<工学部列品館> 東大当局は、とくに大河内総長が退陣し、加藤一郎が総長代行となっていわゆる加藤執行部ができてからは情宣の重要性を自覚したようで、「弘報委員会」を作り『学内弘報』を発行-ときに乱発-するようになった。1969年1月18・19両日の機動隊による大弾圧ののち、東大当局はそれを編集して『東大問題資料』として出版したが、そのさいかなり手を加え、改竄し、なりふり構わず全共闘を弾圧した経過を隠蔽して正当化している。 たとえば、69年1月15日の深夜、東大当局は学外つまりマスコミ向けに、「見解」なるものを発行したが、それには「15日夜には、・・・つぎのような重視すべき動きがみられた。・・ ②劇薬、燃料などの危険物や工事現場からの機材強奪が行われ、安田講堂を中心に大量に貯蔵された。・・」と断定されている。そして翌16日からマスコミはいっせいに安田講堂には「爆薬のニトログリセリン」から、はては