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『冥闇』に続くギリアン・フリンの新作『ゴーン・ガール』の主人公は、ともに30代のニックとエイミーという夫婦だ。ふたりは5年前にニューヨークで出会い、夫婦になった。ニックは雑誌のライターで、エイミーは女性誌向けのクイズを作る仕事をしていた。ところが、経済危機や電子書籍の隆盛によって、夫婦はともに仕事を失ってしまう。 そこで2年前、ふたりはニックの故郷であるミズーリ州の町カーセッジに転居した。ニックの父親がアルツハイマー病に冒されているという事情もあった。しかし、都会育ちのエイミーにとって、田舎の生活は退屈きわまりないものだった。そして迎えた結婚5周年の日、エイミーが突然、謎の失踪を遂げる。家には争った形跡や血痕があり、確かなアリバイのない夫ニックに嫌疑がかけられる。 但し、これは前半部分を簡単にまとめた記述であって、独特の構成で綴られる物語には伏線らしきものが散りばめられている。前半では、ニ
80年代のアメリカSFの新しい波 ”サイバーパンク” が、アメリカのみならずヨーロッパや日本でも大きな話題になっている。この話題の起爆剤となった作品といえば、もちろんウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」。 ギブスンの作品はその後も、短編集「クローム襲撃」、長編「カウント・ゼロ」が異例の速度で次々と翻訳出版されている。 そしてもうひとり、壮大な宇宙SF「スキズマトリックス」を代表作として、ギブスンとともにこのムーヴメントを牽引し、 サイバーパンクの作家たちのアンソロジー「ミラーシェード」をまとめるなど、理論的な中核を担っているのが、ここに登場するブルース・スターリングである。 サイバーパンクとは何か。これは現在進行中のムーヴメントであり、その実体を端的に説明するのは容易ではない。たとえば、カルト・ムーヴィーとなった「ブレードランナー」に描き出された世界。 確実に日常へと侵食するハイテク
■■服部君射殺事件と『サバービアの憂鬱』の接点■■ 1992年10月17日にアメリカのルイジアナ州バトンルージュ郊外で、ハロウィンパーティに出かけた日本人留学生・服部剛丈君が訪問する家を間違え、射殺された事件は、筆者にとって非常に気になる事件だった。それは、筆者が書きすすめていた『サバービアの憂鬱』という本の内容とこの事件の背景に、深い接点があるように思えたからだ。そしてつい最近(1993年11月)、やっと『サバービアの憂鬱』を出すことができたので、この本に対するささやかな加筆の意味も込めて、服部君の事件をきっかけに考えたことを書いてみたい。 最初に『サバービアの憂鬱』の内容を簡単に紹介しておくと、“サバービア(Suburbia)”という言葉には、郊外住宅地や郊外居住者、あるいは郊外住宅地における生活様式といった意味がある。具体的には、スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』や『E.T
サバービア、ゲーテッド・コミュニティ、刑務所 ――犯罪や暴力に対する強迫観念が世界を牢獄に変えていく 文:大場正明 「ロサンゼルス・サウスセントラルやワシントンDCのダウンタウンのように、実際に街での暴力事件が急増した場所であっても、死体の山が人種あるいは階級の境界を越えて積み上げられることは滅多にない。だがインナーシティの状況について直接肌で感じた知識を持ち合わせていない白人中産階級の想像力の中では、認識された脅威は悪魔学のレンズを通して拡大されるのだ」 ――マイク・デイヴィス『要塞都市LA』より アメリカでは第二次大戦後から50年代にかけて、激しい勢いで郊外化が進んだ。その背景には様々な要因がある。連邦政府は、戦後の深刻な住宅不足を解消するために財源を住宅政策に注ぎ込み、家が安く手に入れられるようになった。テレビという新しいメディアが急速に普及し、娯楽の中心となった。大量消費に支えら
顔を白く塗り、白いドレスを身にまとい、横浜の街角にたたずむ〝メリーさん〟。横浜の人間であれば誰もが、娼婦として生き、伝説にもなったこの老婆のことを記憶していることだろう。横浜生まれの筆者は、彼女が仮の住処にしていたビルの近くに住んでいることもあり、よく目にしていた。そのメリーさんは、いつの間にか街から姿を消していた。 中村高寛監督のドキュメンタリー『ヨコハマメリー』は、メリーさんを題材にしているが、必ずしもメリーさんの物語ではない。 「最初は、周りからすごく反対されました。当人がいなければ成立しないじゃないかと。でも私は、メリーさんが居なくなる前は、作品を撮ろうなんて気持ちはまったくなくて、居なくなったことによって興味がわいた人間なんです。本人が出てきて人生を語るのでは、それだけの小さなものになってしまう。メリーさんと関わりがあった人たちが語るからこそ、そこに横浜とか歴史が見えてくるのであ
このルイス・ファラカンについては、「ルイス・ファラカンとスパイク・リー――あるいは“ミリオン・マン・マーチ”と『ゲット・オン・ザ・バス』」で言及している。ネイション・オブ・イスラムの指導者ファラカンは、80年代の特に後半、黒人社会の二極化の進行とともに、黒人のスポークスマンとして大きな注目を浴びるようになっていた。 ■■変化していくプレシャスとファラカンの距離■■ 小説『プッシュ』では、主人公プレシャスとファラカンの距離の変化が、物語の重要なポイントになっている。プレシャスは、ファラカンを尊敬し、心の支えにしている。だから、2人目の子供が生まれたとき、この男の子にアブドゥル・ジャマール・ルイス・ジョーンズという名前をつける。ルイスは、ファラカンからとられている。しかし、レイン先生と出会い、彼女から様々なことを学ぶに従って少しずつ変化する。 「学校で、『カラー・パープル』よんでる。あたしには
フィリップ・K・ディックのSF小説には、火星の植民地やパラレル・ワールド、タイム・トリップ、アンドロイド、予知能力といった通俗的なアイデアが散りばめられている。だが、そんな未来の物語を安易に楽しむことはできない。彼の小説では常に、揺るぎないものに見えた現実が崩れ去っていく。しかもそれは、未来のように見えて、実は私たちを取り巻く身近な世界で起こる悪夢なのだ。 50年代に執筆に専念するようになったディックは、SFよりも主流小説で成功することを望み、10本以上も作品を書いたが、生前に出版されたのは『戦争が終り、世界の終りが始まった』だけだった。彼が遺した主流小説には、郊外化や大量消費によって変貌を遂げていく50年代のカリフォルニアの日常や風俗が生き生きと描き出されている。それらが評価されていれば、リチャード・イエーツやジョン・チーヴァーのような作家になっていたかもしれない。 ディックはSF作家の
監督、脚本、主演、音楽をひとりでこなした映画『バッファロー'66』が話題のヴィンセント・ギャロは、実にユニークな経歴の持ち主だ。 1961年、ニューヨーク州バッファローに生まれたギャロは、16歳で故郷を後にし、ニューヨークのアンダーグラウンドの世界に飛び込む。 以来彼は、ミュージシャンとしてバスキアとバンドを結成し、画家として個展を開き、プロのバイクレーサーになり、俳優としてエミール・クストリッツァやアベル・フェラーラの映画に出演し、 モデルとしてCFに登場し、ハイファイ機材の批評も手がけるなど、多彩な活動を繰り広げている。 『バッファロー'66』は、彼がそのマルチな才能を映画という表現に凝縮した作品といえる。 ギャロはこの映画の成功によってこれまで以上に注目を集め、時の人となった観があるが、そんな彼が感情をむき出しにして批判するのが"トレンディー"映画だ。 「オレが嫌いなのは、ハーモニー
自分が生まれ育った場所でもあるニュージャージーのサバービアを舞台に映画を撮りつづけるトッド・ソロンズ。彼の作品の鍵を握るのは常に人間同士の違いだ。登場人物たちは、男女、大人と子供、美醜、階層や貧富、人種、異性愛と同性愛、健常者と障害者、才能や名声などが生み出す境界をめぐって、違いに憧れ、違いに苦しみ、違いを求め、違いを憎悪し、違いに翻弄され、悲惨であると同時に滑稽にも見える状況に陥っていく。 新作の『おわらない物語-アビバの場合-』は、ソロンズの出発点となった『ウェルカム・ドールハウス』のヒロインだったドーンの葬儀から始まる。従姉のドーンがレイプされ、自分の分身が生まれてくることに耐え切れずに自殺したことを知った幼いヒロインのアビバは、自分が彼女と違うことを身を以って証明しようとする。だが、12歳で妊娠にこぎつけたものの、母親から中絶を強要される。それでも諦めきれない彼女は、手術が失敗した
テレンス・マリック監督の記念すべき処女作『地獄の逃避行(BADLANDS)』(73)では、こんな物語が綴られていく。 50年代末のサウスダコタ州フォート・デュプレ。ゴミ清掃員として働く25歳のキット(マーティン・シーン)が、ポップスと映画の雑誌が大好きな15歳のホリー(シシー・スペイセク)と親しく付き合うようになる。 やがてキットはホリーとともに町を飛び出す決意を固めるが、彼女の父親がふたりの前に立ちはだかる。キットは、彼を警察に突き出そうとした父親を射殺し、家を焼き払い、逃亡の旅に出る。 キットは、 自分が罠にはまった人間であると信じ、彼の行く手を阻む警官や友人を次々と殺害していく。ホリーは、それがまるで映画のなかの出来事であるような気分で、キットについていく。彼らは車で中西部を走り抜け、モンタナへと向かう。 しかし警察のヘリに発見され、ホリーは投降し、キットも逃亡の末、逮捕される(実は
ロバート・レッドフォード監督の新作『クイズ・ショウ』には、50年代のアメリカに関する非常に興味深い題材が取り上げられている。この映画に描かれるのは、50年代後半に実際に起こったあるクイズ番組のスキャンダルの顛末である。簡単にいえば、"やらせ"ということだが、その事件に"全米を震撼させた"というような形容がそえられていたら、 読者は一体どんな事件を想像するだろうか。もしかしたら、映画の宣伝のための大げさなコピーだと思うかもしれない。 ところが、たとえばデイヴィッド・ハルバースタムが93年に発表した『The Fifties』では、この事件が大きくクローズアップされている。その記述によれば、不正が発覚したとき、当時の批評家たちは、この事件を"アメリカの無垢な時代の終焉"と表現し、ジョン・スタインベックは政治家アドレイ・スティーヴンスンに怒りの手紙を送りつけたという。 しかも、ハルバースタムは、こ
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ・インタビュー 03 Interview with Jean-Pierre et Luc Dardenne 03 『イゴールの約束』のイゴールと父親、『ロゼッタ』のロゼッタと母親、『息子のまなざし』のオリヴィエと彼の息子の命を奪った少年。これまでのダルデンヌ兄弟の作品では、若者とその親の世代の関係が、ドラマのなかで重要な位置を占めていた。そんな世代への関心は、彼らのバックグラウンドと無縁ではない。兄弟は、労働者のコミュニティで成長し、その変化を目の当たりにし、そして今でもそこを舞台に映画を作り続けている。 「かつては労働運動が、社会全体とはいわないまでも、社会的な関係のストラクチャーを決定していたといってもいいでしょう。私たちは労働者階級の出身ではありませんが、当時は確かに労働運動が社会環境をすべてのレベルで決めていたと思います。ところが70年代にそれ
デイヴィッド・フィンチャーは、MTVやCMの世界から劇映画に進出してくる映像派といわれるような監督たちのなかでもかなり異彩を放っている。監督デビュー作の『エイリアン3』では、 ヒロインの肉体にエイリアンの幼生を埋め込むことによって、ヒロインとエイリアンとの壮絶な死闘というシリーズの図式を大胆に塗り替え、内面の葛藤と犠牲の物語を作り上げた。 続く『セブン』にも、 まったく異なる設定であるにもかかわらず、これに共通する展開が盛り込まれている。七つの大罪を模した殺人を繰り返す凶悪犯を追いつめるかに見えた刑事は、周到に仕組まれた罠におちているだけではなく、 その内面に憤怒の大罪という敵を埋め込まれ、凄まじい葛藤を強いられることになるからだ。 フィンチャーのユニークなところは、単にドラマを斬新な映像感覚で表現するだけではなく、主人公の内面に迫り、そこに蠢く衝動や葛藤をも映像化しようとする野心にある。
神(特にイスラム教のアラーの神)に自分の作品を捧げるラッパーはそれほど珍しいものではないが、最近、『COMING DOWN LIKE BABYLON(バビロンの如く滅びゆく)』というラップ・アルバムをリリースしたプリンス・アキームの場合には、その事情がちょっと異なる。 アキームは、ラッパーであると同時に、〝ネイション・オブ・イスラム〟の指導者ルイス・ファラカンから青年部代表に選ばれた人物でもあるからだ。 ネイション・オブ・イスラムについて簡単に説明しておくと、これはアラーの予言者と称するエライジャ・ムハマッドによって1932年にデトロイトに創設された組織である。エライジャ・ムハマッドが登場した30年代は大恐慌の時代で、仕事に関していえば一番最後に雇われ、 最初に切られる立場にある黒人、あるいは、常に暴力の危険にさらされている黒人たちにとって、白人が悪魔で、その悪魔に対する自警を目指すという
この本の最初から書いてきた郊外の現実は、ジョン・チーヴァーの小説をとおしてだいぶリアルで身近な具体性をおびてきたのではないかと思う。また同時に、郊外に対する関心も広がってきたことだろう。いったい郊外のコミュニティは何を作り、どこに向かおうとしているのか。個人の存在は、どうなるのか。アメリカン・ファミリーの幸福とは何なのか。 60年代に入るとチーヴァーの作品ばかりではなく、郊外の中流を描く小説もだんだん数が増えてくる。この章では60年代に発表されたそうした作品のなかから、異なる作家の作品を何本か取りあげてみたいと思う。どれも郊外を描く作品とはいえ、郊外化の始まりからある程度時間が経過し、しかも作家が異なるだけに、50年代を振り返るものや主人公がユダヤ人であるものなど、さまざまな視点から郊外の世界が見えてくることになる。 最初に取りあげるのは、1926年生まれの作家リチャード・イェーツが196
マカロニ・ウエスタンのサウンドを決定づけたエンニオ・モリコーネの作品集「復讐のガンマン」、ハードボイルド作家ミッキー・スピレインを題材にした「スピレーン」、ソニー・クラーク、 ケニー・ドーハムなど50年代のハード・バップ・ナンバーをリズム・セクションなしのトリオで演奏する「ニュース・フォー・ルル」、玖保キリコのアニメの音楽を手がけた「シニカル・ヒステリー・アワー」、 フリー・ジャズのイノベーター、オーネット・コールマンの作品群にハードコアなアプローチを見せる「スパイVSスパイ」。 ジョン・ゾーンというと、とかく前衛とかマイナーというイメージが先にたち、マニアのためのミュージシャンと見られがちだが、こうして彼がこの数年間に次々と発表してきたユニークな作品を羅列してみると、 誰もが何らかの興味をそそられることだろう。また、彼はこの数年、東京とニューヨークに半年ずつ暮らすという生活を送り、日本の
title author genre country ■ ゲイの浸透と新しい家族の絆――デイヴィッド・レーヴィット、A・M・ホームズ、マイケル・カニンガム ■ 90年代のサバービアと家族を対照的な視点から掘り下げる ――カニンガムの『Flesh and Blood』とホームズの『The End of Alice』をめぐって ■ 中道化と個人主義のサバービアはどこに向かうのか ――ムーディの『Purple America』とホームズの『Music for Torching』をめぐって ■ サバービアの理想的な主婦像と表層や秩序に囚われたコミュニティ ――ウォーターズの『シリアル・ママ』とハミルトンの『A Map of the World』をめぐって ■ サバービアにつづくハイウェイ上の孤独――路上の物語から浮かび上がる郊外生活の歪み ■ アイルランドの厳しい生活と家族の重さ ――
ガジェットが氾濫し、複雑に入り組む物語のなかで現実が揺らぎ、形而上的な観念の世界が広がっていくディックの小説を映画化するのは簡単なことではない。しかも映画の場合には、自主制作ででもない限り、小説よりもわかり易さや娯楽性が要求される。 そんななかで、脚本家や監督、その他のスタッフがディックの小説に共感し、そこから映画として何を描くのかというヴィジョンを明確にし、創造的な映像世界を構築していくのは、かなり難しいことだといえる。 『ブレードランナー』(82)は間違いなく優れた映画だが、それは必ずしも『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の映画化として優れていることを意味するわけではない。この映画の場合は、ディックの世界に共感するというよりは、 原作なかにリドリー・スコットやシド・ミード、ダグラス・トランブルたちの感性を集約するのに適した設定があり、原作とは異質な、独自の美学に貫かれた世界を構築す
ロスト・チルドレン La Cite des Engants Perdus / The City of Lost Children ジュネ&キャロのコンビにとって5年ぶりの新作となる「ロスト・チルドレン」は、いかにもこのコンビらしいとんでもなくユニークなアイデアがふんだんに盛り込まれ、実に見どころの多い作品になっている。 歴史を感じさせる古びた町並みが迷宮を作る港町、その沖合に屹立するゴシック的な雰囲気を漂わせる実験室。闇に包まれ、怪しい月の光に浮かび上がるのは、時間の流れがよどんむレトロで近未来的な世界だ。 そこには、6人がまったく同じ容姿をしていたり、夢を見ることができないために急激に老化がすすむクローン人間、水槽のなかで生きつづける頭痛持ちの脳、自ら盲目となり、 特殊なレンズでできた第三の目を装着することによって隠された現実を暴こうとする狂信的な〝ひとつ目教団〟、孤児院を隠れ蓑にして、
アメリカ文学においてミニマリズムと呼ばれた表現スタイルは、80年代に入ってある種のトレンドとしてあっという間に広がり、消費され、気がついてみると軽蔑や批判の対象になっていたという印象がある。それはともかくとして、ミニマリズムの作家といわれるレイモンド・カーヴァーやアン・ビーティ、あるいは、もっと新しい世代に属するデイヴィッド・レーヴィットなどは、その作品が次々と翻訳され、日本でもよく知られている。 本書は文学の専門書ではないので、ミニマリズムの定義といったお堅い話ははぶくが、いまあげたような作家たちの作品では、アメリカの中流階級のごくごく身近な日常が描かれる。第8章のアップダイクの紹介のところで、「アメリカの大部分の小説家が、中産階級をリアリティを持たぬ不毛の領域と見なしていると思われる時代において、彼(アップダイク)は中産階級の生活はアメリカ文学で一般に認められている以上に複雑であると主
ジョン・ウォーターズといえば“バッド・テイスト”で有名な監督である。彼は、エッセイ集も何冊か書いていて、そのうちの1冊『クラックポット』は翻訳もされている。このエッセイ集は、ウォーターズのロサンジェルス案内から始まるのだが、そのなかにこんな記述がある。 LAまでの航空チケットなど安いものだ。必ず窓ぎわの席を取るように心がけよう。そうすれば、地平線の果てから果てまでべったりと広がるこの郊外住宅地の眺めに胸おどらせ、そこに地震が起きるさまを空の上から想像し、悦に入ることができる。それもセンサラウンドで。 この文章から、郊外住宅地に対する悪意を読みとることはたやすい。ウォーターズもスピルバーグと同じように、新しい郊外の世界で成長した郊外の子供の最初の世代に属している。そのウォーターズの生い立ちについては後でふれることにして、ウォーターズの映画にあまりなじみのない人のために、まずはバッド・テイスト
ヒロインのエリカは、ピアニストになるために子供の頃から母親の厳格な指導と管理のもとにおかれてきた。しかし、コンサート・ピアニストになるという母娘の夢は叶えられず、エリカは自責の念に駆られながらも、ウィーン国立音楽院のピアノ教授をつとめている。 母親と二人で暮らすエリカは、いまだに彼女を束縛しつづける母親から逃れるため、ポルノ・ショップに通い、覗きに耽っている。そんな彼女は、ピアニストとしての才能に満ちた工学部の学生ワルターと出会い、心が揺れだす。 スタンリー・キューブリックはその作品のなかで、マチズモ(男性優位主義)がいかに制度化され、男たちの本能や欲望を規定し、そして女の前にそのもろさを露呈するかを描いてきた。挑発的なスタイルで異彩を放つミヒャエル・ハネケ監督のこの新作では、エリカという女を主人公に、そのマチズモという主題が掘り下げられていく。 厳格な母親のもと、異性との交際も含めすべて
ポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』の冒頭には、こんな一文が浮かび上がる。「この映画は1986年から1991年の間、軍事政権のもと民主化運動に揺れる韓国において実際に起きた未解決連続殺人事件をもとにしたフィクションです」。映画のもとになったのは、「ファソン華城連続殺人事件」。86年から91年にかけて、ソウルから南に約50キロ離れた農村の半径2キロ以内で起きた10件に及ぶ連続強姦殺人事件だ。その捜査には180万人の警官が動員され、3000人の容疑者が取り調べを受けたという。 映画は、86年10月、稲穂が頭をたれ、子供たちが戯れるのどかな農村の風景から始まる。だが、広々としたその田の用水路から、手足を縛られ、頭部にガードルを被せられた若い女性の死体が発見され、やがて連続殺人事件に発展していく。事件の捜査の先頭に立つのは、地元警察のパク刑事とソウルからやって来たソ刑事。叩上げの経験と強引な手段で勝負
その背景を考えてみると非常に興味深い映画や音楽などが、日本に入ってくると途端に表層だけのファッションと化してしまうというのは珍しいことではない。なかでも最近、特に筆者が気になったのは、 ダニー・ボイルの『シャロウ・グレイヴ』と『トレインスポッティング』、そして、ケン・ローチの『大地と自由』の扱いである。 本誌前号(「骰子/DICE」17号、96年11月)では、レヴューに『シャロウ・グレイヴ』があり、クロス・レヴューに他の二本が肩を並べているというように、これらの作品はほぼ同時期に公開されている。 が、本誌に限らず筆者が知る限り、どこからもイギリス社会をめぐる彼らの作品の深い結びつきが浮かび上がってきていない。 というよりもそれ以前に、それぞれの作品の背景すらまともに認識されてはいない。 『トレインスポッティング』がブームとなると、その特集はボイルや原作のウェルシュ、ブリット・ポップ一辺倒と
現代のクリスマスは、その商業化も手伝って世界的な祝祭となりつつある。インターネットで christmas.com (※この原稿をアップする時点では接続不能になっていた)という英語のサイトを覗いてみると、200カ国以上の国々のクリスマスに関する情報が集められている。このサイトは各国の伝統や習慣の違いを知るうえでとても参考になるが、 日本のクリスマスについてはとんでもない情報が寄せられている。ツリーの飾りに関する説明のなかに唐突に千羽鶴が出てきたり、女性はクリスマスに着物を着るというような記述が出てくるのだ。 もしかすると日本に初めてクリスマスの習慣が入ってきた頃には、そんなこともあったのかもしれない。そういうイメージからすれば、現代の日本人は、ツリー、サンタクロース、料理など欧米人が見てもそれほど違和感のないクリスマスを祝っている。それだけ欧米のクリスマスの習慣が浸透しているということだが、
中国映画界から現れた新鋭賈樟柯(ジャ・ジャンクー)。彼の長編デビュー作である『一瞬の夢』の魅力は、まず何よりも今日の中国社会を見つめる現実性と映画的な創造性の高度な融合にあるといえる。 この作品では、開放政策によって急激に変化する社会がドキュメンタリー的な視点でとらえられていると同時に、人物の感情や心理が独自の映像表現で鋭く掘り下げられ、 個人の在り方に対する覚醒をうながす鮮烈なドラマにもなっている。そんな作品に接して筆者がまず興味をそそられるのは、賈樟柯がどのような模索を経て、 このふたつの要素が自然なかたちで融合するスタイルにたどり着いたのかということだ。 70年、山西省・汾陽生まれの賈樟柯は、陳凱歌(チェン・カイコー)監督の『黄色い大地』を観て衝撃を受け、映画を志すようになったという。 それはあくまできっかけであり、『黄色い大地』と彼の長編デビュー作のスタイルがまったく違っていても何
筆者が初めてこの小説を読んだとき、すぐに頭に思い浮かんできたのは、スパイク・リー監督の映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』のことだった。 この映画はスパイクの監督としての地位を不動のものにしたばかりか、映画の枠を越えて社会現象ともなったが、『インディアン・キラー』にはこの映画に通じる構造と衝撃があった。 『ドゥ・ザ・ライト・シング』には、黒人街のことを〝猿の惑星〟と呼ぶような人間はいても、致命的な惨事を引き起こす差別意識と行動力を備えた人間は誰もいない。 ところが、耐えがたい猛暑のなかでそれぞれに〝正しい事(ライト・シング)〟をしていると信じている彼らのその正しい事が少しずつ増幅していくと、致命的な差別が存在しないにもかかわらず、 結果だけを見れば、非常に単純で図式的な人種差別という認識で語られてしまうような事件が巻き起こってしまう。そんなふうにしてスパイクは世界に対する覚醒を観客にうながすの
オウム真理教が地下鉄サリン事件を引き起こし、全国の教団施設に強制捜査が入ったのは95年のこと。それから10年が経とうとするいま、オウムを題材にした『カナリア』を撮った塩田監督にまず確認すべきなのは、彼の中で事件がどのように記憶され、関心の出発点になっていたのかということだろう。 「事件が起きた時、親近感というと語弊がありますが、同世代のとんでもない事件をリアルに実感できるという感じがありました。オウムの幹部はほとんど年齢が同じでしたし、当時は世田谷道場の近くに住んでいたこともあって、日常的に彼らを見ていて、彼らが配る冊子を読んでもいました。それで、事件以前に多少の関心を持っていた教団が、こういう事件を起こしたことに驚きもありましたが、一方でそういうことが起きるような気もしたんですね。当時はまだ映画監督でもなく、脚本を書いている時期だったんですが、このことについて映画の側から答えなければいけ
イギリス映画が世界の注目を集め、日本でもコンスタントに新作が公開されている。そうした作品を観ながら、筆者がいつも思うのは、サッチャリズムが社会を大きく変えたことが、映画に興味深い主題を提供しているということだ。 サッチャリズムというと、日本では規制緩和や行政改革などをめぐる議論のなかでその手本として参照されることが多く、関心が限られている印象を受けるのだが、イギリス映画からは実に多様な視点を通してサッチャリズムが見えてくるのだ。 たとえば、この数年のイギリス映画ブームの火付け役となった『トレインスポッティング』(96年)。スコットランドのエディンバラを舞台に、ドラッグに溺れる労働者階級の若者たちの悲惨な青春を、 クールでスタイリッシュに描いたこの映画の冒頭には、主人公レントンのこんなモノローグが流れる。 「人生を選べ、キャリアを選べ、家族を、テレビを、洗濯機を、車を、CDプレイヤーを、電動
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