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やる気の出し方
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帰って居間のこたつに入ってほっとしていたら、隣室のテレビのニュース番組で、大阪府だったか大阪市だったかが、域内の260ほどの救急指定病院に対して、救急患者の受け入れを促す通達を出したとか言っていた。音声を聞いただけだったが、「いわゆるたらい回し」「いわゆるたらい回し」と、俺が言ってるんじゃないもんねという意味の枕詞である「いわゆる」をつけりゃあ免責されるくらいに思ってたらい回したらい回しと連呼するもんだから、肝心のニュースがよく分らなかった。 いやしくも報道機関なんだから「いわゆる」なんてつけるような言い訳がましいことをせず、堂々と自分の責任でたらい回しと断言するか、あるいは自前のもうちょっと穏便かつ適切な表現をつかうか、どっちかにすればよいのにと思った。そんなことだからいわゆるマスゴミだなんていわれるんだよなと思った。 しかしこたつの中で大阪も大変だとか言っているのは、周産期に関わる私の
ドラえもん (25) 藤子・F・不二雄 / / 小学館 ISBN : 4091405053 「のび太の結婚前夜」が収録された巻である。結婚の前夜、しずちゃんのお父さんが娘にのび太を評して語る「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。」という台詞は、たしかドラえもん全話を通じて屈指の名台詞とされていたような記憶がある。が、狭量な私には耳が痛い。 これはのび太のみならず、ゴルゴ13にも通じる美徳かと思う。彼はいかなる主義主張・イデオロギーにも拘らず依頼を遂行する。それは彼が信じるもののなにもないニヒリストだからとも言われるが、私はそれは皮相な見方だと思う。時として彼は熱い心情を露呈する。例えば「命がけの依頼」に対して破格の低価格で任務を引き受けることが幾たびかあった。標的に対して自らの怒りを表明することもあった。彼が主
ゴルゴ13の過去はのび太だった説 馬鹿話もいよいよ大詰め。 この手の話はしゃべり出したら止まらないんだけど、いい年になってくるとこういうオタク話の相手になる人がもう周囲には居なくなってしまいました。はは。 のび太が将来ゴルゴ13と呼ばれるテロリストになったとして、ドラえもんはどうしているのだろうか。 のび太は事業に失敗して子孫に莫大な借金を残す。それが未来世界からドラえもんが派遣されてきた原因である。ゴルゴが熱心に金を稼ぐのはその借金の返済のためと考えられる(幾ら借金したんだのび太?) 毎年映画化されるほどの命がけの冒険を繰り返すうち(危険さの度合いは将来のゴルゴ稼業並みだ。あれだけの冒険を繰り返して人格的にも肉体的にも全く成長しないってほうが不自然じゃないか?)、のび太はダメ少年の羊の皮を少しずつ脱いで、前述した天賦の才を次々開花させていったのであろう。そして、あたかも宿命に吸い寄せられ
ゴルゴ13は過去を隠す。その理由として テロリストだから当然だというのはあまりに凡庸な回答。 本当の理由は、ゴルゴ13の正体は成人したのび太であるからだ。 根拠 二人とも常識を外れた射撃の天才である。ゴルゴが射撃の天才であるのは論を待たないが、のび太もドラえもんが持ってきた22世紀の射撃ゲームで世界新記録を出すほどの腕前である。彼の才能は特にピストルの早撃ちに現れている。実戦でも、タイムマシンで19世紀の米国西部に現れて町にはびこる無法者を退治し、謎のガンマンとして歴史に名を残し(残してねえか)ている。 ライフルを用いた長距離の狙撃は寡聞にして私の読んだ範囲には登場しないが、ドラえもんが出した戦闘機ゲームでは初めて操縦する戦闘機を見事に乗りこなし敵機を連続して撃墜するほどの応用力を示す彼のこと、そういうシーンさえあれば長距離狙撃も見事にこなしたに違いない。 のび太の視力が問題となるが、近視
緊急搬送中も、大型車は意外にじゃまにならない。大型トラックやバスがぎりぎりに幅をよせて道を譲ってくれる様子は、後ろから見ていて神業にさえ見える。 搬送の妨げとして一番大きいのは道路を横断する歩行者ではないかと思う。救急車が接近してきていても横断を始める。気づいていないのか、気づいていてもまだ遠方だから十分渡りきれるとお思いなのか、あるいは歩行者が青信号なんだから当然渡る権利があるとお思いなのだか。 当方としては減速せざるを得ない。しかし救急車が減速しつつ接近してきていても、横断を断念して後退される歩行者のかたは実は少数派である。さすがに平然と渡り続ける方も少数だが、しかし後退する人よりは多い。大半の人は、立ち止まる。立ち止まってこちらをじっと見る。保育器の脇にいる私と目が合うことさえある。進路に立ち止まられている限り緊急車両でも減速せざるを得ない。こちらが十分減速するのを見定めて、おもむろ
まずは全文引用する。2007年12月24日朝日新聞13判△20面より。字の大きさもなるだけ再現してみる。ただし逮捕された運転手さんの個人名は伏せます。年齢も伏せた方が良いかなと思いますが、年配の方です。医師の名前はもともと書いてありません。 救急車なのにけが人作る 多重事故4人軽傷 22日午後11時45分ごろ、南区九条油小路交差点で、京都第一赤十字病院(東山区)の救急車が乗用車と出会い頭に衝突、はずみで別の事故処理中だった警察車両や信号待ちしていた3台の車に相次いでぶつかり、計4人が軽傷を負った。南署は救急車を運転していた同病院の契約運転手・・・容疑者(・・)を自動車運転過失致傷容疑で現行犯逮捕した。 同署の調べでは、救急車は男性医師(・・)が同乗し、長岡京市内の病院に向かう途中で、患者は乗っていなかった。・・容疑者は救急車の赤色灯をつけ、サイレンを鳴らしていたが、交差点の信号は赤で、安全
インフルエンザ・ワクチンは打たないで! 母里 啓子 / / 双葉社 ISBN : 4575299995 まだこの一派が生き延びていたのかと、まるで「バナナの皮で滑って転ぶ一発芸人」が正月のテレビで埋め草番組に出てきたような驚きをもって拝読した。いや、外来とかで親御さんにこの本について質問されたらどうしようと思って読んでみたんですがね。 確かに私も外来ではインフルエンザワクチンをそれほど熱心には推奨していない。ふだん慢性疾患やらリハビリやらで定期的に拝見している子には、定期受診のおりに接種したりはする。病院職員は全員接種するべきだと思う(むろん自分は毎年接種してますよ)。でも普段元気な子が臨時に受診したような一般外来では、とりたてて薦めることはしていない。打つなとまでは言わないが。だからインフルエンザに関しては、じつはあんまり見解の相違がなかったりするかもしれない。しかし返す刀でワクチン全般
決して止めてはならない基幹業務を運営する上では、そこに携わるスタッフに「プロフェッショナルさ」が必要条件となってはならない。ごく普通に淡々と業務をこなせばそれで業務が回るようなシステムが構築されていなければならない。 ゆるゆるに余裕をもたせたシステムでも、それでも実際に運営してみれば細々した破綻が次々に生じるもので、システムを動かし続けるためにはそれを絶えず復旧しつづける作業が必要である。まして、個々人が超人的な努力をすることを前提として構築されたシステムなど、生じうる破綻の規模も大きくなり、結果として業務に支障の出る確率が飛躍的に高くなる。そんなものシステムと呼ぶにも値しない。 自分の仕事に誇りをもつことはあっていい。中にはプロフェッショナルと呼ばれる超人も出現するだろう。それを否定することはない。しかしそれを必然と期待するのは馬鹿げている。現実のほころびやすさ、あるいは「日々平穏」を実
文献まで含め、私の知る限り、自分の職業倫理を「プロフェッショナル」と最初に称したのはデューク・東郷氏である。一般的にはゴルゴ13という通称で知られている人物である。初出は1960年代の末頃か。 「ゴルゴ13」の、特に初期の作品でこの語がよく使われる。ゴルゴ13の作品世界においては、あくまでも、裏稼業の人間が自分たちの非合法な稼業をさして言う語である。たとえば、敵役と自己紹介しあっても握手をしなかったことを振り返って、「俺たちは初対面で互いにプロだと名乗りあったようなものだ、プロなら自分の利き手を相手に預けるようなマネは絶対にしない」とかなんとか、まだ若くて生意気そうな時期のデューク・東郷氏が述懐する場面がある。(正確な台詞は第1巻を参照してください)。 この用法での「プロフェッショナル」と言う語をあえて日本語に訳すなら「極道」という語がちょうどぴったりするのではないかと思う。元来、陽の当る
優秀なナースがいるとシステムがなかなか改善されないという話 元記事を拝読して、論文もついでに読んでみた。内容は元記事の如く。 でもこれってHarvardのBusiness Shoolの人が書いたんだよな。Medical Schoolじゃなくて。現場の人っつうよりは管理者層になる人らの系列が書いた論文なんだよね。あるいは、管理者層の人らに対して「貴院の運営にはこういう問題(注)があります」と進言して金にする「こんさるたんと」稼業に進もうとする人らのね。 (注)たとえば接客がねずみ王国のやりかたを見習ってないとかね。ちゅうちゅう。 そういう人らにとっては、現場でなんとかしてしまう面々ってのはどっちかというと敵なんだろうなと思う。将来には病院管理者やなんかの経営者を目ざす面々がこういう思考をして、まわりにイエスマンと尻ぬぐいばっかりを置かないよう自戒するってのは歓迎だけれど、コンサルタントのニッ
「イェルサレムのアイヒマン」から気になったことをいろいろメモ。自分の仕事はしんどいけど尊い仕事だという思いこみに冷や水を浴びせられるような記載がいろいろあったので。 人殺しとなったこれらの人々の頭にこびりついていたのは、或る歴史的な、壮大な、他に類例のない、それ故容易には堪えられるはずのない仕事(「二千年に一度しか生じない大事業」)に参与しているという観念だけだった。このことは重要だった。殺害者たちはサディストでも生まれつきの人殺しでもなかったからだ。反対に、自分のしていることに肉体的な快感をおぼえているような人間は取除くように周到な方法が講ぜられていたほどなのだ。(同書p84) 彼らは後世に語られているような変態ではなかった。自分は彼らとは違うから彼らのような過誤は犯さないというのは浅はかな思いこみである。彼らが自分よりも下衆な連中だったとは限らない。私もまた彼らの立場であれば彼らと同じ
映画「硫黄島からの手紙」で、旧日本軍の下士官が兵士に、米軍は確かに物量においては日本軍に勝るかもしれないが、兵士が臆病者ばかりだから恐れるに足りない云々と教育するシーンがあった。 同様の神話はじつは現在のNICUにおいても語られている。曰く米国NICUはレジデントやインターンが臨床の中心だから、診療が全般に粗雑であると。その点、本邦のNICUでは、年期を積んで熟達した専門医が中心になって診ていると。たとえばHFOひとつとっても、向こうの連中は使い方がわからんからトライアルやっても全然よい結果を残せなかったが、日本で使ったらちゃんと良い結果が出ていると。 HFOってのは新生児向けの特殊な人工呼吸の方法です。 それはむろん留学生の見聞とか、発表された臨床成績の良し悪しとか、語る人はある程度の根拠を持って語っているんだろうと思う。しかし不勉強で留学にも縁のない私としては、硫黄島の二等兵同様、そん
自閉症児の教育実践―TEACCHをめぐって 奥住 秀之 / / 大月書店 ISBN : 4272411616 スコア選択: ※ TEACCHに関する「論争」だそうだ。類書と一線を画するのは第3章「論争・TEACCH」の部分であろう。京都で個別化・構造化を実践しておられる澤先生がTEACCHについて概略を述べ、続いて東京の先生方がTEACCHに対する疑問を並べ、それに対して澤先生が回答を寄せると言う形式。 その澤先生の回答に対する東京の先生方の直接の答えはないが、しかし第4章「私たちが目ざす自閉症児教育」が実質的な回答なんだろう。その目ざすところと言うのは、自閉症児を学級集団の人間関係の中で揉んで適度に葛藤させて成長させるというもののようだが、一般にはそういうのを「無策」と言うんじゃないかとも思う。そんなんで発達が最適化されるようなら定型発達じゃないですか。 澤先生が紹介した、小便の仕方を絵
大相撲の醜聞が続き、週刊朝日の前号で内舘牧子がここぞとばかりに朝青龍を攻撃していた。 朝青龍がモンゴルでサッカーをしたのが問題視された折、彼女は朝青龍を即座にクビにしろと主張したと自慢げに書いてあった。それはもう朝青龍を横綱にする時点で彼女は反対だったのだから、それ見たことかと言いたいのは分からんでもない。コドモか?とこどものおいしゃさんである私は突っ込んでみたいところだが、こどもですと称して外来に来られても困るからそれは言うまい。 しかしモンゴルの温泉に短期間浸かっただけでうつ病寸前が治るのかと揶揄してあったのは彼女の見識を疑う。短い休暇の帰省を心の支えにしている私には、モンゴルの草原に立ったドルゴルスレン・ダグワドルジ青年の心中が思いやられるばかりなのだが。彼女には故郷というものが無いのだろうか。ふるさとの山に向かひて言ふことなし、という感慨を知らないのだろうか。 おそらく朝青龍という
くらやみの速さはどれくらい (海外SFノヴェルズ) エリザベス ムーン / / 早川書房 ISBN : 4152086033 自閉症者自身は「自閉症を治す」治療をうけることを選択するか否か、というのが本書のテーマである。自閉症故に困窮して生存もおぼつかないような状況ならともかくも、経済的に自立し(「就労」どころか高給取りだ)日常生活も余暇も完全に自立している自閉症者が、それでも自らの自閉症を治そうとするか否か。自閉症を治すとは、彼の存在のありかたそのものを変革するということである。ある意味で彼が彼ではなくなるということだ。彼はそれを選択するか。周囲の者はその選択にどう接するのか。 本書は自らも自閉症児の母である著者が、このテーマを考え抜いた小説である。主人公の自己決定を妨げるいろいろな要因は、ひとつひとつ丁寧に取り除かれていく。主人公の無知も、暴虐な上司も。主人公は自分でその治療法の科学的
NHKで放送された「プロフェッショナル・仕事の流儀」で、開業助産師さんの紹介があった。自宅で録画してあった番組を拝見した。 良くも悪しくも、かつての「勇敢な者たちの時代」の人だよなと思った。駄目でもともとの中から僅かでも救えれば賞賛された時代、英雄的な自己犠牲のみが求められた時代の人だ。サーファクテン以前、1500g未満は助からなくて当たり前だった時代の。 番組のクライマックスで、東京と横浜で同時に陣痛が始まり、タクシーで往復しながら同時進行で分娩介助しておられた。NHKは仕事を同時進行で片付ける超優秀な助産師さんというスタンスでの紹介だったが、陣発中の妊婦さんのそばを離れて早朝の横浜でタクシーを拾う姿は、私には安心して観ていられるシーンではなかった。NICU仕事を終えて帰って観るテレビとしてはもう少し気楽に観られる番組を観たいと思った。複数の助産師が協力して介助に当っていたので、全く誰も
奈良の搬送中事故のような症例の、緊急入院を要請されたら、NICUを預かる身としてはじっさい辛いなと思う。 妊婦健診を受けておられない妊婦さんで、在胎週数すらわからない。当然他のリスク因子も不明。急激な腹痛というとどうしても胎盤早期剥離の可能性が頭をよぎるわけだが、早剥合併だと生命予後も発達予後もがくんと悪くなる。早産児であればなおのこと。考えれば考えるだに、受け側のNICUにとって気分が楽になる要素がない。 これまで産前訪問して直接の御面識をいただくなり、自施設の産科スタッフが存じ上げるなりして、お相手の人柄を幾分かでも把握できていればまだしも、このような危機的な状況にあって、どのようなお方か全く分からないでは、おたがいに危機に対処する同志意識が立ち上がりにくいようにも思う。ものすごく身も蓋もない言い方で読者諸賢には恐縮だが、「重篤な赤ちゃんを突然にお引き受けせざるを得なくなり、情報の乏し
若者はなぜうまく働けないのか? (内田樹の研究室) 内田先生の説諭で、かつての俺か過労死しかかってたのは「自己責任」だったということがよくわかった。俺は自分でも知らないうちにイラクに行っててムジャヒディンな諸君にとっつかまってたらしい。やれやれ。 正確に言おう。若い人が過労死しても団塊の世代の奴らは自己責任だとしか言わないってのが、よおおおおおおく分かった。実によく分かった。自己責任だと言えばいい理論武装が着々と進んでいるんだ。戦慄の事態だね。もう一つ、倫理的な正しさと論理的な明快さというのが全く別物だと言うことも、内田先生に教えていただいた。全くこの先生には学ぶところが多い。いろいろな面で。 内田先生の論理が通用するのは、職場のみんながみんな一人前以上に働くという前提があってのことじゃないかな。無人島に流れ着いた一家なら家族の皆が皆それなりに働くだろうが。各々の良心を各々が信頼できるだろ
先日の自閉症勉強会の質疑応答で聞いた、「自閉症の子どもはコミュニケーションしたくてたまらないんです。脳性麻痺の子が歩きたくてたまらないように、視覚障害の子が見たくてたまらないように、聴覚障害の子は聞きたくてたまらないように」という言葉にこだわり続けている。発言者は自施設で親御さんにそう言い聞かせては抱っこ指導をしてると自慢げに仰ったのだが。 定型発達の人らにはコミュニケーションそのものが強化子になる。コミュニケーションから何かが得られるからではなしに、コミュニケーション自体に、自己目的化するほどの喜びが得られるわけである。わけである、って訳知り顔に言っちゃうけど、多分そうなんだろうなと、高校時代に群れ集って弁当を食べる級友達を見て思ってたわけだ。私とてブログを書いてたりするわけだし、コミュニケーションに全く喜びが感じられない訳じゃないんだけれども、それは恐らく後天的に覚えた喜びだ。たぶん定
自閉症の人に一般化できるかどうかは分かりません。うちの息子に限ることかもしれませんが、「依頼」されるのが苦手のようです。「命令」の形で語られる方がよいらしい。 「テレビを消して」と言われると「消せ」と言い直してから消す。「鉄道データファイル」の今週号を見せてよと言われると「見せろ」と言い直してから自室へ取りに行く。試しに命令形を使ってみると、言い直しはしません。言うことを聞くかどうかは言われる内容によりますが、依頼の言葉で頼まれたときに予想される程度の素直さで実行に移ります。その様子を見ていると、彼は命令形を使われたこと自体に立腹するということはなさそうです。むしろこちらのほうが、ふだん命令形の言葉で人に接するなんて軍隊的なことはしてないので、慣れなくて戸惑います。 親など目上の人からの依頼というのは実質的には命令ですから、実質的な命令を依頼の形で語られるのは彼の世界観では欺瞞的で許すべか
新しい日本史の教科書では、沖縄戦での集団自決は軍が命じたものではなくなったらしい。日本軍による集団自決の強要や命令があったかどうかは明らかではないんだそうだ。 むろんこの書き換えも政府が強制したものではない。政府は検定意見をつけただけである。たぶん、旧日本軍も命令したり強制したりしたんじゃなくて、生き延びたり捕虜になったりすることに対する否定的意見を述べただけなのだろう。文部科学省と同じように。そして出版社が節を曲げたのと共通した心境で、沖縄の人たちも自主的に集団「自決」なさったのだろう。そう、自分で決めたのだよ彼らは。 それにしても旧軍もずいぶんと迷惑な人たちを周りに取り巻かせていたものだね。軍があずかり知らぬ経緯で集まってきた従軍慰安婦とか、勝手に集団自殺する民間人とか。ずいぶん間抜けた話だ。邪悪と言われるか間抜けと言われるかどっちか選べと言われて、人はどちらを選ぶものなんだろうか。「
モジモジ君の日記。みたいな。 - 育児の事、「結局カネの話ではないのか」経由で、北沢かえるの働けば自由になる日記 - 書いて置けよ、わかるようにを読んだ。以下、言い尽くされた感想かもしれないけれども、心覚えとして書き留めておく。 ・すくなくとも私の息子(自閉症ですが)には、やっちゃいけないことを教えることは可能なので、「障害児だから『分からない』」と一括りにされると、彼には傍迷惑な話である。この言説が人口に膾炙すると、「障害児」と呼ばれる子供のなかには息子同様に迷惑する人が多いんだろうなと思う。あんまり「障害児だから」という括りはして欲しくないものだと思った。 ・あるいは、その場ではもっと具体的に障害の内容を説明されてたのかもしれなくて(相手の心に届く状況だったとは思えないけど)、北沢かえるさんが相手の個人情報のことを考えて詳細を書かれなかっただけかも知れないけれども、でもそうだとしたらそ
市場原理が医療を亡ぼす―アメリカの失敗 李 啓充 / / 医学書院 ISBN : 4260127284 本書には、市場原理がアメリカの医療をいかにダメにしたかが、克明に解説されている。株式会社が病院チェーン経営に参入したら何をするか、民間の医療保険会社はコスト削減しか考えず、ベンチャー企業と営利的に結びついた研究者がルールを無視し、その他諸々。 中でも、私にとっていままで全くの盲点であったのが、「負担の逆進性」の問題である。米国では負担が二重に逆進的になっているという。健康保険の自己負担分は、企業内での地位が高くなるほど安くなる。そうやって有能な人材をスカウトするネタにするんだと。重役クラスでは自己負担なしが普通だそうだ。出世するほど収入も増えるのはむこうでも同じなんだろうから、してみれば収入が増えるほどに健康保険の自己負担は減るということになる。 加えて、医療費負担の逆進性というのがある
朝日新聞の「患者を生きる」という企画で、現在NICUが特集されている。関東地方のNICUが舞台なのだが、例によっての朝日新聞の医療記事である。ネットではまだ公開されていない。 そのNICUでは「完全主治医制」で、記事に登場する女医さんは「三日三晩」不眠不休で赤ちゃんの診療に当たったと、書かれてあった。主治医以外の医者は手を貸さずに三日三晩孤軍奮闘させるのかよ、今日日ずいぶんと非情なNICUだなと、呆れて読んだのだが、どうやらこれは誤報だという業界内の情報が伝わってきた。周囲も手を貸してるし主治医も休む時間はあった(そりゃあ9時5時とはいかんにしても)とのことだ。極端に休日が少ないような書き方をされていたが、実際は休暇もちゃんと配慮してあるとのこと。そりゃそうだよな。 まず三日三晩という表現がいかにも陳腐で、こりゃあ紋切り型の表現が先にあってそれに当てはまるような具体例を後から探したなという
愛国心というのは喜んで兵役に行くってことだけだろうか。いったい今の日本に足りないのは兵隊さんなのか税収なのか。私見では税収のほうだと思うのだが。ならば愛国心に欠けるのは、日の丸に敬礼しない奴じゃなくて、節税とか抜かして海外移住しちまう奴らなんじゃないか?派遣社員を課税の対象にもならんほどの低賃金で使い捨てにしている財界の偉いさんは、「愛国心」なんて抜かしたら舌が融けるんじゃないか?君らが法人税率を下げろと言ってるのは、果たして是非とも本邦に税金を納めたい意思の発露なのか? 愛国心の涵養なんて教育基本法じゃなくて税法とか商法とかの前文にでも書いとけばいいのに。 日の丸ハッピーで徴兵OKのニートを量産するよりは、みんながそこそこ課税できる水準の所得を稼げるような社会にしたほうがよほどよいのでは?東京都の教育委員会も、卒業式で君が代を歌わない教職員を処罰してるひまに、自分がいじめられている現状を
アンカテ(Uncategorizable Blog) - 人権を失ったまま生き続けても、そんな命に意味はない。 もしもこの手紙を書いたあなたが、この記事をお読みになることがあるとしたら、 私からあなたに伝えたいメッセージは 「あなたの手紙を読みました」ということです。 他にも語ることはいろいろあったとしても、それらは全て些細なことです。 些細なことに気をとめられるような、余裕のある人どうしで語られることです。 あなた自身に、どうしても伝えたいことは、 私もまた、あなたの手紙を読みました、ということ。 あなたの手紙を読み、 あなたの苦しみに、慄然としています。 周りじゅうから自分の全てにだめ出しをされている子が、それが死にたいほど辛いと言ったときに、理由が何であれ死んじゃいけないなんて一般論をもってさらにダメを出すのが、なにか救いになるのかどうか。そのダメ出しもまた彼へのいじめの片棒担ぎなん
府南部の病院まで新生児搬送。もともとその病院からの母体搬送でお預かりした赤ちゃんであった。当院で生まれて急場も乗り越え、退院までの目算が立ってきた。今では自宅から遠くて御両親の面会もままならないのが最大の問題。退院後に外来に通うにしても、生活圏内の病院のほうが何かと便利。何やかやの事情で、もとの病院へ送り届ける。業界用語ではバックトランスファーと言う。 今日は快晴。月末にしては交通量も少なく、滑らかに走れた。気持ちよいドライブ日和。ふだんの新生児搬送は、たいがい呼ばれて出向いて赤ちゃんを引き取って帰るんだが、往き道はまだ見ぬ赤ちゃんの状態が気になってしかたがないし、帰りは病態の落ち着かない赤ちゃんを実際に乗せてるわけで、往復とも緊張のしっぱなしである。今回は自分の責任で病状を落ち着かせた赤ちゃんだから、乗せてても余裕だ。帰り道に至っては空車である(さすがに鈍行で帰ったが)。ゆとりが違う。
奈良の妊婦死亡、産科医らに波紋 処置に賛否両論なる記事が本日の朝日新聞に載った。書かれていることは、まっとうだと思った。書かれてあることは、だ。たしかに、捜査には不安を持ってる。拮抗してるとは決して思わないけど、賛否両論たしかにある。行政に対する批判も大きい。 でもね、この記事に、書いてないことがありやしないか? 「6時間”放置”」はどうなったんですか?「1時間以上放置」に修正しただけですか?引用符を取り払っちゃって大丈夫なんですか? 私らが不安がってるのは、捜査だけではない。こういう浅慮かつ扇情的に報じられる報道もまた、私は大変に不安である。朝日新聞は、自分たちの記事が医療を追い込んでいるという自覚があるんだろうか。いつまでしらばっくれて、無色無臭の傍観者の振りをしているのだろうか。自分たちの報道が歴史の方向を変えるくらいの力があるという自覚を、なぜ持てないのだろうか。 端的に言って、朝
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