弥生時代後期の西谷3号墓(島根県出雲市大津町)に葬られた「初代出雲王」に迫る特別展「出雲王登場−とことん解剖 西谷3号墓」が出雲弥生の森博物館(同)で開かれている。発掘調査で分かった、当時最先端の埋葬法や副葬品を、朝鮮半島など近隣の王墓と比較しながら展示している。9日まで(6日は休館日)。 30年前に発掘が始まった西谷3号墓は、東西約50メートルの巨大な四隅突出型墳丘墓。島根大考古学研究室と同館が調査を進め、2015年に報告書がまとまったため、特別展を企画した。 遺体を二重に囲む構造の木椁(もっかく)模型や日本では出土していないガラス製の小玉などの装身具を、中国・漢が朝鮮半島に設置した「楽浪郡」の王の出土品とともに展示。出雲王が楽浪郡と交渉し、手に入れたことが分かるほか、同時期に活躍した吉備(岡山県)の王との交流がうかがえる出土品など計530点が並び、来場者が見入っている。 埋葬後、
鳥取県埋蔵文化財センターは30日、8世紀後半の山陰道と条里制遺構が見つかっている国史跡・青谷上寺地遺跡(鳥取市青谷町青谷)で、標識として使う■(片の右に傍のツクリ)示(ぼうじ)木簡が出土したと発表した。条里区割りが計画的に施工されていたことを示し、官道周辺の土地利用を考える上で貴重で珍しい発見という。 木簡は長さ18・5センチ、幅2・1センチ、厚さ0・8センチで樹種は不明。■(片の右に傍のツクリ)示木簡としては小ぶりで、杭(くい)に結びつけて使ったらしい。 赤外線撮影の結果、「自此西方十二…不可取之(これより西方十二…これを取るべからず)」と墨書してあった。判読不能の文字は地名か人名、作物の名前らしく、立ち入りを規制するための標識として掲示したとみられる。数字は、区割りの基準があったことを示すという。 木簡は、条里制の畦(あぜ)(幅約2メートル、高さ0・5メートル)から出土した。同遺
島根県立美術館館長 長谷川三郎 「3・11」から、ひと月を経た4月13日、リアス・アーク美術館(宮城県気仙沼市)の公式ウェブサイトが復活した。しかし、最新ニュースは「東日本大震災による休館のお知らせ」である。本年度に計画されていた一切の事業が中止されること、美術館職員は全員無事だったが、家族がいまだに行方不明であったり、住宅が流失してしまった者がいること、作品の被害は軽微だが、建物はかなりの損傷を受けていることなどを伝えている。 翌日、学芸員のY君と電話で話をすることができた。彼自身も津波で家を失い、あれ以来、美術館で生活しているという。所蔵作品は、転倒破損した立体作品があったが、おおむね無事だったようだ。しかし、建物の被害ははなはだしく、まるで交通事故に遭った車のフロントガラスのように全体がヒビだらけで、恐らく修復は不可能であろうという。 リアス・アーク美術館は、1994年、宮城県
銅鐸、銅矛が発見されてから25周年を迎え、記念イベントに集まった「ゆるキャラ」と写真撮影する親子連れ=島根県斐川町神庭 島根県斐川町神庭の荒神谷遺跡で国宝の銅鐸(どうたく)、銅矛が発見されてから25周年を迎え、遺跡近くの荒神谷博物館で19日、記念イベントがあった。発掘当時の関係者による鼎談(ていだん)のほか、県内各地の「ゆるキャラ」がお祝いに駆け付け、祝賀ムードを盛り上げた。 荒神谷遺跡では1985年7月から8月にかけ、前年の銅剣358本に続き、同じ山の斜面から銅鐸6個と銅矛16本を発掘。同一遺跡での出土は前例がなく、従来の弥生時代・青銅器研究の定説を覆すなど全国に衝撃を与えた。 イベントは、発見から四半世紀を迎え、再び多くの人に関心を持ってもらおうと同館が企画。当時の発掘担当者だった宮沢明久、宍道年弘両氏や、取材にあたった山陰中央新報社の引野道生論説委員が発見時の様子を語り合い、今も
開館から3年目を迎えた島根県立古代出雲歴史博物館(出雲市大社町)の入館者数が、大きく落ち込んでいる。本年度は6月末現在で前年同期比35・5%減の5万340人にとどまり、年間25万人の目標達成が難しい情勢。不況の影響などで観光客の入館が減ったとみられ、同館は小中学生らの歴史学習利用を含め、来館促進策のてこ入れに乗り出す。 古代出雲歴博は、荒神谷、加茂岩倉両遺跡の青銅器などを目玉にした「島根の歴史と文化の殿堂」として2007年3月、出雲大社の隣接地に開館。総事業費120億円は、財政難の県による巨額投資が論議を呼んだ。 入館者数は、初年度が40万8364人と目標の30万人を大きくクリア。出雲大社本殿の「平成の大遷宮」に伴う特別拝観などを追い風に観光利用が伸びた二年目の08年度も、31万175人と30万人を突破した。 しかし、特別拝観が終わり、不況が深刻化した08年9月以降は失速。右肩下がり
古代から明治時代まで松江市大庭町にあったと言われる出雲国造館を、出土遺物などで解説する「考古学から見た出雲国造館」展が、八雲立つ風土記の丘展示学習館(同町)で開かれている。出土した中国製の陶磁器片などの展示を通し、出雲国造館の当時の姿に迫っている。三月九日まで。 出雲国造館は、古代から同町の神魂神社で行われた新嘗祭(にいなめさい)などの重要な祭祀(さいし)を営むためにあったと推定される施設。中世末ごろに出雲市大社町に移ったが、施設は明治時代初期まで同神社の参道周辺にあったと言われ、祭祀に使われていたと伝わる。 同展では、一九七九年から二〇〇三年まで五回実施された調査で出土した陶磁器片などの遺物約四十点を紹介。 貴重な展示物では、平安京(京都市)などでしか出土例がない中国の五代から北宋時代初期(九世紀後半)のころの越洲窯(えっしゅうよう)系青磁碗(せいじわん)の破片。平安時代の上級階層
古代出雲国の役所があった松江市大草町の出雲国府跡で、国司の住居跡「国司の館(たち)」の東側に溝が見つかり、館の敷地が東西八十メートル、南北七十メートルに及ぶことが分かったと、島根県埋蔵文化財調査センターが三日、発表した。また、溝付近の土から、役人がベルトに付ける装飾品「石製巡方(じゅんぽう)」一点も出土した。 発見された溝は南北に走り、長さ十三メートル、幅二・二―三メートルで、深さ三十五―四十五センチ。溝の北側に延びる四号溝とつながっていると考えられ、これにより館の東側の区画が確定し、館の敷地の大きさが分かった。他地域で見つかった館とほぼ同規模という。 館は、国司のうち二番目に位の高い「介(すけ)」が住んだとされ、同センターの神柱靖彦文化財保護主任は「当時の国司の力を示す大きさ」と述べた。 一方、巡方は奈良時代始めから平安時代の始めのものとみられ、長さ三・五センチ、幅三・七センチ、厚
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