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アメリカ大統領選
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ネットでよしもとばなな女史が飲み屋で持ち込みをしたら「店長に注意されたのだけど,それで客を失っただろうとか,その店は店長が変わるか店がつぶれるだろう」と書いているのに疑問を感じている文章が話題になってました。 正直わたしもこの文章を読んで,よしもと女史の方にあまり好感をもてなかったのですが,ネットでも「自分達を特別扱いしろ」みたいに書いているのが不快だとか,「昔は良かったのに」と言いたげなのが不快だとか,そんなことが書いてます。 まぁ確かにわたしも同じようなことを思うんですが,ただ一番一番よしもと女史に共感しないのは,よしもと女史自身がその店長に注意,もしくはよしもと女史の行動で店員が店長に怒られたことの原因になっており,つまりよしもと女史が当事者であるのに,あたかも自分が客観的に「あの店は今後商売に失敗するだろう」と評してるからです。まったく利害の外にいる第三者が,この一連の流れを目撃し
紙屋研究所の「生きづらさ」についての文を読んでいて,ここしばらく考えていたことを思い出しました。 本当に今の人は生きづらくなってるんでしょうか?。いつの時代も同じで,いつもこういうことはいわれている可能性もあります。でも,時代の変化で変わっただろうってことはあって,たとえ今も昔も生きづらさがあったとしても,生きづらさの原因は変わっているでしょう。 最近,若い男女がなかなか結婚できないとかいう記事とかをみるのですが,男女ともあまってるのに出来ないのは,それぞれハードルというか理想が高いから。でも理想が下がらないのは,実はそこまで困ってないからとも言えますが,いや,その後にくるだろうもっと深刻なことをに対する想像力がないともいえます。生きがいが見つからないとかいうなら,紙屋さんが書いてる通り,子供とかができるとそれなりに自分の存在価値を感じるというのもあります。 生活が苦しいといっても過去の日
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