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いま、グラフィックデザイン界で最も注目を集める若手グラフィックデザイナー、古平正義氏。素材や印刷への徹底したこだわりが、デザインに対してオブジェのような圧倒的な存在感をもたらしている。デザインとは、内容の良し悪しに関わらず、表面上の意匠に過ぎないのか。そんなデザインの在り様に警鐘を鳴らし続ける古平氏に、デザインの本質とは何か、ご意見を伺った。 もともとは、ミュージシャンになりたかったのですが、才能がないと早々に見切りをつけました。レコードジャケットなどのデザインに興味があったので、デザイン学校へ入学しました。最初は、クリエイティブな世界ももちろんですが、デザイナーという仕事の自由な感じに惹かれたのだと思います。デザインといっても広告の世界ではなくて、レコードジャケットや書籍の装丁などのグラフィックデザインから入っていったという感じです。 広告に興味を持ち出したのは、学校を出て仕事をする
小さな頃から本が好きでした。小学生の頃、家の近くの図書館に週に1、2回は通っていました。 今考えると、写真をはじめたばかりの頃から本というスタイルに強い思い入れがありましたね。 本は、自分のペースで読めるし、ページをめくっていくことで感情が動いていくのがとてもおもしろいと思っています。 高校生の頃、将来の夢を、「本を出す人になりたい」と言っていました。その時はそれが写真集になるとは思っていませんでしたが。 写真と出会ったのは高校時代。コンパクトカメラを持ち歩いて、普通に友だちのスナップを撮ったりしていたのですが、修学旅行の時に、初めて意識的に海を撮ってみたんです。その時に写真っておもしろいなと思ったのが、はまるきっかけでした。 大学ではデザインを学んでいたのですが、週に1度、写真の授業があって、これがとてもおもしろかった。特にプリントが楽しくて、現像液の中でモノクロの画像がふわっと
既成のメディア観や広告のあり方にとらわれない斬新な仕掛けで、日本の広告界をリードするアートディレクター佐藤可士和氏。人気グループ「スマップ」の一連のキャンペーン展開を始め、キリンの発泡酒「極生」や「チビレモン」の商品開発などを手がけている。コミュニケーションそのものをデザインする制作活動は、多くの示唆に満ちていた。 美大生時代は、コンテンポラリーアート(現代芸術)に深い興味をもっていました。大学時代の最後の春休みには、ニューヨークに滞在しまして、たくさんのギャラリーを見て回ったものです。 大学の授業で、リアルな広告の現場の話やアートディレクターの仕事についての講義がありました。そのときに、大貫卓也さんの存在も知ったのですが、広告って、とてもコンセプチャルだと思いました。その後も大貫卓也さんの仕事には、リアルタイムで大きな影響を受けました。深いところまで考えて、それを表現に定着させていく
デザイナー、アーティスト活動とともに、デジタル・メディアの研究者としても知られる、マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボ準教授・前田ジョン氏。子供のころから「親友」として一緒に育ったコンピュータと、サイエンスやグラフィックデザインへの融合について研究を続けた。やがてデザイナーやアーティストといった枠を超えて、大きな視野からみたクリエイティブとは何かを問う前田氏のお話を伺った。 ぼくがマサチューセッツ工科大学(MIT)に入学した1984年頃に、ちょうどコンピュータのグラフィックブームが始まり、プログラミングへの需要が高まっていました。ぼくはMITでコンピュータ技能をマスターするとともに、ユーザー・インターフェイスのデザイナーになろうと考えていました。その後、MITの大学院時代に偶然、図書館でポール・ランドの『Thoughts on Design』という本に巡り合います。ランドの空間を
小さい頃から物理や数学に興味があり、中学に入るとかなり明快に、将来は数学者か物理学者か宇宙飛行士、このうちのどれかになろうと思っていました。そのうち数学者については、自分には天性の数学の才能はないと早々にあきらめました。 純粋理論ですべてが完結するような数学よりも、物理学だったらまだ芽はあるかもしれない、それ以上に、「百聞は一見にしかず」で実際に宇宙をこの目で見れば、宇宙を知ることができるんじゃないかとも思ったのです。 中学時代は宇宙、音楽、SF小説と、いろいろなものに目覚めて、今の僕のベースが作られた時期だったと思います。 高校生になって、やはり物理は好きでした。一方で、職業とか将来の生き方とかも考えるようになり、自分が文系なのか、理系なのかずっと決めきれずに悩んでもいたんですね。物理学者として白衣を着てどこかの研究室にこもって実験装置を相手にするのもいいけれど、アタッシュケース
「印刷の基本的な仕組みを利用して表現に転換できないかな、と考えました。たとえばオフセット印刷は点の大きさを変化させることで色や調子を表現していますよね。これが線ならどうなるのかな? しかも、手描きの線の太さで濃度を表現すれば、手作りの4色分解ができるのでは? ……と言う訳で、まずはカラーチャートをつくってみましょう」
第3話では、現在進行形の「FREEDOM-PROJECT」をはじめ、近未来から将来にかけての夢や予定についてお聞きした。身近な夢から人生の最終目標まで、高松氏の夢はいずれもスケールが大きく、しかもオリジナリティに富んでいて、いかにも「高松氏らしい」ものだ。 今、日清のカップヌードルで展開している「FREEDOM-PROJECT」も、クライアントのミッションは何なのかということを徹底的に考えて生み出されたコミュニケーションです。 カップヌードルは40代から上の人たちには広告は不要なんです。食べたければ買って食べてくれる。だけど、そのままでは今の10代の人たちにとって「おじさんが食べてる食べ物」になってしまうおそれがある。だから10代後半くらいの人たちに、自分たちのジェネレーションの商品のように見えるようにする、というミッションを設定しました。 それくらいの世代が一番強い興味を持ってい
ブックデザインや雑誌のデザインをはじめ、タイポグラフィを中心としたデザイン分野で活躍する白井敬尚氏。タイポグラフィ史の研究にも積極的に取り組み、美術大学でデザイン教育に携わるなど、多角的な活動を続けているが、その起点には常にタイポグラフィへの熱い情熱があった。白井氏のタイポグラフィとの衝撃的な出会いを軸に、グラフィックデザイナーとしての歩みを追った。 小さい頃から図画・工作は好きだったけれど、絵を描くことが職業の選択肢のひとつにつながる発想自体が頭にありませんでした。 高校時代はバンド活動に熱中していましたが、だからといってそっちの方面でやっていこうという考えもなく、単に楽しいからやっていた…のんびりしていたんですね。 ただ、当時からジャズやギターミュージックを聴いていたので、ECMレーベルのシンプルで端正なジャケットをかっこいいなあと思ってはいました。それは今の嗜好に通じているか
シンプルなデザインが圧倒的な支持を受けた携帯電話「INFOBAR」は、メーカーではなく電話会社であるKDDI・auが推進した「auデザインプロジェクト」から生まれた。二つ折りタイプが完全に主流となっていた日本のケータイシーンに、あえてバータイプで新鮮なショックを与えた。日米の企業で24年のキャリアをもつ、プロダクトデザイナー深澤直人氏は、企業風土がまったく違うふたつの国で、どのように自らの仕事を創造し、展開してきたのか。 誰かがモノを製品化したという情報は業界内では普通に流れてきたわけですが、「INFOBAR」の場合には携帯電話ということもあって、一般にも広く情報がゆきわたったのではないでしょうか。知らない人から声をかけられるようなことがあって驚きますが、自分としてはいまの状況には実感がわきません。 今回の仕事は、メーカーではなく、電話会社が独自に携帯をデザインするという、日本ではまだ非
宮田(*ドラフトの社長・宮田識氏)は、広告のデザインを始めたときからプロダクト・デザインに強い関心をもっていまして、いずれ挑戦しようと考えていたようです。そこで8年前にスタートしたのが「D-BROS」です。ちょうど1年が経過した頃、メインとなるデザイナーが不在だったこともあり、私に声がかかりました。興味はありましたが、プロダクト・デザインのことなど何も知らなかったので、最初はやんわりとお断りしました。けれども、カレンダーの社内コンペの際、私がデザインしたカレンダーを宮田が面白いと言ってくれて、「D-BROS」で売ろうという話になったのです。カレンダーならば、グラフィックとそれほど離れているわけではないので、それをきっかけに、「D-BROS」の活動に引き込まれていったという感じです。 ぼくは多摩美の染織科出身だったのですが、ちょうど「D-BROS」がスタートした頃、グラフィックがやりたくてド
自分と世の中の接点を見い出していく時に、親や親の職業といった育った環境というのは大きく影響するものです。僕の場合は父がグラフィックデザイナーでしたから、デザインやクリエイティブというものを意識せざるをえない環境であったことは確かです。 3、4歳の頃の記憶ですが、父の製図板の上に置いてあったポスターを手で触って、それが印刷物だったのか、原画だったのかはわかりませんが、すごく怒られたことをおぼえています。めったなことでは怒らない人だっただけに、その記憶はとても鮮烈です。 とはいえ、小さい頃からデザインに深い興味があったわけではありません。父がデザイナー、母もインテリアや建築関係の仕事をしていたので、家の中に趣味の悪いものは置かないという空気があったのですが、中学の頃はそれに対して、漠然とイヤだなという気持ちがありました。勉強机を買い替える時も、わざとなんでもないグレーの事務机を選んだりして
デザイナー、アーティスト活動とともに、デジタル・メディアの研究者としても知られる、マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボ準教授・前田ジョン氏。子供のころから「親友」として一緒に育ったコンピュータと、サイエンスやグラフィックデザインへの融合について研究を続けた。やがてデザイナーやアーティストといった枠を超えて、大きな視野からみたクリエイティブとは何かを問う前田氏のお話を伺った。 デザインとか、アートという言葉にも、疑問を感じています。ぼくは世界中の学校に呼ばれて講義をする機会が多いのですが、その際に必ずある実験をします。デザインとは何ですか、アートとは何ですか、という質問を出し、答えをリストアップさせたあとに、リストアップした答えから、4つぐらいの解答に絞ります。でも最後に残る言葉は、学校によっても国によって違いはありません。アート系の学校だとアートが格好よく見え、デザイン系の学校だ
〜節分の代表的習慣である「豆まき」と「恵方巻」を地区別に比較〜 「くらし定点調査」連載第五弾、「節分」を掲載しました。
自らを「天の邪鬼」と語る平林奈緒美氏。学生時代からさまざまな紆余曲折を経て、資生堂というメーカーからデザイナーとしてのキャリアをスタートし、現在はフリーとして活躍している。 自分がカッコいいと思ったもの、自分の好きなものを徹底して追求し続ける姿勢は、個性的で、しかも求心力のあるクリエイティブに結実している。 幼い頃から、みんなが群がるものに対して、そっちには行きたくないと思う“天の邪鬼”的なところがありました。 美大進学のために御茶の水美術学院に通っていたときも、周囲はデザイン科に行きたいという人ばかりだったけれど、私は彫金や鍛金などの工芸をやろうと思っていたのです。今になって思えば、その頃からグラフィックデザインは好きだったんですけどね。 結局、武蔵野美術大学の空間デザイン科に進んだのですが、それも理由らしい理由はありません。そこでは空間の見方や作り方はもちろん、写真や絵画の
高校時代は体育会系ではないけどスポーツ好きという、ごく普通の子でしたが、デザイナーなのかイラストレーターなのか、高校2年頃にともかくそっちの方面に進もうと思い立って、美術の予備校に通い始めました。 これにはちょっとした伏線があって、中学時代の美術の教師がとても熱心な人で、その人に引っ張られるようにして文化祭とか体育祭の看板を作っていて、その先生に「がんばれば藝大に行けるんじゃないか」と言われて。 それで、予備校に毎日通って、先生の言ったとおりになんとか藝大に入ったはいいけど、今考えても「なにしてたんだろう?」と思うくらい、ほとんど何も勉強せずよく遊んでいました。 就職するときには漠然とエディトリアルの方向に進もうと考えていました。 最初は広告代理店も考えてはいたんです。広告の世界にも興味がなかったわけじゃないけれど、自分の指向を振り返った時に、たくさんの人に向けて何かを発信する
高校3年生の時に美術を始めたのが、この道に入るそもそものキッカケです。 代ゼミの造形学校に通いはじめたんですが、周囲は高1から始めている人ばかり。『これはヤバい』と思いました。でも、家で靴やコカコーラのボトルを描いたり、素振りする感覚で練習したら、だんだんうまくなってきて、それがおもしろかった。その頃、日比野克彦さんを見て、油絵でも日本画でもない、ポップな感じに惹かれました。「これだな!」と思ったんです。 多摩美のグラフィックデザイン科に入ってからも、デザイナーって何をするのかよくわかっていなかった。むしろ、日比野さんのように“自分発信”がいいと思い、イラストを描いてはずいぶんコンペに出展しました。 その頃に、大貫卓也さんの講演会を聞いて衝撃を受けたんです。 たとえば昔のデザイナーやイラストレーターって自分の作風で勝負という感じですが、レイモン・サヴィニャックに描いてもらった
ブックデザインの世界で今もっとも強烈な光を放つ、祖父江慎氏。“書店の棚で異彩を放つ”“造本の定法からの軽妙な逸脱”など評される氏の仕事の根底にあったのは、実は本を作ることへの底深い「愛」であった。その言葉の端々からは、控えめでありながら本とその世界への熱い思いが溢れでてくる。本とその世界への愛を語る、祖父江慎氏の造本術を聞く。 『殴るぞ』のカバーは、羊毛紙といって本物の羊の毛が25パーセントも織り込まれてるんですよ。用紙メーカーから見本を渡されたとき、最初の手触りで「これは吉田さんの紙だ」って思ったんですが、ステキな話があるんです。 小学館の人が在庫確認で問い合わせの電話をしたのが秋だったんですが、「すぐにはむつかしい」とのことで「春まで待てないか?」っていわれたんですって。なぜ?って聞いたら、牧場の人に「これから寒くなるのに羊の毛は刈れない。うちの羊を殺す気か!」って言われたそうなんで
2月に刊行された『言いまつがい』は、本の四隅が90度ではなくいびつに歪んでいるなど、これほどセオリーから離れるというのは、これまで誰もやったことがないような気がします。どうして可能だったのでしょうか。 それは、きっとスポンサーの糸井重里さんが太っ腹だったからできたんですよ。 本のかどが直角でないのって、取次に嫌われるんです。取次の人から「真四角でないと、詰め物をしないといけなくなる。梱包に手間がかかるのでやめてくれ」っていわれるんです。出版社って取次にはすごく弱いんです。 『言いまつがい』は、当初ネットだけで販売する予定だったんです。それで糸井さんから「流通のことは、あまり気にしすぎなくていい」って言われたんです。結局、書店でも扱ってくれることになったんですけど。 バーコードにしても、なぜあんな位置や色に決めたのかっていうと、考えなくてすむからなんです。本作りの仕事に携わっているにもか
「グラフィックトライアル」とは グラフィックデザインと印刷表現の関係を追求し、新しい表現を獲得するための試み。 第一線で活躍するクリエーターがポスター制作を通してさまざまな印刷表現に挑戦します。 GA info.では、その構想から完成に至るまでのプロセスと印刷テクニックをレポートします。
絵を描くのは好きだったけど、意識的に描き出したのは、武蔵野美術大学に在籍しながら、広告代理店にいた先輩の仕事を手伝うようになってからです。 その人の手の代わりとして、だれそれ風のタッチで、プレゼンテーション用にいろいろな絵を描きわけていました。そのうちに絵を見れば、どんな画材でどう描けばいいのかわかるようになってきた。もともと器用なタイプ、コツをつかむのは早いほうだと思います。その頃やっていたのは、としまえんの「とし博」キャンペーンの仕事などです。 プレゼンテーション用とはつまり説明用ですから、自分の個性よりも、誰が見てもそれはそれに見えるということが必要です。 たとえば新宿駅前を描けといわれたら、新宿駅前にある有名なポイントだけを押さえて、あとはなんとなく線でつないでいきます。あるものを全部描いてしまうとゴチャゴチャになってしまうから。人を描くにしても、なるべくキャラが立たないよ
美澤修 アートディレクター 1968 年福井県生まれ。89 年渡米しNY School of VISUAL ARTS を卒業後、Javier Romero に師事。フリーのアートディレクターとしてNY を拠点に活躍し、CBS、Neiman Marcus、MoMA 等を手掛ける。98 年帰国後「美澤 修デザイン室」設立。企業やプロダクトにおけるブランディング、クリエイティブディレクション、グラフィックデザインを中核に、ファッション、コスメティック、ジュエリーから出版、ホテルまで様々な分野の広告・カタログ・DM・WEB サイト・インテリア・エディトリアルをワンプロジェクト・ワンストップでトータルにアウトプット。主なクライアントにCHANEL、FRANCK MULLER、Kanebo、DAMIANI Japan など。JAGDA、ADC、ブルーノ・グラフィックデザイン・ビエンナーレ、NY A
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