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ノーベル賞
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2018年03月29日19:03 『宇宙よりも遠い場所』解題 カテゴリアニメ Comment(2) いやもう本当に素晴らしい作品であった。文句のつけようがない。なるほど青春とは友情とはこう描くものなのか。思いつくままにいくつか感想を。いろいろとネタバレしているので注意。 STAGE01「青春しゃくまんえん」 STAGE12「宇宙よりも遠い場所」初見のさいに、小淵沢報瀬が声をあげて泣くのをはじめて見たような印象を受けたのであるが、よく考えると落とした百万円を届けてもらったさいにすでに大泣きしていた。コメディ泣きとシリアス泣き、出発点と終着点で報瀬は二回泣いているのね。 STAGE05「Dear my friend」 高橋めぐみの告白が面白い。問題となった行為そのものを置きざりにして、ただただ自罰に沈んでいる。そもそも、めぐっちゃんはたいしたことをしていない。ポンコツの玉木マリと報瀬がドタバタ
2015年04月12日22:30 『アルドノア・ゼロ』評 カテゴリアニメ Comment(6)Trackback(0) ・なかなか楽しめた佳作であった。エピローグが実にいい絵になっていて、なるほどこれがやりたかったのか、と納得、感心した。その一方で、あのオチはちょっと、という反応が出るのもわかる。それまでの物語があのエピローグを支えるために十分な構造と強度をもっていたとはいえないからである。 ・本作について「どのような結末にすべきだったか」と問いを立てるのはあまり適切ではないように思う。繰りかえしになるが、本作は、あのエピローグをやりたくて、そのために物語を組んでいたように思われるからである。つまり、「どのような結末にすべきだったか」というかたちではなく、「あの結末をもっと生かすためには、それ以前の物語をどうすべきだったか」というかたちで考えていったほうがよいのである。 ・というわけで三人
2014年01月23日01:59 田村ゆかりはなにを演じているのか カテゴリよしなしごとアニメ Comment(0)Trackback(0) つづき。アニメ版『弱虫ペダル』において、田村ゆかりは「姫野湖鳥」を演じているとされている。しかし、これはおかしい。姫野湖鳥は『ペダル』世界におけるアニメ『ラブ★ヒメ』のキャラクターである。田村ゆかりがこれを直接演じることは不可能である。田村ゆかりが演じているのは、『ペダル』世界において姫野湖鳥を演じている声優―便宜上タムラユカリとしておこう―なのである。ここで困惑するのが、『ラブ★ヒメ』主題歌「恋のヒメヒメぺったんこ」を歌っているのが姫野湖鳥とされていることである。作中世界でこれを歌っているのはタムラユカリであるし、現実世界でこれを歌っているのは田村ゆかりである。ここに姫野湖鳥の登場する余地はないはずだ。これはどういうことか。可能な解釈は二つある。一
2014年01月22日00:45 コピーがオリジナルになった話 カテゴリよしなしごと Comment(0)Trackback(0) 田村ゆかり論である。自分自身は大ファンというわけではなく、脇から感心しながらずっと眺めていた立場でしかないので、不十分なところもあるかと思われるが、ご容赦願いたい。 田村ゆかりにおけるアイドルは当初は芸、それも物まねに近い芸としての側面を強くもっていたように思われる。つまり、田村ゆかりは、アイドルそのものではなく、アイドルの真似をしている芸人としての性格をももっていて、それをも含めて評価されていたのである。ただし、真似といっても普通の真似ではない。田村ゆかりは、特定のアイドルを真似ていたわけではなく、アイドルとはそもそもこういうものでしょ、という我々の共通了解、つまりはアイドルの概念そのものを真似していたのであり、そこが一つの特徴となっていた。ところが。その真
2012年06月29日22:28 『咲-Saki-』における回想シーンのフラグ機能について カテゴリ漫画アニメ Comment(2)Trackback(0) もう少し『咲-Saki-』シリーズについて考えてみたい。なんだかこの作品は考察欲をそそる。 『咲-Saki-』世界の麻雀競技は、なにをどうしたら勝てるのかがよくわからないものになっている。そもそも麻雀が偶然の要素が強いゲームであるうえに、その偶然の要素を好き放題に支配するオカルトな能力が乱れ飛んでいるからだ。 そのため、この作品での麻雀の勝敗は、麻雀というゲームの論理の内部で決まるのではなく、物語の進行上の要請、つまりはフラグによって決まっているように見えてくる。そして、そのフラグを担っているのが、回想シーンなのである。かくかくの回想シーンがあったがゆえにしかじかの結果となった、というように、読者や視聴者は自分を納得させている。回想が
2012年05月10日23:48 『咲-Saki-』のサはサディズムのサ カテゴリアニメ漫画 Comment(0)Trackback(0) 一連の『咲-Saki-』シリーズの魅力の一つに、可愛い女の子が完膚無きまでに叩きのめされて心が折れて目から光が消えてしまうさまを観賞できる、というものがある。このようなサディストの視点から、『咲-Saki-』の舞台設定のよくできていると思われる点を挙げてみたい。 (1)精神的ダメージへの特化 麻雀なので、精神のみにダメージを負うのがいい。心の折れを伴わない肉体的ダメージは、サディズム的に面白くない。たとえばスポーツものなどでは、勝っても負けても肉体的ダメージを負うわけだが、こんなものは爽やかなだけであって、サディストの興味の対象にはならない。麻雀は、このような混ぜ物を排して、精神的ダメージのみを純化して描くことができる。よくできた装置である、と評価でき
2011年08月18日01:23 オタクの鑑賞眼は曇りやすい カテゴリよしなしごと Comment(0)Trackback(0) オタクの定義はいろいろありえて、私も自分の意見がないわけではないのだが、それは脇に置いておこう。どんな定義を採用しようが無視することができないオタクの一般的な特徴として、「作品を鑑賞し終わったあとが本番」という態度がある。漫画を読んでいる最中、アニメを見ている最中、ゲームをやっている最中は、もちろんそれはそれで楽しい。しかし、それで終わってしまっては普通の人である。肝心なのはその後だ。妄想したり考証したり関連グッズを漁ったり聖地を巡礼したりネットで感想を言い合ったり同人誌を買ったり売ったり変態プレイでの再攻略に突入したりといった、そのあとの活動にこそ、オタク的な楽しみの醍醐味がある、というわけだ。 さて、ここから、残念な現象が帰結する。 内容の出来がよい作品より
2011年06月14日20:12 燃えのギャフン説 カテゴリよしなしごと Comment(0)Trackback(0) まとまっていないメモ。最近のオタク系の作品には、どうにも燃えが足りない。ただ、足りない足りないと不平を言っているだけでは生産性がない。そこで、あらためて、燃えがどこにおいて成立するのか、ということを考えてみた。方針としては、燃えの感覚をある意味では広く、ある意味では狭く捉えなおす、ということになる。すなわち、ヴァイオレンスの場面に限定せずにより広く捉えるが、同時に、たんなる困難な目標の達成に伴う興奮の感覚と燃えの感覚を区別して狭く捉えもする、というような感じである。というわけで、結論から述べよう。 燃えは主人公が自らの行為の価値によって誰かを驚愕させることにおいて成立する。 この主張を「燃えのギャフン説」あるいは「ギャフン説」と名付けたい。主人公が誰かをギャフンと言わせる
2011年04月07日00:02 「寝取られ」の醍醐味 カテゴリよしなしごと Comment(6)Trackback(0) 下品な話題なので注意されたい。 「寝取られ」というシチュエーションを愛好する人がいる。私はその趣味があまりなかったのだが、そうであるがゆえに、これをきちんと理解したい、といろいろと考えてきた。現段階でいくつか思うところがあるので、暫定的にメモしておきたい。 寝取られが苦手という人は少なくないわけだが、この「苦手さ」に二種類があることに注意すべきであろう。第一に、寝取られるシチュエーションにあまり興奮できない、という意味での苦手さがあるだろう。第二に、ある物語を「寝取られ」と認知することが上手くできない、という意味での苦手さがある。前者は価値的に苦手、ということであり、後者は認知的に苦手、ということである。この二つはきちんと区別すべきであろう。 ここでは、認知的な苦手さ
2011年04月03日23:06 処女厨補論 カテゴリよしなしごと Comment(2)Trackback(0) 下品な話なので、注意されたい。 以前、母屋で「処女厨」と呼ばれる態度について考察したことがある(「処女属性をめぐって」)。その補論である。 一般的に、処女厨は処女属性をもつキャラを非合理なまでに愛好する態度によって特徴づけられる。しかし、実情はもう少し複雑である。ポイントは、「未規定」というところにある。 虚構のキャラクターには未規定の性質があってよい。たとえば桃太郎が納豆を食べた経験があるかないかは、お話のなかに書いていないのだから、未規定であり、それで問題がないわけだ。そして、多くの虚構の物語において、あるキャラが処女か非処女かは、未規定のままになっていて、それで問題がないことが多いのである。 こう考えると、処女厨的態度に複数のありかたを確認することができる。(1)未規定で
2011年03月30日22:47 途中で批評することと信者およびアンチの存在との関連について カテゴリよしなしごと Comment(4)Trackback(0) 古式ゆかしい推理小説では、探偵が関係者全員を一堂に集めて謎解きをする場面がたいていあるのだが、そこでのお決まりの台詞に以下の二つのものがある。「そうです、事件の発端ははるか以前のあのときにまで遡るのです」、そして「いや、犯人の真の目的は別のところにあります、事件はまだ終わっていないのです」、これらである。その事件がどこで始まってどこで終わるのかを正しく見て取らなければ、事件の真相などわかるはずもない、というわけだ。 さて、芸術作品というものは、一部の例外を除くと、その作品がどこで始まってどこで終わるのかがはっきりしている場合が多い。絵画、音楽、詩、映画などを思い浮かべられたい。そして、範囲がはっきりしているからこそ、その作品を評価
2011年03月06日00:04 ツンデレ分類仮説 カテゴリよしなしごと Comment(0)Trackback(0) 手垢のつきまくったテーマであるが、今だからこそ振り返って整理できることもあるだろう、ということで。 ツンデレにかんしては、これまでもさまざまな分類が提唱されてきたが、いささか体系性に欠けるきらいがあったように思う。そこで、なるべくシステマティックにやってみたい。方法論としては、ツンデレを「ツン」部分に着目することによって分類する。初期条件による分類法、というやつだ。問0から始めてチェックしていくと、八つの類型に分類することが可能となる。一人のキャラクターが複数の類型を兼ね備えている場合もありうるので、その点には注意されたい。 (問0)そのキャラのツンが ・特定の相手に向かってのみ発動される場合 →(問1) ・不特定多数の相手に向かって発動される場合 →(問2) (問1)そ
2011年01月19日00:21 特撮パロディの難しさ カテゴリアニメ特撮 Comment(0)Trackback(0) 『みつどもえ増量中!』第一話の『本気戦隊ガチレンジャー』ネタはダメダメであった。まずは特撮パロディをやるための基本的な注意点を確認しておきたい。 (1)基本的に特撮は子ども向けのものなので、特有のご都合主義的なお約束をいくつかもつことになる。しかし、それはわかったうえでやっているものなので、そこにツッこんでもあまり面白くならない。そういう背伸びした斜な態度は中学二年生くらいで卒業したいものである。ところが、安易な特撮パロディは、これをやりたがる傾向がある。それでは、ジャンルそのものを至極適当に茶化しているだけにしかならない。ジャンルへのリスペクトを前提にしたパロディにはならないのである。 (2)つまり、パロディをやるのであれば、特撮の本質を押さえたうえで、丁寧にやるべき
2011年01月10日20:58 燃えオタの萌えツボ カテゴリよしなしごと Comment(0)Trackback(0) キャラクターにかんする自分の好き嫌いの根っコになにがあるのかをずっと考えていた。この反省から、一つ思いついたことがあるので、メモしておきたい。どうやら「ヒーローの嫁属性」とでもいうべきものをもっていることが、私のキャラクター愛の必要条件になっているようだ。では、「ヒーローの嫁属性」とはなにか。まだ簡潔に定義する準備が私にはないので、長々しくなってしまうが、以下のような属性を指す。 あるヒーローが長年の戦いでボロボロになり、後進に正義のための戦いを譲って引退したとしよう。その老兵は、市井の片隅で小さな幸せをみつけて、ひっそりと暮らしている。ところがだ。恐るべき悪の魔の手が世界に迫り、後輩ヒーローたちは苦戦に苦戦を重ねることになる。そして最終決戦。このままでは勝てない、と悟
2010年10月16日23:13 凡作ライトノベルの語りかたの倫理 カテゴリノベル Comment(2)Trackback(0) 我々は基本的に受け手の立場にいるので、さまざまな作品を比較することで、その良し悪しを判定することになる。それはそれでいいのだが、相対的な評価ばかりしていて絶対的な評価をしそこなわないようにしたいものである。三割三十本を打つ選手に比べれば、二割五分しか打てないプロ野球選手はいまひとつかもしれない。世界チャンピオンに比べれば、全日本ランクに入るか入らないかくらいのボクサーはいまひとつかもしれない。しかし、よく考えれば、一軍のプロ野球選手である、というだけで、もの凄いことなのだ。プロボクシングのリングで何度か勝ったことがある、というだけで、もの凄いことなのだ。 この点、とくにライトノベルにかんして注意が必要であろう。ありがちな設定にありがちなキャラを置いて、そこそこの
2010年10月09日00:31 CDは死んでいない カテゴリよしなしごと Comment(0)Trackback(0) オタク文化におけるCDの位置づけについて考えている。 昨今、CDが売れなくなった、という話を聞く。しかし、そこで問題になっているのは、何十万枚何百万枚売れるタイトルがなくなった、というだけのことにすぎない。そこそこプレスしてそこそこ売れるタイトルはいまだに次々と発表され続けているのである。それを無視してはならない。 とくにオタク業界を眺めてみれば、地味なアニメのサントラ、たいして上手くもない声優のアルバム、マイナー漫画のドラマCD、Webラジオをそのまままとめたお喋りCDなどなど、狭い領域を狙って予算を絞ってつくられた作品が次々と売り出され、それなりの売り上げを達成しているのである。 こういった、地味に売れるCDのオタク文化における位置づけを低く見積もってはならないだろ
2010年07月14日00:23 あかほりさとる全盛期の残照 カテゴリよしなしごとノンフィクション・その他 Comment(0)Trackback(1) 少し前に、あかほりさとる、天野由貴『オタク成金』という新書が出た。この本はなかなかに面白い。「あかほり作品」のなかでは上出来の部類に入る。定価で買うかどうかはともかく、読む価値は十分にある。ただし、聞き手のライター天野由貴の腕がいまいちなのか、ちょっとツッコミ具合が表面的なところで終ってしまっているのが残念である。どうせやるなら、あかほりさとる本人にきちんと自伝を書かせればよかったのに。 売上至上主義という態度がある。売上によってのみ作品は評価されるべきである、という態度だ。「なになにのBlu-rayはこれだけ売れたから傑作」あるいは「なになにはこれだけしか売れなかったから駄作」といった感じか。これ、プロの作家の心構えとしては当然のことで
2009年04月17日20:13 けいおん! カテゴリアニメ Comment(6)Trackback(0) 基本的には可愛らしいという理由だけですべて許してはいるのだが、どうにも引っかかるところを一点だけ指摘しておきたい。 彼女たちはどうして音楽を聴かないのだろうか。 私の感覚では、ポップスやロックにかんする「弾きたい」という情熱は、好きなバンドの好きな楽曲を聴く喜びがまずあって、その延長線上にはじめて出てくるものなのだが、肝心の聴く描写がほぼない。部室で駄弁っているとき、退屈なバイトの最中、試験勉強をしながら、こういった場面で音楽を聴こうとしないのが、どうにも不思議だ。素人がバンドに加入したら、楽器の練習させるよりも先に「このアルバムをまず100回聴け」だろうよ。 こういったわけで、萌えアニメとしてはよく出来ていると私も思うのではあるが、音楽アニメとして凄い、という系統の評をネットとかで
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