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アメリカ大統領選
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元内閣官房副長官補・国家安全保障局次長 兼原信克 安倍総理と初めてお会いしたのは、安倍晋太郎外務大臣の時だった。高野紀元秘書官が、山口県出身の外務省職員を赤坂の料亭に集めて、外務大臣秘書官になられたばかりの安倍晋三氏に紹介された。安倍総理は当時の若者らしく長髪で、低い鴨居の下を長身の身をかがめ、ひょっと頭を下げて入ってこられ、少し緊張した面持ちで座布団の上に座られた。何か運命的なものを感じたが、その時は、それが何かわからなかった。 北朝鮮の核実験 安倍総理は、絶大な国民的人気を誇った小泉総理に、北朝鮮による拉致被害者への対応が認められて抜擢された。日本に一時帰国した拉致被害者が北朝鮮への帰還を拒否した時、「あくまでも一時帰国だ」としていた小泉総理と金正日の約束を反故にしてでも、北朝鮮に帰してはならないと一人頑張ったのが若き日の安倍総理だった。その後、安倍総理は、自民党幹事長、官房長官、総理
元駐ウクライナ大使 角 茂樹 1.ロシアの侵略 2022年2月24日未明、ロシア軍は突如ウクライナに対して巡航ミサイルを発射し、国境を越えてウクライナ領内になだれ込んだ。これに対し、ウクライナ国民は一瞬怯えおののいたものの、愛国心とロシアに対する憎悪に燃え国を挙げて抗戦。簡単にウクライナ軍を壊滅できると踏んだプーチン大統領の予想に反し、ウクライナ軍はロシア軍に対して善戦し、戦局は長期戦の様相を呈してきている。 2.プーチン論文の欺瞞 これに先立つ2021年7月、プーチン大統領は「ロシアとウクライナの歴史的一体性」と題する論文を発表し、ロシアとウクライナは民族的にも歴史的にも宗教的にも言語的にも一つの人々であって、これを割こうとするのは、米国とEUそしてそれに乗せられた間違ったウクライナの指導者であると論じ、ウクライナの主権はロシアのパートナーシップの範囲内でのみ存続するという結論を導き出し
前駐ウクライナ大使 倉井高志 2019年1月から2021年10月まで駐ウクライナ大使を務めて最近帰国した倉井高志大使は、インタビューに応え、ウクライナの特徴と魅力、在任中に経験したことや力を入れて取り組んだこと、日本との関係とその展望等について以下の通り語りました。 ―ウクライナはどんな国ですか。その魅力は何ですか。 初夏にキエフ郊外をドライブすると、遙か地平線まで黄色一色に広がる見事なひまわり畑を見ることができます。一直線に広がるひまわりの上には真っ青な空が果てしなく広がっている。このような、地平線を境に上半分が青、下半分が黄色の二色で構成される景観をそのまま図案化したのがウクライナの国旗。果てしなく広がる大地、ヨーロッパの穀倉地帯と言われた肥沃な土地が、ウクライナの最大かつ最も重要な特徴であると自分は思います。 「最も重要」というのは、この自然環境がウクライナの人々のメンタリティに大き
昨年12月5日夕刻、キエフのインターコンチネンタルホテルに於いて恒例の天皇誕生日の準備を進めているとペチュルスカ大修道院の主教が他のゲストに先駆けて私のところに近よって来た。そしてその主教は陛下の誕生日の祝辞を述べるとともにウクライナに於いてモスクワ総主教座に属する教会が迫害を受けているので助けて欲しいと述べたのである。この発言の意味を理解するためにはウクライナの複雑な教会の歴史を知る必要があるので教会からみたウクライナとロシアの問題ついて語りたいと思う。 1.歴史的背景 東スラブのキリスト教化は、988年にキエフを首都としたキエフ・ルーシー公国の大公がビザンチン帝国の司祭により洗礼を受けたことが始まりとされている。ただし4世紀にエウセビウスという人が書いた「教会史」には、キリストの弟子のひとりである聖アンドレアがキエフを訪れたとの記述があり、ウクライナの教会は、それよりもっと早く聖アンド
原節子は昭和の伝統的な女優で2015年に95歳で亡くなった。14歳で映画界に入り美貌をうたわれ百を超える映画に出演し1963年43歳のとき理由を告げず突然引退した。その後は電話手紙を含め外との接触を全て拒絶して過ごした。隠棲の理由は色々憶測されてきたが確かなことは分からない。 隠棲という生き方は日本古来のものではない。古事記や日本書紀には後の聖の原型のような人物や王位継承闘争に敗れて僻地に逃れ住んだ貴人などは出てくるが思うところあって俗世を離脱し隠棲したなどという人は出てこないという。中国には太古から人格・能力に優れている者が権力や政事を厭わしく思い乞われてもそれに背を向け野に隠れ住むという逸民の伝統がある。「中国の隠者」(富士正晴)によると、論語にはそうした隠者が七人も書かれおり孔子が生きた春秋時代には相当数いた筈だという。それが更に数多くなるのが漢王朝末期から魏・晋・南北朝時代(AD
平成25年4月1日に当時の岸田外務大臣から「外務省参与を命ずる。外国要人接遇業務に従事せしめる」との辞令を、また同時に「外国要人接遇業務に従事する期間大使の名称を与える」との別の辞令をいただき、爾来約130回ほど外国要人の送迎のために成田空港に通ったことになる。初代在エストニア国特命全権大使を辞して間もなく人事課長からいただいた1本の電話から始まった成田空港通いもこの3月で5年になろうとしており、齢70にならんとする今日、そろそろ最後の御奉公に区切りをつける時を迎えつつある。そこで直接の関係者以外に殆ど知られることのないこの仕事の実態について、読者の皆様の理解を深めていただくべく、少し詳しくご紹介することと致したい。いささか手前味噌になっている点は予めお許しを乞う。(内容は須らく筆者の個人的見解です。) 大臣官房総務課からいただいている名刺には英文で、「Ambassador、Special
明けましておめでとうございます。 皆様のますますのご多幸をお祈りいたします。 平成最後の正月を迎えるにあたり、霞関会事務局から新年号の「霞関会会報」に何か書いてほしいと依頼を受けましたので、秘書官としてお仕えした小渕恵三外務大臣に関するエピソードを中心に思い出すままに書くことにしました。 小渕先生といえば「平成」と墨書きされた額を掲げながら、新元号を官房長官として発表した時の写真があまりにも有名です。政治家として謂わば「全国デビュー」を果たした瞬間とも言える極めて重要な歴史の大きな節目に居合わせた訳です。 1.大臣秘書官の拝命 その小渕先生が第二次橋本改造内閣の外務大臣として入閣されたのは、平成9年(1997年)9月11日のことでした。そして、その前日に突然、堂道総務課長から私に電話があり「海外出張中の小松人事課長に代わり内示する。大臣秘書官を発令する。」と伝えられました。その時、私は経済
スパイ小説の大家ジョン・ル・カレの自伝的作品「地下道の鳩」の翻訳(加賀山卓郎訳 早川書房)が出たので読んでみるといろいろなことがわかってきました。ジョン・ル・カレことデイヴィッド・コーンウエルとは若い頃ちょっとした接点があったのです。時期は1961年から1~2年間。場所は当時西独の首都ボン。コーンウエル(以下ル・カレ)はイギリス大使館の二等書記官。私は日本大使館の三等書記官で、歳は先方が2つばかり上。きっかけは忘れましたが、似たようなランクの同業ということで知り会ったのでしょう。 親しいというほどの仲でないながらパーティなどで見かけると話しかけるようになったのは、先方のドイツ語が達者でしかも西ドイツの政情について豊富な情報を持っていたからです。ル・カレのドイツ語は英米人に特有な訛がなくすこぶる流暢。英語が苦手な私には楽でした。また自伝が明らかにしたようにそのとき彼は実はイギリスの諜報機関M
このサイトでは、外務本省・在外公館に勤務している、または勤務していた霞関会会員等が、国際情勢や外交について、その知見や経験に基づいて各個人の見解や分析を記述した寄稿文などを掲載しています。外交をより身近に感じていただければ幸いです。
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