日本列島でヤマト王権による政治統合が進められた古墳時代は、戦争の道具の武器や武具が飛躍的に発展したことでも知られる。とくに甲冑(かっちゅう)は大量の鉄と高度な技術が求められ、王権が一元的に生産を管理…
古墳時代最大の内戦「磐井の乱」の中心だった豪族筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳(福岡県八女市)で出土した埴輪の破片が、よろいを付けた馬形埴輪の一部だったことが県立九州歴史資料館(同県小郡市)の調査で11日までに分かった。よろいを付けた馬形埴輪が確認されたのは全国初という。韓国・新羅の遺跡では馬のよろい「馬甲」が見つかっており、磐井に対する新羅の影響がうかがえる。 岩戸山古墳は6世紀前半に築造されたと推定され、長さ130メートルを超える前方後円墳。1971年、九州大と八女市教育委員会の発掘調査で埴輪の破片八つや石製品などを発見していた。 昨年度、この八つの破片を改めて調べた際、形状の特徴から全て馬形埴輪の破片と判明。さらに日本各地で出土している武人の埴輪のよろい部分にある格子状の線刻が認められ、馬甲をまとった埴輪と分かった。全体では高さ全長ともに1メートル超だったと推測している。 磐井の乱は
ホーム > 新着情報:プレスリリース > 2024年09月 > AIによってナスカ調査が加速したことで、既知の具象的な地上絵の数がほぼ倍増し、地上絵の目的が明らかになった 掲載日:2024.09.24 本発表の主なポイント 山形大学ナスカ研究所とIBM研究所の共同研究プロジェクトの成果が、Proceedings of the National Academy of Sciences (PNAS) に掲載されることが決定した。 AIによって加速化された調査によって、6か月間の現地調査で新たに303個の新地上絵が特定された。これにより、ナスカ台地で確認済みの地上絵の数はほぼ倍増した。 巨大な線タイプの地上絵は、主に野生動物が描かれており、直線と台形の地上絵によって構成されるネットワークに沿って分布している。これらは、共同体レベルの儀礼活動に使用された。 小型の面タイプ(レリーフタイプ)の地上絵
松木武彦さん(まつぎ・たけひこ=考古学者、国立歴史民俗博物館教授)21日、がんで死去、62歳。葬儀は近親者で営む。 認知考古学を駆使して古墳社会の解明に尽力。著書に「列島創世記 旧石器・縄文・弥生・…
群馬県は、弥生時代の再葬墓の中心地の一つです。再葬墓は、遺体を一度土中に埋めたり、さらしたりして白骨化させてから土器に納め、再び埋葬することでつくられた墓のことです。現代の私たちからすると、特殊な葬法に見える再葬墓はどうしてつくられたのでしょうか。 本展覧会では、初めに西日本を代表する吉野ケ里遺跡出土品と東日本の再葬墓出土品が登場します。そして再葬墓研究のきっかけとなった岩櫃山鷹の巣岩陰遺跡(群馬県東吾妻町)から出土した土器が里帰りします。 また、沖縄地方では洗骨葬というよく似た葬法が近年まで行われていましたが、沖縄以外で初公開となる写真と厨子甕(骨蔵器)で洗骨を紹介します。近年の研究を通じ、なぜ弥生人が二度死ぬのかを探ります。 ※本展では、人骨の展示があります。
【読売新聞】 飛鳥時代(7世紀)に創建された大寺院・川原寺(奈良県明日香村)の堂内を飾っていたとみられる板状の仏像「 塼仏 ( せんぶつ ) 」が、 金箔 ( きんぱく ) の上から彩色されていたことが、奈良文化財研究所などの調査で
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藤原京左京七条一坊跡(奈良県橿原市上飛騨町)から2001年に出土した飛鳥時代末期の木簡1点を奈良文化財研究所(奈文研)が再調査した結果、当時の役人が使っていた「九九早見表」の一部とみられることが分かり、同研究所紀要で4日公表した。担当した桑田訓也・主任研究員(古代史)によると、最古級の九九早見表の確認例。律令国家で九九が広く用いられたことを示す貴重な史料という。 木簡は長さ16・2センチ、幅1・2センチ。縦書きで1行に文字群が3段分書かれ、肉眼で「十一」「六」「六八」の計5文字のみ判別できた。奈文研は当初、1段目を「九々(くく)八十一」、3段目を「六八卌(しじゅう)八」と推定。九九を練習したメモ代わりの木簡と解釈した。
にがりとみられる白い物質が付着した製塩土器の破片を見せる神野恵・展示公開活用研究室長(右)と、エックス線で分析した大迫美月・アソシエイトフェロー=奈良市の奈良文化財研究所で2024年8月30日午後4時22分、稲生陽撮影 西大寺(奈良市)で出土した奈良時代の製塩土器から、海水を煮詰めて塩を作った際に混ざる「にがり」が初めて検出されたことが奈良文化財研究所の研究で分かった。にがりと製塩土器の組み合わせは一見当たり前に思えるが、これまで検出されたことはなかった。しかも、出土した製塩土器でも、にがりがたまる底部分の破片だけほとんど見つかっていないという。その理由とは――? にがりは海水中の塩化カルシウムや硫酸ナトリウムなどからなる成分。海塩は古代から若狭(福井県)や播磨(兵庫県)、紀伊(和歌山県)などから奈良に運ばれていたことが分かっているが、にがりを落としながら陸路で運ぶ朝廷向けの若狭産と違い、
全国で初めて「前方後方墳」という言葉が使われた山代二子塚古墳(松江市山代町)についての講演会が8月31日、松江市市民活動センターであった。1924(大正13)年に大庭鶏塚古墳(同市大庭町)とともに国史跡に指定されてから今年で100年になるのを記念した同市の企画で、市民ら約120人が聴き入った。 山代二子塚古墳は全長約94メートルで山陰最大級。1925年刊行の島根県史で、古墳の形は「前方後方墳」と表現された。 この日は、丹羽野裕・市文化財総合コーディネーターが「山代二子塚古墳に眠るのは誰だ⁉」と題して講演した。築造時期とされる6世紀半ばは全国的に前方後円墳が主流だったことを説明。「前方後方墳」の築造理由に関して、出雲東部は豪族首長の連合が形成され、トップクラスは「前方後方墳」を、ナンバー2のクラスは前方後円墳を築くといった「独自のシステムを作り出した」との見解を示した。 6世紀半ばは、ヤマト
福島市平石の西久保遺跡から東北で初となる「水場遺構」が発見されたことを受け、福島市は8日、水場遺構を移築し復元する方針を示した。水場遺構が見つかった場所は、改築工事中の国道13号バイパス「福島西道路」。インターチェンジの構造物が設置される予定だが、市は移築により、貴重な遺跡を後世に伝えていく考えだ。移築方法や場所などは今後決めていく予定。 8日の信夫地区自治振興協議会で木幡浩市長が明らかにした。西久保遺跡は、東北道近くにある奈良―平安時代の遺跡。福島西道路の改築事業に伴い発掘調査が行われている。「鎮兵(ちんぺい)」(東北地方に派遣された兵士)、「郡司」(地元の有力者)と書かれた二つの木簡が出土している。 福島西道路の整備イメージと水場遺構の場所は【図】の通り。市によると、遺跡全体を保存する場合、福島西道路のルート変更が必要となり、2026年度の完成予定が10年以上遅れる。水場遺構を保存する
開発などに伴い、鎌倉市内の埋蔵文化財発掘調査で発見された出土品を紹介する「かまくら発掘調査速報展」が8月末まで鎌倉歴史文化交流館(同市扇ガ谷)で開催されている。中国・宋の商人のサインが記された白磁が鎌倉では初めて出土したほか、幕府の御所があった近くでは文献にも明確な記述がない“謎”の寺院跡とみられる遺跡も発見された。 11世紀末から12世紀前半までに中国で作られたとみられる白磁のかけらは若宮小路近くの遺跡から出土。高さ約30センチのつぼの一部とみられ、底部の破片には「十綱」の墨書が残されていた。 日宋貿易の拠点だった博多(福岡県)に暮らした宋商人は「綱首」と呼ばれ、綱首は自らの積み荷を示すため「綱」とサインを残したという。綱首の遺物は博多周辺では数多く出土しているが、鎌倉でサインが見つかったのは初めて。山本みなみ学芸員は「宋から博多への輸入品が鎌倉まで流通していたことが改めて裏付けられた」
多賀城創建から1300年の今年、その歴史を伝える多賀城碑が国宝に指定されることになった。 この多賀城碑、実は長い間、「偽物」との疑いがかけられていた。 国宝指定に至るまでには偽作の学説を覆してきた知られざる研究成果があった。 2023年暮れ、多賀城創建1300年を記念して上演された音楽劇。 現在の多賀城の風景を背景にオペラやモダンダンス、能楽など様々なジャンルを取り入れ、多賀城の歴史を描いた。 演出した志賀野桂一さんは多賀城は想像力を掻き立てる魅力があるという。 演出家 志賀野佳一さん 「町の歴史を掘り下げると根っこがある。豊かな資源があるわけでそこから現代に使えるものを読み解いて表現の材料に使っていく」 「多賀城」は奈良時代、蝦夷と呼ばれた東北の人々を治めるため朝廷が設置した政治的・軍事的拠点だ。 その中心が政治や儀式を行う政庁。奈良の都・平城京を参考に作られた。 その一角にある「多賀城
Published 2024/06/21 19:06 (JST) Updated 2024/06/21 19:22 (JST) 大阪市内の遺跡発掘業務などを担ってきた大阪市の外郭団体「大阪市文化財協会」(中央区)が本年度末で解散する方針であることが21日、分かった。反対する住民団体「喜連村史の会」が同日、市役所で記者会見し、白川俊義代表(73)は「遺跡の発掘成果は住民のアイデンティティーを高めてくれる『都市鉱山』だ。発掘の専門家は必要だ」と存続を求めた。反対署名も集めている。 来年度から市内の発掘は市教育委員会や大阪府文化財センターが行う。遺物や写真などの発掘資料は市教委が引き継ぐ。 市文化課によると、2013年の府市統合本部会議で同協会(当時は大阪市博物館協会)の整理方針が決まった。
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