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夏の料理
d.hatena.ne.jp/KANAH0
note 第一部 アナクロニズムの考古学 〇第一章 原型 − イメージ 美術史、そして類似の系譜学(pp.53-76) 美術史が扱うもの:論理的選択の基づく(類似の)関係 関係こそが美術史の対象(「イメージ」や「肖像」など)に生命や意味を与える 類似という関係:美術史を超過してしまうほど本質的なものであり、対象や形象の理解に基本的な立場を保証、美術史の認識領野を支える (…)美術史が言説として成立するまさにその時点において、この類似なる関係の内容を評価する必要があるだろう。この時点とはどの時点であろうか。それはある一つの時点ではありえず、むしろ複数の時点からなる体系であることを、とおりあえず確認しておこう。他の分野でも同じことだが、この分野における「原初的な起源」の探求などはやめておこう。絶対的な源泉など存在しない。形象芸術を論じたギリシア文献はいまやほとんど残っていな
写真-イメージについて、そしてイメージを超えたところにいる、みえない他者へ向かって展開されるソンタグの美学=倫理的思考の白眉。5・6章からの引用。 描かれたイメージが恐ろしさに欠け、具体的に詳細が描き込まれていないことをレオナルド[ダ・ビンチ]は心配している。憐れみは、もしアリストテレスが言うように、不当な不幸に耐える人間にたいしてのみわれわれが抱く感情であるならば、道徳的判断をともなうだろう。だが憐れみは悲劇的な不幸を扱う演劇において、恐れと対になるのではなく、恐怖によって薄められ、ぼやかされ、その一方で恐れ(不安、怯え)は普通憐れみの感情を消し去る。レオナルドは、画家の視線が文字通りの意味で無慈悲であるべきことを示唆している。描かれたものはぞっとさせるものでなければならず、その恐ろしさのなかに、挑戦的な美が存在するのだと。(p.73) 変貌は芸術の営為である。しかし不幸や不正の目撃証
[目次・構成] 序 第一章 近代性と注意の問題 一九世紀になぜ注意が決定的に新しい問題となったのか どのようにして注意の問題が知覚の哲学的、心理学的、美学的探求と切り離せないものになったのか 注意を経験的に説明し操作可能なものにしようとした多くの前例がなぜ失敗したのか 第二章 一九七九年──拘束なき知覚 第三章 一八八八年──脱魔術化のイルミネーション 第四章 一九〇〇年──綜合(ジンテーゼ)の再創出 第二章から第四章にかけて 知覚と近代化との相関関係の問題を考察するために、一九世紀の最後の数十年を暫定的な図式によって示す (一八七九年から一九〇〇年代にいたるまで年代別に検討するが)ここで提示するのは非連続性、つまり歴史の連続に切れ目を入れることである 総体的に自律した三つの分析が示される──拘束なき知覚・脱魔術化のイルミネーション・綜
clip 微視的物理学の研究には次の点が課程されている。そこで行使される権力は(…)一つの戦略として理解されるべきであり、その権力支配の効果は、(…)素質・操作・戦術・技術・作用などに帰せられるべきであること。その権力のうちにわれわれは、(…)つねに緊迫しつねに活動中の諸関連がつくる網目を読み取るべきであり、その権力のモデルとしてわれわれは、(…)永久に果てない合戦を考えるべきであること。要するに次の点を承認しなければならない、その権力は、所有されるよりむしろ行使されるのであり、支配階級が獲得もしくは保持する《特権》ではなく支配階級がしめる戦略的立場の総体的な効果である──被支配者の立場が表明し、時には送り返しもする効果である(…)。他方この権力は、《それを持たざる者》に、ただ単に一種の義務ないし禁止として強制されるのではない、その権力は彼らを攻囲し、彼らを介して、また彼らを通して貫かれる
readingベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)作者: ヴァルターベンヤミン,Walter Benjamin,浅井健二郎,久保哲司出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 1995/06メディア: 文庫購入: 4人 クリック: 50回この商品を含むブログ (66件) を見る [目次] 凡例 言語一般および人間の言語について * ゲーテの『親和力』 * アレゴリーとバロック悲劇 * パリ──十九性器の首都 セントラルパーク ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて * シュルレアリスム ベルト・ブレヒト 叙事演劇とは何か 写真小史 複製技術時代の芸術作品 * 歴史の概念について 解説 ──── ■関連はてなダイアリー id:nakamurabashiさん「「大量複製業者」の時代の終わり」 http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/
福島原発の件について、いくつかのことを考える。しかしそれについて直接的に思考することは今現在の私にとってはあまりにも難しいことであり、あらゆる軽率さは厳しく批判されるにしかるものであり、それについて書くことができないのは遺憾です。 しかし、先日行われた二つのUstream中継、すなわち2011/04/23 シンポジウム「美学vs.現代アート」(Ust:http://www.ustream.tv/channel/kitanaka-school )と「4月28日: 大友 良英先生「文化の役目について-震災と福島の人災を受けて-」」(Ust:http://www.ustream.tv/channel/芸術情報特論:title=http://www.ustream.tv/channel/芸術情報特論] )を並べて見返して、考えることがいくつかありました。 特筆するべきひとつの事柄は、やはり「当事者
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