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掃除・片付け
bocchinohitorigoto.hatenablog.com
生きていると、どうしても納得できない言葉、どうやっても反りが合わない人に出会うことが多い。 ネットが発達したおかげでその頻度は増したかも知れない。 そういう相手の存在は何をやっても変えることはできない。 しかし自分の心の持ちようはいくらでも変えられる。 今回は「余裕」と「攻撃性」の関係についての私の考えをまとめたい。 自分と気が合わないものと対峙した時、どれだけスルーできるかというのは無用な不幸の回避にとても重要であることは明白であろう。 世界にその人とふたりきりというわけでもない限り、別にその相手と戦う必要はない。 ただ目を伏せてスルーすればいい。 そんな当たり前のことをなにをいまさらと思うかも知れないが、現状のネットを見てみるとこれを忘れている人が山ほどいることがわかる。 自分と意見を異にする存在をスルーできない、自分が気に食わないものを排除しないと気がすまない、そういう不寛容な人がた
朝、起きてスマホを開くとそこには知り合いのツイートが流れている。 昼、大学には顔だけ知っている学部の知り合いがたくさんいる。 夜、サークルの飲み会には仲のいい人が数人いる。 寝る前、ツイッターにたくさんいる知り合いを見ながら独りに戻る。 我々の人生の場面の多くは一対多である。 多くの人と関わり、多くの評価をされ、多くのものに興味を持ち、多くのことを学び、多くのことを忘れ、多くの人に忘れられる。 SNSのおかげで学部の人、それ以外の人とのつながりはそれなりにできた。間違いなく人生で最も知り合いが多い。ツイッターで呟けばいいねされることも多い。 しかしなぜだろうか、時々そのつながりが虚しく感じる。 その虚無感は不思議にも孤独でいるときよりも強い。 私は考える。 私は多くの人から何かを得ているのだろうか。それとも多くの人に奪われているのだろうか。 多くの人と知り合うことはできた。それは間違いない
早くも前期テスト期間が近づき、一般教養から専門科目まで広く勉強している。 日頃から勉強していればここまで必死にやらなくてもいいのだが、それができない。 こんな感じで毎年テスト期間が近づくと慌てて大学の勉強をしているわけである。 勉強というのはしばしば運動と対比されるが私は同じようなものだと感じている。 なぜならどちらも人間の体を使ったのという分類ができるからだ。 運動では競技をやっていなかった期間にブランクという名前が付いている。 同様に勉強もブランクがあると結構厳しい物がある。 やはり知識を忘れるという点が大きい。 覚えなおせばいいと思っていしまうがこれが難しい。 数学なら数学の、科学なら科学の脳(考え方)を忘れてしまうのだ。 勉強のブランクはこの脳を失う危険がある。 そうなると1から脳を作っていかないといけなくなる。 当然初学よりは早く回復できるが、初学ではないという驕りから学習が浅く
この記事は『価値観の共有は可能か?』で話した体験の感想の続きである。 あの記事の途中で「異なる意見を自己の否定と捉える種類の人」の話をした。 年代や地域によって分布が違うかはなんとも言えないが、このタイプの人種はそれなりに存在していると思う。 少なくとも私の周りには結構いる。 私はこのタイプの人間ではないので、会話において他者の異なる意見を楽しめる。。 というか、100人いたら100種類の意見があると思っているので、異文化交流の気分で異なる意見をとりあえず聞いてみる。 しかし、異なる意見を楽しめない人は間違いなく存在している。 そういう人がいると揉める必然性がない議論で無駄に揉める。 なぜ彼らは異なる意見を「否定」と捉えるのだろうか。 否定しているわけではないと言っても、声を荒げるのだろうか。 彼らは私の意見に反論をしない。 私が『意見A』だと思う、と意見を呈示した際、なるほど私は『意見B
日々徒然なるままに日暮しアニメを見ていると、友人間でいさかいが起こる回がある。 そういう場面では十中八九登場するセリフがある。 「お前ためにやったのに。」 アニメだからわざわざ声に出して言っているが、現実でも似たような気分になることはあると思う。私は子供の頃よくあった。 親切をしてくれるのはありがたいがお礼を言わないと機嫌が悪くなる人やいちいち恩着せがましく報告してくる人種が私の周りにも存在している。 私の狭いコミュニティに存在しているのだから世の中にはもっといるのだろう。 そういう人を見てきたので私はこの「誰かのために」という動機の危険に気づいた。 なぜならそういう思考はおそらく勘違いであるからだ。 一度自分の行動原理を考えてみてほしい。 誰かのためにと思っているものは本当に相手の幸せを願っているだろうか。 少なくとも恩着せがましい人はそうではない。 相手のためになる(だろうと思った)こ
前回「人生に無駄〜」では、効率化が社会の無駄を省いていることを述べた。 特に顕著なのは時間だろう。 少し前なら20分かかっていた調べ物も今では3秒で終わるし、休日自ら買いに行く必要もなくクリックひとつでほしい品物が届く。 昔なら考えられないくらい便利な社会になった。明らかに昔より自由に使える時間が増えた。 だから本来なら昔よりも時間的にも精神的にも余裕が生まれるはずだ。 だが、今の日本に本当に余裕があるだろうか。余裕を感じる力があるだろうか。 私はそうは思えない。 尤も昔をよく知っているとはとても言える年ではないが。 だが、今を生きる人達を絶対評価したとしてもとても余裕があるとは思えない。少なくとも効率化がくれた時間的余裕分をそのまま享受しているとは思えない。 もちろん余裕を失う原因は1つではないと思っている。 膨大な選択肢の可視化や情報の即時性の向上など色々あると思う。 しかしそれらと同
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