サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
www.mitrablog.com
仁徳天皇が作ったコリアタウン 大坂生野区の鶴橋は西暦400年頃までには渡来人居住地になっていて、猪飼野と呼ばれていました。 日本書紀によると仁徳天皇14年11月に、『猪甘津(いかいのつ)に橋わたす』と記されています。 仁徳天皇は西暦420年代崩御したが、渡来人を大阪に連れてきて労働者として大阪湾埋め立てなどに使役したとされる。 それだけではなく渡来人の居住地や住居にも気を配り、自ら渡来人居住地を視察したほどだったという。 当時の大阪湾は海が土砂で埋まりつつあり、海岸線は中央区あたりにあり、沖には百済洲と新羅洲があった。 百済洲は百済人居住地の島で現在の浪速区とほぼ等しく、新羅洲は新羅人居住地の島で現在の西区と中央区の一部にあたる。 新羅洲と百済洲から近い中央区から大阪城にかけてが高台で、生野区は入江になっていました。 生野区の鶴橋は当時猪飼野と呼ばれていて、半島人が猪を飼育して肉を食べてい
滝川沿いの小集落 奈良県十津川村は十津川支流や周辺の山々に広がり日本一面積が広い村で知られている。 十津川の中ほどに風屋ダムがあり、東に滝川という支流が伸びていて、源流は釈迦ヶ岳などに繋がっている。 その辺りまで行くのは釣り人と登山家くらいだが、滝川沿いの道は3つの集落が存在している。 下流から滝川集落、内原集落、奥里集落で3つとも斜面に建物が並ぶ傾斜集落になっている。 ここには2019年9月にも来たことがあるが、台風の合間で曇っていた上に雨が降り出して大急ぎで回りました。 今回は冬だったので十津川村まで行く予定はなかったが、天気予報を見たら十津川村だけが晴れ予報でした。 十津川村は周囲を山に囲まれているので、雨雲は周辺の山に降ってしまい中心部は晴れやすいのかも知れません。 晴れたと言っても気温は平野部より低く、この日も朝は気温0度で4度以上あった大阪市内よりかなり寒かった。 大滝集落は大
傾斜集落 斜面の傾斜集落には不思議な魅力があり、日本に在りながら遠い国の風景のように見えます。 このブログでも何度も取り上げてきたが、写真で伝えるのは非常に難しい。 というのは斜面にある集落は山間地にあり、地形や障害物で全体を見渡せません。 上からは樹木に遮られて下が見れないのが普通だし、下から見上げても数軒の家と樹々が見えるだけです。 ラッキーな場所では少し離れた反対側から全体を撮れるが、そんな傾斜集落は滅多にない。 奈良市月ヶ瀬桃香野の集落もそうで、山影で薄暗く場所が狭いので、写真ではあまり伝わらない。 今回のもう一カ所は奈良市邑地町の水越神社で、寒村の秘境といった趣で、橋を渡った川の向こうに神社がある。 神社は深い森に囲まれていて、参道を歩くと幻想的な雰囲気になっている。 水越神社の社叢(神社の森)は天然記念物に指定されていて、社殿の横には巨木が立っている。 全国的にはまったく無名で
奈良や近畿の山間部の冬 12月に京都府笠置町から柳生の里を通って名張川沿いの集落まで行ってきました。 この頃になると山間部の気温は0度から4度くらいで、体感気温はそこから12度引いた温度になっています。 ワークマンのイージスを着ているので体温は保たれるが、呼吸する外気温が低いのはどうしようもない。 着込んだ温かさと外気温の温度差で疲労がたまり、バイクで走りながら眠くなる症状が現れます。 良く登山の遭難映画で「眠るなしぬぞ!」と顔を叩いてますが、猛烈な眠気が襲ってきます。 そんな訳で雪が積もっていなくても活動できる範囲が狭くなり、大阪からだと京都や奈良平野部までになります。 笠置町奥田の木造団地、動画にしたものです 大坂や奈良平野部が晴でも山に入ると高確率で雨か雪で、そのうえ疲労が早いので3月まで山間部には入れません。 逆に奈良の山間部に住んでる人は、良くそういう場所で暮らせるもんだなと感心
谷瀬の吊り橋 前回は十津川村の谷瀬まで行きましたが、長さ約300mの谷瀬の吊り橋が有名な観光スポットです。 どうせ観光目的で吊り橋を掛けたのかと思いきや、両岸の集落を行き来するため住民が自費で掛けました。 1954年(昭和29年)に約800万円かかったが、物価が約20倍になったので現在の価値で1億6000万円程度になる。 一軒当たり30万円ほど負担したそうなので、これも現在の価値で20倍の約600万円を負担した事になる。 当時の日本人は国の世話にならず、自分たちでお金を出して公共物を作っていました。 こうした吊り橋が十津川村のあちこちに残されていて、今も使っているものが多い。 谷瀬の吊り橋は全長約300m 寒くて風もあるが観光客がいます 左の地蔵は毎日新しい花が供えられている 道路の山側にも山を削った地蔵があります 大坂などから日帰りで来れるので人気の観光スポット むこうから親子が来ました
今年最後の十津川村 12月前半に十津川村へ行き、今年最後のつもりだったので最初は夏のように遠大な計画を練りました。 十津川村はおおまかにいって北の方から谷瀬の吊り橋、道の駅と役場がある中心部、高校や温泉がある南部になります。 今年最後なので欲張って南部まで行き、山をぐるっと回って新たな集落を発見するつもりでした。 実際バイクで大阪から走ってみると天気予報では最高15度くらいだったのに、天辻峠付近ではマイナスだったと思います。 ワークマンのイージスを着込んでいたのでそれほど寒くなかったが、タイヤのグリップが低下するので速度は出せません。 風もやや強いので思ったより時間がかかり、谷瀬の吊り橋で引き返すことにしました。 その分途中で寄り道し、だらだらと回りながら走ったので余計に時間がかかりました。 春から秋には水を湛えていた猿谷貯水池は渇水期なのが地面が露出し、いかにも寒そうな風景でした。 途中
こういうのは巨大サファリパークみたいな保護区で動物を「飼育」して撮影しています https://assets.media-platform.com/bi/dist/images/2017/11/24/5a145721f914c31e008b54a7.jpgより引用 世の中の真実は大抵汚い ネット回線がCATVでケーブルテレビにパック加入できるので、殆どのCS無料放送が見れるようになっています。 米国製ドキュメントチャンネル(ディスカバリー、アニマルプラネット、ヒストリー、ナショジオ)も写るので時間つぶしに良く見ます。 地上波でたまに見ると気づかないが、毎日何度もそうした番組があって再放送もあるので、細かい部分に気づくようになります。 例えばネイチャー番組で良くあるアフリカのライオン一家の追っかけ番組では、必ず獲物を捕る場面があります。 例えば自分で猫を飼っている人は、自分の猫がセミやネズミ
冬はカメラの違いが大きくなる 最近カメラRX100(無印)に限界を感じていて、晴れの日は良いんですが曇りと日陰だと色が出ません。 かといってHDRなどの補正機能を使うと「補正しました~」みたいにギンギラギンの写真になります。 RX100は1型センサー搭載で普通のコンデジより大きいが、5万円前後のミラーレスよりかなり小さいです。 レンズももっと小さいコンデジより大きいがミラーレスとは比べるべくもない小ささです。 センサーとレンズが小さいので少ししか光を取り込めず、写真は自然光に依存しています。 つまり曇りや森の中など自然光が入らない場所では、もうお手上げなんですね。 RX100無印はアマゾンで3万8千円くらい、安いミラーレスは5万円弱なので、ミラーレスを買えば良かった。 コンデジの利点としてはポケットや小さいカバンに入り持ち歩ける、確かにこのメリットはあり、あらゆる場所に持ち歩きました。 一
葛木坐火雷神社[笛吹神社] 葛城市の笛吹神社は葛木坐火雷神社(かつらきにいますほのいかづちじんじゃ)という長い名前で例によって創建年は不明です。 不明な神社の多くは文字が使われ出した西暦600年台以前で、神社形式になる前から在ったと考えられる。 神社が今の形になったのは仏教伝来で仏教の影響を受けてからで、定型化され神が組織化され立派な拝殿などができた。 そうなる前は山や石など自然物への信仰が強く、今も山の神として山岳地帯で祭られているのに近い。 神社は最初移動式で祭りの儀式のときだけ鳥居を建てて供物をし、せいぜい小さな祠があった程度と考えられる。 西暦600年代から続々と立派な神社が建てられ、仏教寺院と勢力を競うように拡大していった。 弥生時代の遺跡には宗教儀式を行ったらしい広場や、宗教建築物があったと考えられている。 これらが神社とどう結びつくかは分かっていないが、神に供物を捧げる祭祀場
清滝川とウジウジ峠 京都市右京区高雄町の清滝川周辺は、京都の穴場スポットとか隠れ里として知られている。 京都のあらゆる有名観光地には外国人観光客があふれているが、高雄は市街から外れ有名な建物が無いので外国人は少ない。 紅葉のスポットでもあるがあいにく行ったのは9月末だったので、紅葉の写真とかはないです。 高雄一帯は散策路が多く山あいの景色も良いので、旅館などに宿泊してのんびり過ごすのも良いでしょう。 そんな清滝川と分かれて愛宕山の北側に向かうと、道はただの林道になりどんどん狭くきつくなります。 林道は小川に沿っている事が多いが、この林道も途中まで渓流に沿っています。 川がなくなると林道は「とりあえず舗装したが補修はしない」感じになり凸凹した穴だらけになる。 林道の先はウジウジ峠というインパクトの強い峠に続いていて、最後は登山道になるようです。 ようですというのは途中で未舗装路になって引き返
平・広口集落 前回は串柿の里・四郷の東谷集落に行き、やっと串柿を干している風景に出会えました。 かつらぎ町四郷は東谷・平・広口・滝の4集落なので、まだ3つ残っています。 東谷・平・広口は3つの別々の山で、滝は山の下の穴伏川に沿った川集落で谷間になります。 滝集落には国道480号線が走り道の駅「くしがきの里」や直売所や農協、商店などもあります。 農地やまとまった住宅地があるのは現在滝集落だけで、東谷・平・広口は数軒の農家が点在しているだけです。 普通の人でもは道の駅まで行って、ハイキングがてら広口や平の柿畑まで登る事はできる。 1分で見れる動画にしてみました。広口集落をバイクで走っています 1分で見る串柿の里 pic.twitter.com/GCglNTh3Ln — ミトラ(mitra) (@goma_trader) November 6, 2019 平集落で串柿を作っていたあたり ソロバン
廃集落に見えたが山の上に民家があった かつらぎ町の一言主神社と奥ノ宮神社に行ったら周辺の集落はなくなっていて、神社は廃墟のようになっていました。 2つの神社は公園の中にあるらしく町道から道が伸びていて、鳥居の中の遊歩道に繋がっています。 遊歩道は川沿いに三重の滝という名勝まで続いているらしく、おそらくバブル期の昭和末に整備されたのでしょう。 1980年台の日本はお金が余っていて、日本中に大型公園や自然公園が作られ、村おこしとしても注目されていました。 そうした観光地の中には今も賑わっている場所もあるし、荒廃して誰も訪れなくなった場所もあります。 かつらぎ町一言主神社がある下津川は国土地理院の地図にはあるが、グーグルマップからは地名も表示されない。 つまり廃村扱いということで、確かに平野部から山地に入るともう民家は一軒も見えなかった。 家はないが川沿いに畑や果樹園が点在し手入れされているのに
高見小学校跡と高見集落 神武天皇が通ったかも知れない吉野川とは吉野町で分かれて、高見川という支流沿いの道を上ります。 すると地名は東吉野村に変わり、村中すべて過疎集落みたいな風景になります。 高見川沿いに国道166号線の高架道路がまっすぐに通っていて、川沿いの下の方を旧道の県道28号線が通っています。 高見地区という集落に国道からでも見える大きな建物があり、それが旧高見小学校でした。 2005年に廃校になり建物内には入れないが、行った時はグラウンドが開いていて校舎の周りを自由に散歩できた。 東吉野村には小学校が10校あったが現在は1校だけになり、それだけ子供の数が減った。 だがこれはまだ良い方で十津川村には33校あったのが現在は2校だけになり、野迫川村は小学校があるが生徒は1学年2人くらいしかいない。 廃校を回ろうかなと思ったこともあったが、廃校跡のほとんどが廃集落でとてもダークな気分にな
通常1%程度のディスク使用率が100%になる現象 突然の激重 10月にXPパソコンがお亡くなりになり、ショップで中古のウィンドウズ10-DELLタワーPCを格安で購入しました。 不具合も無く快調に使っていて、XPで使っていたゲームだの動画ソフトをバンバンインストールしました。 XP用ソフトのうち全く使えなかったのは動画プレイヤーくらいで、他はネット上に書かれた対策を実行すると使用できました。 なのだがある日唐突に、急激に動作が重くなり、確認したら「ディスク使用率」が時々100%になり殆ど反応しなくなります。 例えばフォルダを開くとか写真を見るような、ワンクリックごとにPCが固まってしまい数十秒間反応しなくなります。 ネットで検索するとこれは『Windows 10 ディスク使用率100%現象』という立派な名前まで付いていて、マイクロソフトが意図的に何かを仕込んでいるらしいと判明しました。 昔
山上の旧道を走る 前回は十津川村山崎の集落まで旧道巡りをしたが、小井という交差点で新道と旧道が大きく離れます。 新しい道は国道168号線でトンネルで山の中を一直線に通り、すぐに十津川村中心部に出ます。 地図を見ると他に道は無いので国道が整備される前は、十津川に沿って山を迂回する道しかなかったようです。 数十年前には道沿いに民家があったのかも知れないが現在は一軒もなく、山側が崩れかけた舗装林道を通る。 十津川の両側は切り立った崖のようになっていて、旧道も山の上から川を見下ろすようになる。 十津川村というか奈良県南部は国道から離れるとほとんどスマホのGPSが使えなくなり地図も表示されない。 ここで倒れたら一日待っていても誰も通らないだろうなと思いながら、崩れた崖の横を通る。 山から下りて十津川に近づくと墓地や建物があり、山の方に入る道がいくつかあった。 こうした辺鄙な場所を走っていると、限界集
十津川村の国道168号が重要な理由 奈良県十津川村に向かう国道168号線は現在はかなり整備されているが、一部林道のように狭い箇所が残されている。 人口過疎地域を通る整備中の路線なので、高速道路のように立派な区間と林道そのままの区間が混在している。 国道に指定されたのは昭和27年で、全線で自動車通行可能になったのは昭和34年になってからだった。 十津川村は有史以前から度々大水害に襲われ、通行の困難さでも知られていて東西に流れる川は龍神に例えられた。 神武天皇が奈良へ攻め込んだルートでもあり、通行困難だから攻めてこないという敵の裏をかいて背後から攻めた。 十津川村は日本一広い面積だが人口は約3100人しかおらず、本来なら国が大規模な投資をする価値もない。 国にとって十津川村の価値は山岳と河川そのものにあり、紀伊半島周辺のすべての都市は紀伊山脈が源流の河川が流れている。 もし十津川村や周辺の山岳
天川村から山越えで川上村へ 奈良県天川村から舗装林道を通って川上村に出る道は、好きな道の一つで何度か通った事があります。 多くの林道や山越えの道は杉の木だらけで風景の変化が乏しかったり、逆に整備されすぎてバイパスになっていたりします。 天川村周辺の道は川や開けた場所があり、道は自然の川に沿っていて適度に通りにくく、それでいて清掃が行き届いている。 山間部の道は舗装されていても利用頻度が低いと掃除されておらず、小石や枝が落ちています。 たかが小石や枝ですが、奈良県南部の山から落ちていきた石はナイフのように尖ってタイヤに刺さるとパンクします。 杉の木の枝もトゲのように尖っている場合があり、やはりタイヤに刺さってパンクする恐れがあります。 そういう訳で特にバイクでは、尖った石や枝を避けれない道は引き返した方が無難です。 山間地では爽快感がある良い道ほど通りにくく、自動車ではすれ違い出来ないか、広
奈良県の下半分は限界集落 奈良県川上村は奈良県の上下中央の右側にあり、平野部に近い(自動車で30分ほど)ので酷い田舎ではない。 奈良県をざっくり上下に割ると下半分が全て限界集落で、限界ではない集落は存在しない。 上半分のうち下1/4は普通の田舎で、時折町があってスーパーやコンビニ、ホームセンターや駅もある。 上4分の1はかなり開けているが、都会っぽいのは右側の奈良市だけ、しかも車で10分ほど走ると山と田んぼと畑ばかりだったりする。 奈良県の下半分には24時間のコンビニは一軒もなく、ヤマザキの昼間だけのコンビニか、コンビニを名乗る個人商店しかない。 スーパーを経営するほどの人口もないのだが、住民たちがどうやって買い物をしているのかは謎です。 時おりスーパーの移動販売車を見かけるが、いつも居る訳ではないし、こうした販売車は赤字で行政が費用を負担している事が多い。 自動車を所有していれば(往復2
神社は神が人間どもを眺める「神目線」でつくられている 神社は人間のための施設ではない 神社に行くときほとんどの人は鳥居がある入口から入って拝殿に行き、境内を散歩して出ていくと思います。 ところがこれは人間から見た見方で、神社はそもそも人間のための施設ではありません。 神社の役割はまず魔物を封じる事で、次は神が一時滞在するために作られました。 記録にある最初の神社は伊勢神宮で、天照が心霊を込めて子孫に授けた八咫鏡(やたのかがみ)が祭られている。 第10代崇神天皇のときに疫病が蔓延し、天照大御神と倭大国魂神の祟りであるとして宮外に移した。 各地を転々とした末に伊勢神宮近くに安置され、伊勢神宮をつくって鏡を祭った。 アマテラスの霊力があまりに強すぎて疫病が蔓延したので、遠くに封じ込めた場所が伊勢神宮だったという伝承です。 もう一つの神社の役割は神が天から降りてきて一時滞在する場所で、神のためのホ
貧しさから住民が集団離村 旧大塔村から天ノ川支流の川原樋川沿いに、奈良県道734号線を遡って中津川に向かっています。 中津川はたまたまネットで見かけた廃村で、廃墟マニアには知られた場所らしいです。 というより天ノ川沿いは168号線が走っていて、過疎とは言え賑やかだったが、川原樋川沿いは丸ごと廃墟な感じです。 廃墟化した家すら見かけず、川原樋川の反対側に渡る橋の多くは、老朽化か災害の為通行止めでした。 川の向こうにある立里という集落にも行きたかったのだが、数十年前に廃村になっていたようです。 県道734号から分岐して中津川に新しい道が伸びているが、計画では集落を貫通して大塔村までつながる筈だったようです。 集落の途中で工事が止まっているのは昭和44年に11戸53人いた村人が、突然ゼロになってしまったからです。 まとまった規模の集落が僅か数か月で消滅した理由は、災害とか何かがあったのでしょうか
大塔町飛養の傾斜集落 前回は旧大塔村の辻堂集落、現在の奈良県五條市大塔町辻堂でしたが、天ノ川を渡って反対側の集落に向かいます。 この天ノ川は上流が十津川になっていて、十津川村と奈良や大阪を結ぶ重要な水路でした。 奈良時代から戦後まで木材が最大の産業だったので、上流で伐採した木材を川で下流に流し、大都市で利用していました。 木材は建築資材から紙、家具や燃料と何にでも使える万能資源だったため、木材の産地は栄えていました。 林業による繁栄は永遠に続くかと思えたが、石炭による工業化と石油の登場、さらに輸入木材で打撃を受けました。 これから目指す中津川では昭和45年頃の世帯平均所得が、奈良県平均の3分の1だったそうです。 当時奈良県の平均所得が東京など大都市の3分の1くらいだったので、奈良山間地の平均所得は東京の1割だったことになります。 これではとても暮らしていけないので山から下りる人が続出し、今
ツタンカーメンの壁画、見れば分かる通り「黒人」で現在のアラブ人とは無関係です http://2.bp.blogspot.com/-vtUScW1Bvkk/TfIYngbRb6I/AAAAAAAABJU/06pxnzI3ogE/s1600/image_large.jpgより引用 他国の遺産を盗んで売ったイギリス イギリスのオークション企業クリスティーズは7月4日に、ツタンカーメン像を競売にかけると発表していました。 高さ28.5センチの像は個人所有で、1970年代に盗まれて現在の所有者に渡ったと見られている。 エジプト政府はイギリス政府とクリスティーズに、競売の中止と像の返還を要請したが却下された。 予定通りオークションが実施されて6億4000万円で落札されたが、エジプト政府は不快感を露わにしている。 ここまで読んでイギリスは酷い国だ、他人の物を盗んで競売に掛けるなど●●人のようだと思うでし
昭和レトロな木造団地が保存されていた 京都府の奈良県に近い南部に木津川が流れ、その山間部に近いあたりに笠置町があります。 この辺まで来ると木津川は川遊びできるほど澄んでいて、川沿いにはキャンプ場などもある。 笠置駅のあたりで木津川支流の打滝川沿いに府道4号線、笠置山添線を上って行くと、町はずれに木造団地が現れます。 打滝川を挟んで東に笠置山、西にも山があって細長い平地が住宅地になっています。 文章で書くとおしゃれな住宅地のようだが実際には山影で日当たりが悪く、どことなく陰気な印象を受ける。 打滝川の西側は広く一戸建ての住宅が多いのだが、川の東側は府道6号との間の僅かな空間しかない。 府道6号も山ギリギリに切り開いているので、かなり無理をしてそこに団地を造成したように見える。 その団地には団地名を示す看板や標識がなく、木造の建築様式からは昭和の中頃のように見えます。 昭和の白黒ドラマに出てく
ダメな観光地を作る奈良市 奈良市には柳生町があり、あの有名な柳生一族とかが住んでいました。 20キロほど東には伊賀忍者の伊賀市、その北側には甲賀忍者の甲賀市があり、忍者地帯を形成しています。 柳生は奈良県、伊賀は三重県、甲賀は滋賀県とそれぞれ別々に「忍者の里」を名乗っています。 そのうち柳生町に行ったのですが、観光地化されていて古い街並みとか農村、山間風景とかはありませんでした。 どこかに在ったのかも知れないが、表通りには屋敷跡などの案内板があるものの、あまり古そうには見えません。 おそらく最近新しく建てたのか、古い建物を観光地化するために改良してしまったようです。 それのどこがダメかというと、例えば道路が広くて整備されていて、バスが何台でも止められるようになっています。 古い石垣とか細い道、昔の農村や街並みは開発の邪魔だということで、綺麗になくなっています。 別に近代化された農村を見たい
棚田農家はどうして棚田を耕すのか 関西でも梅雨が始まった6月中旬に、明日香村の風景を撮りに行きました。 梅雨なので晴ではなく、もしかしたら雨かも知れないという微妙な予報で、山間地には行けませんでした(奈良南部は雨が降りやすい) 雨が降ったら逃げ込む場所があって大阪まで帰れる場所を考えて明日香村になりました。 明日香村には何度も来ていて棚田の撮影地点も頭に入っているので、手早く済ませて帰るつもりです。 明日香村の棚田はそれほど広大ではないものの、阪田、稲淵、栢森、上地区の斜面に存在します。 ところで各地の棚田を見るたびに気になっていたのが作業性の悪い点でした。 いま流行りの言葉では生産性ですが、平地の田んぼと比べるべくもないほど手間が掛かり、効率が悪いです。 一体農家の経営はどうなっているのだろうと思いましたが、「儲かりまっか?」と漫才のように聞く気にもなりませんでした。 そこを調べて見ると
紀元前2000年前ごろのメソポタミアの太陽神 https://aqacompass.up.seesaa.net/image/3E3839FE38388E383A9.jpgより引用 アマテラスから神武天皇 このブログの裏のテーマは古代日本史ですが、中でも最大の謎はアマテラスや神々として描かれた人々です。 これらを「ただの空想」と片づける事もできるが、世界の神話のほとんどには元になった事実があります。 古事記と日本書紀は天から降りてきた神々が出雲を通って奈良に引っ越す話で、考古学の研究結果とも一致しています。 今から3000年ほど前の紀元前10世紀のある日、数十人の渡来人が福岡の海岸に上陸し、初めて田んぼをつくり水耕稲作を始めた。 これが弥生時代の幕開けで、渡来人は九州の縄文人と混ざり合って弥生人になり、紀元前500年ごろ九州に弥生国家を建設します。 これが有名な吉野ケ里遺跡などで、数百年で九
中奥川の瀬戸地区 前回は奈良県川上村の吉野川支流、中奥川に沿って遡り、中奥地区まで来ました。 中奥川のもう少し下流にあった昭和っぽい団地の名前が「瀬戸団地」で、中奥地区の奥地のほうを瀬戸地区と言います。 瀬戸地区という看板があっただけで人が住んでいる民家は一軒もなく、完全に消滅した集落です。 瀬戸地区の看板を過ぎたあたりに短い隧道があり、岩を手彫りでくり抜いただけの姿をしています。 コンクリや鉄骨などの補強は一切ない珍しい隧道なので、トンネルマニアには良いかも知れません。 中奥川沿いの隧道より先は何軒か民家が存在するものの廃屋で、時々開いた空間があるのは家が建っていたのを示している。 昭和50年頃に瀬戸地区の20軒ほどの民家がそっくり下流の瀬戸団地に集団移転してきました。 移転理由は瀬戸小学校の廃校によるもので、驚くべきことに中奥川の奥に小学校が存在した。 文章や写真ではピンと来ないが、今
ダムに消えた大滝集落 奈良県の吉野町を流れる吉野川上流に大滝ダムがあり、吉野川支流に多くの小集落が存在する。 ダム建設で沈んだ集落もあったが、沈まなくても現在は限界集落になったか消滅していた筈です。 国道169号から大滝ダムの堤体に行く道は、ダム直前で左の山に登る道があります。 その道を上るとダムを見下ろせて眺めが良いのですが、民家十数軒の小集落になっています。 まだ新しい建物が多いので、ダム建設に伴って水没した地域から高台に移転したのだと推測できます。 大滝ダムは399戸が完全に水没し475世帯が移転するなど、大滝集落中心部が消滅しました。 現在は高台に存在する丹生川上神社上社も今のダム底にあり、発掘の結果縄文時代から遺跡が存在したのが確認されている。 現存すれば神社と縄文人の関係を立証する決定的な証拠になったかも知れない。(ダム底に『保存』はされている) 中心部が消滅した大滝集落は、大
昭和のB級映画に出てきそうな商店街 過去を消そうとする大阪 江戸時代の大阪市には3か所の刑場(仕置き場)があり、最大のものは千日前刑場でした。 千日前刑場は今のビックカメラ横のカプセルホテルアムザが建っている場所に存在しました。 現在商店街になっている道は刑場から焼き場に運ぶ道で、非人達が荷車で運んでいた筈です。 現在NGK(なんばグランド花月)で漫才をやっている場所が焼き場で、江戸時代には香しい煙が立ち込めていたでしょう。 明治になって大阪市は刑場だった痕跡を徹底的に破壊しようとし、殆どの証拠を隠滅しました。 現在残っている痕跡は刑場周辺に在った寺の一つの法善寺、アムザ裏にある榎地蔵尊、当時から存在した墓地を含むアムザ横の寺だけとなっています。 もう一つの三軒家刑場(仕置き場)は今木刑場とも呼ばれていて、大阪ドームから徒歩15分ほどの場所に存在しました。 浪速区と大正区の間に木津川が流れ
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『www.mitrablog.com』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く