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パリ五輪
d.hatena.ne.jp/marita
去る5月26日に、池袋(西武池袋本店イルムス館9F池袋コミュニティ・カレッジ25番教室)で行われた東浩紀と笠井潔と海猫沢めろんによる鼎談「新本格からセカイ系へ、そしてゲーム的実存へ!?」を観に(聞きに)行ったのだった。そこで印象の残ったことなどを、ごく簡単にだが、まとめておくことにする。まあ、あくまでも自分用のメモのつもりだから、精密なレポートを目指してはおらず、また記憶を頼りにしたものなので、もちろん進行どおりの記録というのではなく、発言者の用いた言葉に忠実ではない個所や可能性があることを、あらかじめ述べておきます。 対談集である『コンテンツの思想』刊行イベントというかたちではあったが、どちらかというと、『ゲーム的リアリズムの誕生』の内容に沿ったものであったと思う。また全体的には、新書『動物化する世界の中で』を読んだときと同じく、東と笠井の議論は、いまいち噛み合っていないようにも感じられ
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■[MEMO]「98年組」はあるか 「98年組」というのはあるか、といえば、おそらくは、ある。では「98年組」というのはいったいどのようなものなのか。小説家の古川日出男は、『すばる』3月号(先月号)に載っている、翻訳家である柴田元幸との対談「イッツ・オンリー・ロックンロール文学」のなかで、次のようにいっている。 ロックに寄った話を少し。個人的に日本のロック・シーンというのは七、八年前に突然変わったと思っています。強引にとらえると自分がデビューしたころなんですが、全くナチュラルに聞えるロックンロールが日本に生まれ始めてびっくりしました。それは今も続いています。 (略) そのナチュラルな感じというか、憧れをなくして、境界がなくなっていく、ロックンロールに起きたことと、自分がやってきたことは近いと思います。僕のデビューが九八年だから、勝手に「九八年組」と名づけているんですけれど。 「イッツ・オン
■サブ・カルチャー的な「私」としての僕たち。 その13-a すでに多くの場所で言及されていると思うが、「まえがき」によれば〈マンガ表現のシステム論的解析〉となる『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ』という本のなかで、伊藤剛は、マンガという表現において、身体を読み手に意識させる要素の、その在り方あるいは立ち方を、「キャラ(Kyara)」と「キャラクター(character)」の二項に分割している。 〈「キャラ」を定義するとすれば、次のようになる〉と伊藤はいう。 多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』 また〈一方「キャラクター」とは〉として、以下のような定義を行う。 「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」
■『ロッキング・オン』的な、あまりにも『ロッキング・オン』的な。 ここ最近の文芸誌のなかで、僕がとくに興味深く読んでいる連載は、『文學界』での前田塁「小説の設計図(メカニズム)」なのであった。今月号分(11月号、第十六回)の後半では、『群像』10月号で組まれた評論特集における「11人競作評論」に、触れている。それを読んだのち感じたことを、すこし、書いておきたい。 前田は、「11人競作評論」のうちの5人までもが、その論の最後で、批評対象である小説の、その作者に対して好意的な結びを持ってきていることに向け、〈書き飛ばしたり時間に追われて、あるいは単純かつ安直な善意のもとにそのような結びをおそらくこれまでにしてきているだろうことを想像する〉と、ずばり、いってしまう。では、それらはいったいどういう結びであるのか、2例ほど挙げると、次のような具合である。 今後の彼の闘いぶりから目が離せない。 伊藤氏
ローカル・ルールという言葉がある。「はてな」のキーワードにはなっていないみたいだけれども、それというのは簡単にいえば、ある限定された空間(グループ)のなかでのみ有効な規則ということになるだろう。つまり、その条件圏外においては、まったくもって無効であるし、そのように考えるのであれば、普遍的な執行力を持っていないはずなのだけれども、いま現在、僕たちが日々を暮らしていて、もっとも束縛感を覚える、ある意味では秩序を代替する、だから他人に関しても適用したい、そういう権力となっているのが、じつはローカル・ルールなのではないだろうか。あるいは、たとえば「大きな物語」などといわれる、広域をフォローする価値観が、機能しなくなった、そのあとの世界においては、すべてのルールは、ローカル・ルールに過ぎないのではないか、と、ふと考えたりもする。が、さて、どうだろう。 ぱっとした思いつきで書きはじめたので、いつものよ
今日、村上龍は、かつてW村上と並び立たされた村上春樹に比べ、批評などの対象に取り上げられる機会がすくないような、あるいは世間一般の文学ファンが抱く関心レベルで見たとき、重要度が低く見積もられているような印象を持つ。たとえば東浩紀が持ち上げる「ブログ論壇」だか「サブカル論壇」だかをすこしチェックしてみたとき、村上春樹について触れているものならばすぐに見つけられるのに、村上龍になるとそうはいかない。このことの理由はおそらく、柄谷行人が、加藤典洋の『アメリカの影』で自分について指されている箇所への反論を含む「想像力のベース」(90年)において、すでに指摘されているといっていい。 すなわち、〈日本の一九七〇年代後半にポストヒストリカル(ポストモダン)な傾向があらわれたとしたら、その一つは明らかに村上龍にあり、もう一つは村上春樹にある。しかし、この二人は対照的である。春樹が「意味」を空無化するための
「あの、何か演奏しましょうって言っても、僕、二、三曲しか吹けないんです。クラプトンなんかどうですか?」「いいね」 お父さんがようやく言った。「素敵ね」 お母さんも言った。「じゃあ」「ティアーズ・イン・ヘブン?」 千波ちゃんが言った。そのとおり。僕はその曲しか吹けない。千波ちゃんが時々自然に口ずさむ曲。それを練習した。 瀬尾まいこ「やさしい音楽」 別れの際で、ウウウ〜とかのんびり唄ってる場合じゃないような気がする。でも歌ってのはそういう余裕を必要とするものなんだ…違う。必死のときでも、いや必死だからこそ、唄って伝えたくなるときがあるんだろう。ティアーズインヘヴンを唄うクラプトンだって、もうホント、唄うしかないんだろう。 舞城王太郎「川を泳いで渡る蛇」 エリック・クラプトンの「ティアーズ・イン・ヘヴン」がどのような内容を持っているのか、ことによると説明する必要はないかもしれない。もちろん
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