日本列島でヤマト王権による政治統合が進められた古墳時代は、戦争の道具の武器や武具が飛躍的に発展したことでも知られる。とくに甲冑(かっちゅう)は大量の鉄と高度な技術が求められ、王権が一元的に生産を管理…
牟田口章人客員教授が復元した大織冠のCG画像。帽子部分の詳しい文様は不明だが、花の刺しゅうや縁部分は精密に再現できているという=帝塚山大提供 1934年に大阪府高槻市の阿武山古墳で出土した冠に、大化の改新で定められた最高位の冠「大織冠」の特徴があることが専門家の研究で判明した。出土当時のX線写真の解析で、「綴織(つづれおり)」という特徴的な織り方の生地を使っていたことが分かった。歴史上、大織冠は国内では藤原鎌足(614~669)にしか授与されていないため、被葬者を鎌足とする通説がより確実になった。復元した大織冠の画像などは11月2日に帝塚山大である公開講座で初公開される。 研究は同大の牟田口章人客員教授(文化財アーカイブ)が実施した。 阿武山古墳は34年4月、地震を計測する京都大阿武山観測所の地下掘削工事で発見。石室内には麻布を漆で固めた夾紵棺(きょうちょかん)があり、男性被葬者が布団に包
古墳時代最大の内戦「磐井の乱」の中心だった豪族筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳(福岡県八女市)で出土した埴輪の破片が、よろいを付けた馬形埴輪の一部だったことが県立九州歴史資料館(同県小郡市)の調査で11日までに分かった。よろいを付けた馬形埴輪が確認されたのは全国初という。韓国・新羅の遺跡では馬のよろい「馬甲」が見つかっており、磐井に対する新羅の影響がうかがえる。 岩戸山古墳は6世紀前半に築造されたと推定され、長さ130メートルを超える前方後円墳。1971年、九州大と八女市教育委員会の発掘調査で埴輪の破片八つや石製品などを発見していた。 昨年度、この八つの破片を改めて調べた際、形状の特徴から全て馬形埴輪の破片と判明。さらに日本各地で出土している武人の埴輪のよろい部分にある格子状の線刻が認められ、馬甲をまとった埴輪と分かった。全体では高さ全長ともに1メートル超だったと推測している。 磐井の乱は
全国で初めて「前方後方墳」という言葉が使われた山代二子塚古墳(松江市山代町)についての講演会が8月31日、松江市市民活動センターであった。1924(大正13)年に大庭鶏塚古墳(同市大庭町)とともに国史跡に指定されてから今年で100年になるのを記念した同市の企画で、市民ら約120人が聴き入った。 山代二子塚古墳は全長約94メートルで山陰最大級。1925年刊行の島根県史で、古墳の形は「前方後方墳」と表現された。 この日は、丹羽野裕・市文化財総合コーディネーターが「山代二子塚古墳に眠るのは誰だ⁉」と題して講演した。築造時期とされる6世紀半ばは全国的に前方後円墳が主流だったことを説明。「前方後方墳」の築造理由に関して、出雲東部は豪族首長の連合が形成され、トップクラスは「前方後方墳」を、ナンバー2のクラスは前方後円墳を築くといった「独自のシステムを作り出した」との見解を示した。 6世紀半ばは、ヤマト
特別展「はにわ」(2024年10月16日(水)~12月8日(日)、平成館 特別展示室)を担当しております、主任研究員の河野正訓です。 古墳時代が専門で、普段は埴輪など古墳時代の作品(遺物)のお世話係をしています。 今回の特別展「はにわ」では、チーフを務めるとともに、主に群馬県方面を担当しています。 そのため、ご出品いただくための調整や、東京国立博物館や巡回する九州国立博物館へ作品を安全に輸送する事前調査のため、何度も群馬県に通いました。 前々から思っていたのですが、その事前調査で改めて感じたのは、群馬県の埴輪熱がすごいことです! ほとんどの博物館で埴輪が展示され、かつ埴輪の展示スペースはかなりのウェイトを占めています。 例えば、群馬県立歴史博物館では、常設展示の入口を入ってすぐに、群馬県高崎市の綿貫観音山(わたぬきかんのんやま)古墳出土品が一括して展示されている部屋があります。 群馬県立歴
5年前(2019年)、滋賀県近江八幡市の川の中で見つかった古墳を県文化財保護協会が調べたところ、およそ1500年前の古墳時代に造られた前方後円墳とみられることが分かりました。 協会は川に沈むなどして消失した遺跡が存在することを物語る貴重な事例としています。 近江八幡市江頭町を流れる日野川の中では、2019年に県が行った調査で▼人工的に土を積み上げた跡や▼1列に並んだ円筒状の埴輪6本が見つかり、県は、中州のような土の盛り上がりは、古墳の可能性があるとしていました。 この場所を、去年10月から先月(2月)にかけて県文化財保護協会が調べたところ、新たに13本の円筒状の埴輪が1列に並んだ状態で見つかりました。 埴輪は5年前に見つかったものと同じ種類で、▼カタカナの「ハ」の字型に並んでいることや、▼焼き方の特徴などから、この古墳はおよそ1500年前の5世紀後半から6世紀前半ごろに造られた前方後円墳と
古代の東アジアで最も長いとされる鉄の剣など、貴重な発見が相次いでいる奈良市にある富雄丸山古墳で、木製のひつぎの中から新たに3枚の鏡などが見つかりました。 このうち1枚は大王クラスの巨大な古墳で見つかっている「三角縁神獣鏡」の可能性があるということで奈良市教育委員会はさらに調査を進めることにしています。 4世紀後半に造られたとされる奈良市の富雄丸山古墳では、▼古代の東アジアで最も長いとされる鉄の剣や、▼盾の形をした国内最大級の青銅製の鏡などの貴重な発見が相次いでいます。 ここで長さ5メートルを超える木製のひつぎも見つかり、奈良市教育委員会が2月上旬から土などを取り除き、中を調べていました。 その結果、▼直径20センチほどの青銅製の円形の鏡3枚のほか、▼「竪櫛」と呼ばれる竹製のくし9点が副葬品として納められていたことがわかりました。 鏡の中の1枚は大王クラスの巨大な古墳で見つかっている「三角縁
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富士山のふもと、本栖湖の底には古墳時代の土器などが見つかった遺跡があります。 富士山の噴火との関係など、遺跡の成り立ちを明らかにするため専門家による本格的な調査が行われることになりました。 本栖湖の東側、水深10メートル前後の湖底では平成10年度の調査で古墳時代の土器などが複数、見つかっています。 その成り立ちを解明するため帝京大学文化財研究所は、地元の山梨県富士河口湖町や身延町と共同調査を行うことになり、まずは湖底に向けて音波を発信する地形の計測や水中ドローンによる探査が行われていました。 湖の底に遺跡がある理由について水中考古学が専門の佐々木蘭貞准教授は、もともと陸上にあった遺跡が、富士山の噴火による溶岩流が湖に流れ込んで水位が上がったため水没した可能性のほか、陸上の別の場所にあった土器などが、何らかの理由で流されてきて湖底に沈んだ可能性も考えられるとしています。 調査グループは湖底の
東アジアで最も長いとされる、鉄の剣などが見つかった奈良市の富雄丸山古墳で、木製のひつぎの中身を調べる発掘調査が4日から始まりました。 4世紀後半に造られたとされる奈良市の富雄丸山古墳では1年前、「蛇行剣」と呼ばれる波打ったような形をした東アジアで最も長いとされる鉄製の剣や、盾の形をした国内最大級の鏡などが見つかりました。 剣や鏡は、木製のひつぎのそばから出土していますが、1年前は調査が行われずそのまま埋め戻されています。 4日から、ひつぎの発掘調査が始まり、現場では作業員が道具や調査の拠点となるテントなどを運び込んで準備を進めていました。 ひつぎが埋まっているのは、古墳の斜面から突き出た「造り出し」と呼ばれる場所で、雨や風などから古墳を守る「覆い屋」と呼ばれる屋根に覆われています。 今月下旬からひつぎの本格的な発掘が始まる予定で、今回の調査で剣や鏡が埋められた背景などが、解明されるのではな
鳥取県教育文化財団は16日、古墳時代前期(約1700年前)の大集落として知られる湯梨浜町の長瀬高浜遺跡から、囲炉裏跡が見つかったと発表した。炭化した木が残っていて、古墳時代の炊飯や調理の方法を解明する手掛かりになる可能性があるという。 囲炉裏跡は外径1メートルで、小型の竪穴建物跡の中央にあった。灰が飛ばないよう周囲を小高く土手にした構造で、中に筒状の炭化材(外径22センチ、高さ最大12センチ)が残っていた。調理に使ったとみられる土器(甕〈かめ〉)と貝殻も近くにあった。 財団によると、古墳時代には甕の底が従来の平底から、燃焼効率が高まる丸形に変わった。しかし底が丸い甕を炉にどう置いたか分かっていない。炭化材が囲炉裏の一部だった可能性、もしくは燃料だった可能性もあるという。担当者は「今後の分析で樹種が分かれば用途が分かるかもしれない」としている。 土手で囲むようにした囲炉裏跡は隣の竪穴建物跡か
これまで存在が知られていなかった古墳時代の古墳が栗東市で新たに7つ見つかりました。 当時の集落の有力者の墓と考えられるということです。 新たな古墳が見つかったのは、栗東市六地蔵の農地で、県文化財保護協会がほ場整備にともなって、去年11月から発掘調査を行った結果、これまで存在が知られていなかった古墳が7つ見つかったということです。 このうち1つは直径22メートルの円墳、残る6つは1辺の長さがおよそ7メートルから15メートルの方墳で、いずれも土を盛り上げて造られた墳丘や亡くなった人を納める埋葬施設は失われていて、墳丘の周囲をめぐる溝が確認されたということです。 また、溝からは埴輪の破片や土器が見つかっていて、これらの特徴などから古墳時代前期から後期にかけて造られた地域の集落の有力者の墓と考えられるということです。 今回見つかった古墳の周囲では、古墳時代の集落跡やさらに規模の大きな古墳も見つかっ
国の文化審議会(佐藤信会長)は20日、群馬県前橋市総社地域に広がる古墳群のうち、すでに国史跡に指定済みの3基に新たに2基を加え、5基合わせて「総社古墳群」と名称変更するように盛山正仁文部科学相に答申した。古墳群全体の歴史的価値が初めて正式に評価された形で、市は今後、保護や情報発信を強化する。 答申によると、すでに国史跡に指定されている二子山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳を統合。遠見山古墳、愛宕山古墳を追加指定し、5基合わせて総社古墳群とする。 5世紀後半から7世紀後半にかけて築かれた東日本有数の古墳群で、当時の古墳の形や埋葬方法の変遷、ヤマト王権との深い関連がうかがえるのが特徴。近くに上野国分寺跡、山王廃寺跡などの重要史跡もある。 市は2017年度から古墳群の全体的な価値などを調査してきた。答申を受け、山本龍市長は「市の成り立ちや発展を知る上で必要不可欠な史跡。価値を損なうことなく、未来へと
歴史の教科書で、誰もが見たことがある古墳。飯田怜大(れお)さん(高校1年)は、これまでに2000基以上の古墳を訪れた「古墳マニア」だ。「将来の夢は古墳に埋葬されること」というほど夢中になる飯田さんに、たっぷりと古墳愛を語ってもらった。(文・黒澤真紀、写真・本人提供) 当時の姿に思い馳せ 古墳に着いたらまず看板を見て、いつの時代の古墳か、誰を埋葬しているのかなどを確認するのが飯田さんのルーティーンだ。立ち入りが許可されていれば、古墳に登って景色を眺め、石を積んで作られた埋葬施設の「石室」の中を見学する。 「どういう風に築かれたのだろうと、当時の姿を想像します。今は緑が茂っているけど、完成した時は木も生えてなくて、古墳があっただけなんだろうなあと思うと、時の流れを感じるんです」 2000基めぐり見つけた推し古墳 小学校4年生のころから古墳巡りを始め、北は宮城県から南は鹿児島県まで、これまでに訪
国指定史跡の古墳を三基抱える、若狭町の脇袋古墳群を調査している花園大(京都市)考古学研究室は三十日、古墳群最大の全長約百メートルを誇る上ノ塚古墳について、周濠(しゅうごう)から水を排出する水路の遺構を見つけたと発表した。水路は西に隣接する西塚古墳に向けて延び、古代若狭国の首長墓とされる二つの古墳が水路でつながっていた可能性が高い。高橋克寿教授(61)は「一族の王位継承のシンボルとしての役割があったのかもしれない」と力を込める。 (林侑太郎) 水路は、上ノ塚古墳の周濠の北西角から西に向かって延びている。周濠外側の堤防のり面に石が並ぶが水路部分は途切れ、近くの周濠内に同型の石が散らばる。国内の古墳で堤防を掘削した水路は、ほぼ例がないという。 出土した須恵器の特徴から、水路は上ノ塚古墳が完成した五世紀前半~奈良時代の間に掘削されたと推測される。さらに周囲の石の状況から、水路は古墳完成後に掘削され
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