2019年4月と2021年10月の2度のクーデターのあと軍事政権を分かち合ってきた国軍と民兵団が、2023年4月15日に決裂して戦闘を始め、スーダンは内戦に突入した。遠因は19世紀のエジプトによる征服以来の首都と地方の格差と、国として統一性を考えない統治にある。エジプト、ロシア、アラブ首 (...) →
伊豆の国市神島の狩野川を見下ろす丘陵の洞窟(どうくつ)にあり、5世紀後半の住居跡とされていた笠石山(かさいしやま)遺跡が、43年ぶりの市教委の再調査で埋葬地だったと分かった。調査担当の駒沢大の設楽博己教授(考古学)は「水運を担った集団のリーダーが埋葬されたと推定される」と話している。 遺跡は65年に発見された。崩れた巨岩が天井になった形状で、幅約5メートル、奥行き6メートル、高さは最大で約2メートル。旧大仁町教委などが翌年、東半分を発掘調査した際、たき火したことをうかがわせる赤土の塊が見つかり、住居跡と推定していた。 ◇副葬品、決め手に しかし、今月24日までの再調査で、長さ25センチの鉄矛や、首飾りの一部「碧玉(へきぎょく)製管玉(せいくだたま)」などの副葬品を含む遺物数十点を発見。埋葬の跡と特定された。 設楽教授によると、千葉県や長野県などで、同じ時代に海や川を利用した物資運送集団の首
大和朝廷が陸奥国の拠点として造営した宮城県栗原市築館の国史跡、伊治城の政庁南門が780年の「伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱」による火事で焼失した後に再建されたことが分かった。発掘調査している栗原市教委が26日、現地説明会で発表した。 市教委によると、南門は政庁の表玄関で、門跡の柱の穴3カ所から火災で焼けたとみられる土の粒子が見つかり、乱で焼失した後に再建されたことが判明した。 乱の前の時代に1回建て替えられたことは既に明らかになっており、乱を挟んで計2回再建されたことが確認された。 南門は約3メートルの間隔で並ぶ4本の柱のほか、扉用の柱2本で構成されている。 南門跡から南南東に幅約3メートルの2本の溝跡が14メートル間隔で走っていることも判明した。溝は道路の両端とみられ、溝の外側には高さ約2メートルの築土があったという。政庁の南側には築土で区画されたエリアが存在する可能
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