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パリ五輪
blog.goo.ne.jp/syncs
P126)ところで、知識とは何か? 社会理論から出発しても――近代社会を「知識社会」と銘打ってみたところで――役に立つ知識概念は見つからない。認知的/規範的の区別や、認知的/情緒的の区別は、十分でない。規範的なものの側にも情緒的なものの側にも、知識が含まれているからである。結局のところ、規範を〈知る〉こと、自分自身の感情を〈認識する〉ことも必要なのだ。従って、知識は、全く一般的に無知から区別するか(この区別はあまり役に立たない、人はほとんどすべてのことを知らないのだから)、より具体的な区別を試みるとしても、情報(無知から知識への突如の移行)から区別するしかない。/こうした(知識の定義の)不定性は、さまざまの機能システムがそれぞれ独自の知識概念を用いていることと関係するかもしれない。学術は、吟味された知識、虚偽ではないかとテストされた知識だけを、承認する。マスメディアは、もっぱら情報を理解す
「ただひとつだけ。ここで学べなかった距離はただひとつだけだった。触れ合う距離。ほんの弱い力でいい。相手の存在を確かめるために肌と肌を摺り合わせる距離だけが、ここにはなかった。 いや、かつてはあったはずなのに忘れてしまった。 ほんの弱い力。近い距離。 そこにある手を握るだけの力と距離。 (そうか。それは……人を好きになる距離だ) それを失っていた」(P55) 「イムァシア人は完全なる武器が実在すると信じた。問いかけには常に完璧な答えがあると信じてしまった。自分の英知が万能だと信じた。答えのでない問いが何故この世界にあるのか、それを忘れてしまった……支配できないものとともに生きることが怖かったから。彼らは恐怖に耐えられなかった」 「ならばミズー・ビアンカ。君は疑問を恐れないのか?」 「いいえ、でも今なら受け入れることはできる。疑問と恐怖をもたらすのは他人の存在。自分だけであれば世界は安堵できる
「現代の物語的想像力は(…)、キャラクターのデータベースの隆盛とコミュニケーション志向メディアの台頭という二つの条件の変化のため、メタ物語的な想像力に広範に侵食されつつある。ひらたく言えば、そこでは制作者も消費者も、ひとつの物語を前にして、つねに他の結末、ほかの展開、ほかのキャラクターの生を想像してしまうし、実際にそのような多様性は、メディアミックスや二次創作として具体的に作品を取り巻いている」(『ゲーム的リアリズムの誕生 動物するポストモダン2』P236) この本は、評論家、東浩紀氏の『動物化するポストモダン』の5年越しの続編であり、また氏のこれまでの思索のとりあえずの総決算の本である。出るのは前々知っていたのだが、つい最近出たのを知ったので、レビューを書くには出遅れた感がしている。ま、それはどうでもいいのだが、この本は桜坂洋の『All You Need is Kill』やKIDの『Ev
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