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画力アップ
blog.goo.ne.jp/coochin_777
無知がある一つの知識についての無知である限り――言うまでもなく、その知識自体が別な真実の制度においては、真実と見られたり虚偽と見られたりし得るのだが――これら様々な無知は、原始の暗闇の断片であることなどからはほど遠く、特定の知識に応じ、その特定の知識によって生産され、特定の真実の制度の一部として流通するものなのだ。 (イヴ・K・セジウィック著/外岡尚美訳『クローゼットの認識論――セクシュアリティの20世紀』青土社、1999・6、pp.16-17) 異性愛者への12の質問騒動から、ゆうさんとSiestaさんのやりとりを大変興味深く拝読していたのですが、id:Siestaさんに呼びかけられたので答えます。パート3に寄せられたSiestaさんのコメントを拝読して、絶望的なすれ違いのポイントが見えてきた気がしました。 > ヘテロであり、非トランスであり、男性であり、例えば白人の誰かが「マイノ
インターネット上でゲイ/レズビアンがセクシュアル・マイノリティの人権に関する発言を行うと、なぜか猛烈な勢いで怒りをぶつけてくるヘテロの方が、必ずいる。不思議なことに、露骨にホモフォビアをむき出しにしている方は少なく、むしろ、一見するとゲイフレンドリーに見えるような言葉を連ねつつも、結果的にはセクマイの声を高圧的に封じるような、「知性派ホモフォビア」とでも名づけたいような議論展開の例があちこちで見受けられる。 たとえば、こんな場面を見たことはないだろうか。 「自分はヘテロだがゲイフレンドリーな人間だ。ゲイ/レズビアンに共感する」と言いながら、ゲイ/レズビアン当事者が「あなたが共感してくれることは嬉しいが、私が感じている痛みとあなたが想像している痛みは、少し違う」と指摘すると、猛烈に怒ってその発言を封じようとする。 私はいままで、この種の「知性派ホモフォビア」の方の心情が不思議で仕方なか
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