタ大学法学部教授 1924年 月 日 法学博士号を取得 1927年 月 日 インド政府法律顧問 1941年 月 日 カルカッタ高等裁判所判事 1944年 月 日 カルカッタ大学総長 1946年 月 日 極東軍事裁判インド代表判事 日本人戦犯7人の全員無罪を主張 1952年 月 日 国際連合国際法委員会委員 1966年10月 日 勲一等瑞宝章受賞 1967年 1月10日 逝去(享年82才) 極東軍事裁判 パール判事は、この裁判が最初から日本を侵略国と決め付けていることに不快感を示した。そしてこの 裁判の本質は連合国側の政治目的を
東京大空襲 昭和20年 3月10日 昭和20年3月9日22:30警戒警報発令、二機のB29が東京上空に飛来して房総沖に退去したと 見せかけ、都民が安心した10日00:08に第一弾が投下された。 東部軍管区司令部はまだ気付いておらず、当然ながら空襲警報も鳴らない。 00:15空襲警報発令、それから約二時間半にわたって波状絨毯爆撃が行われた。 各機平均6トン以上の焼夷弾を搭載した344機のB29の大群が、房総半島沖合から単機または数 機に分散して低高度で東京の下町に浸入した。 都民の虚をついて来襲したB29の大編隊は、低空からアルミの細片をばら撒いて日本軍の電波探 知機を無能にし、機体を捉えたサーチライトには機銃掃射を浴びせかけた。 B29の先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40k㎡の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を 投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った。 その後
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